たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
朝、起き抜けにテレビ見てたら、今は昭和30~40年代がアツい!という話をやってた。映画ではALWAYS 三丁目の夕日や「幕間芸人」の人生を描く「カーテンコール」、書籍では団塊部長攻略講座(Amazon.co.jp)、他にも昭和の風景を巡るツアーとか昭和の雰囲気のある家具とか日用品とか、そんなものが今アツいんだぜ!みたいな。
いいよねこういうのって確かに。物質的に豊かになりきっちゃってて分かりやすい「幸せさ」の指標がなくなってしまった今から振り返ると、何か物足りない感じがあるくらいの時の方が、がむしゃらに頑張っていられたんだろうなあ。
まあ、それはそれでいいし、ALWAYSもカーテンコールも未見の状態で言うのもなんなんだけど、「昔は良かったなあ」で終わってしまわれても後ろ向きで困ってしまうわけで。「(昭和の思い出に夢中になる大人達に呆れながら)『懐かしい』ってそんなにいいものなのかなあ?」とか「(自殺しようとする大人達に対して)ずるいぞ!」とか辛辣な言葉を子供の口を借りて吐かせる映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲も押さえておくとなお宜しいと僕は思うのですよ。(こんな映画を4年も前に作ってしまった原監督は先見性がありすぎたと考えるのは買いかぶりすぎですか?)
自分の書いた小説なりエッセイなりを出版して売りたいという自己顕示欲のカタマリの素人作者を対象に、出版社は彼らをおだててなだめすかして出資させ、それで収入を得る、という話。出版の必要経費+手数料を素人作者から取ることで、自社の出費は書店の棚のレンタル料くらいで済ませることができ、本が売れようが売れまいが出版社はがっぽがっぽ儲かりまっせ、という感じなのだとか。
最後のリンク先で「リアル鬼ごっこ」の事がとりあげられてるけど、「親指さがし」が糞つまらんかったのは、この作家がこういう経緯で出てきた人だからだった……のかな? だとしたら結構納得。
Webで読める無料の月刊誌「COMIC SEED!」を運営していたぺんぎん書房が倒産したということを、同誌に連載されていたきづきあきら氏のblogで初めて知りました。氏の「ヨイコノミライ!」、続きが気になってたのに……
裁判官が日本を滅ぼす(Amazon.co.jp)。新潮文庫。以前出版されたものの文庫版、らしい(元のやつを僕は知らない)。
裁判官が揃いも揃って世間知らずだ、というのはだいぶ前になんかのシンポジウムで聞いた話なんだけど、まあ、通勤時の暇潰しになるかなと。
有名な仰天判決をいくつかとりあげて「オイオイ裁判官ってまともな判断力ないんちゃうんけ」とこき下ろしつつ、人権擁護のお題目で行われるメディア規制に反対する、という感じの内容。まあ、漠然と「裁判は真実を暴き正義を明らかにするものだ」と考えてる人は、これでも読んで裁判所不信・司法不信に陥ってみるのも悪くないんじゃないでしょうか。
ただ、感情的だったり恣意的だったり作為的だったりするのは言うまでもないんで、これ読んで義憤に燃えあがっちゃうのもどうかと思うわけで。
うーん、だんだん「最強伝説」というタイトルに即した内容になってきた気がする。といっても大方は黒沢の周囲の人々の誤解のせいなんだけど。笑。
自己承認の話と非モテ話とを結びつけて論じて欲しくないと言う人がいるけれども、「非モテ話」とは、ただの「女にモテない男の話」ではない。「誰からも、自分自身からすらも、一人前のヒトとして承認されない人間」を象徴する言葉として「非モテ」という単語が使われているに過ぎず、その本質は、「自己承認を得られないことで死ぬほど悩んでいる人間」についての問題なのだ。つまり、自己承認の話と非モテ話とは同じものだ。
問題は、非モテ者は自分自身による自己承認(自己愛、ナルシシズム)を確立できず、それ故に他者による自己承認(いわゆる愛)に依拠しようとしているところにある、と僕は考えている。
揺るがぬ自己愛を確立することさえできれば、彼らは非モテの悩みから解放されると僕は考えている。その点で、自らを「モラリスト」と自画自賛(※ここではこの言葉を、自分で自分を賛美するという意味で使っている)する「避モテ(女はみんなモラルがなっておらず、それ故、男の自分はそんな醜い女共にモテたいとは思わない、という一派)」は、確かに「非モテ」ではない。真性の非モテ者には自画自賛はできない。「避モテ」は「モテを敢えて避ける」というアクティブな存在だが、「非モテ」は「モテることができない」というパッシブな存在なのだ。
では、なぜ非モテは自画自賛しない・できないのか?
どれだけ考察しても論理的な答えが出ないということは、その怒りは、理によってではなく感情によって生じたものなのだろう。理によって生じた怒りはおそらく正義だけれども、そうでない怒りはただの怒りでしかなくて、それは正義でも悪でも何でもない。
ただの感情によって生じた怒りを圧殺できるのが、大人なのではないかと僕は思う。その意味で僕は大人になれない子供だと思う。