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いじめと復讐 - Oct 31, 2006

リファラで知った話。

ここまでだと「子供のうち犯罪行為をやって、大人になったら更生して、それが勝ち組ってやつだ」という以前にも書いた話の内容だけで片付くんだけど、後者の件にはこの続きがまだあった。

参考に、ちょっとぐぐって出てきた以下の2件も見た。

以下、「少年加害者保護法である少年法に守られた人間の凶行と横暴」と「キレたいじめられっ子が何かのきっかけで爆発すること」と「爆発するまで溜め込むに至る心理」と「過去の罪を大人になってから償うこと」の4つの話がごちゃごちゃになっているのだけれども。

精神鑑定書からの、会話文の引用を見て、過去の自分と心情的にも状況的にも似通った所がいくつかあるように感じた。

自分をからかい続ける「友人」。しかしその「友人」と「仲良く遊ぶ」こともある。憎むに憎みきれないがために、心の奥底で歪んだ形で恨みつらみが堆積していく。「こいつは俺をずっといじめている。なのに周囲からは受け入れられている。そればかりか俺自身すらこいつを受け入れていやがる。周囲にも俺にも受け入れられて、その上で俺をいじめるこいつが憎い。」そんな風に。だからこそ、普段の生活やちょっとしたきっかけ、通常であれば考え難いような状況下で不意に爆発する。そのとき僕の手に刃物があったら? もしかしたら殺してしまっていたかもしれない。

「いじめられっ子」は自家中毒に陥りやすいのではないかと思う。客観的にはそれほど酷くないように見えても、彼の主観では、「いじめっ子」は絶対悪であり、いじめっ子のする事はすべて悪意に基づいて行われるのであり、いじめっ子が自分に対して好意的に接するのも悪意を裏に隠した陰湿な攻撃なのであり、という風に、全てを悪い方に解釈する気がする。

刃傷沙汰になったのは、それとは別の相手で、これは一方的に僕をいじめるだけの相手だったのだけれども。実際に行動に移してるときというのは、以外と、頭は醒めていた気がする。ああ、これが当たったらあいつは死ぬだろうな、でもどうでもいいや、自分の人生もどうなったってかまわないや、とか、そういうことを、奇妙に現実感の喪失した頭で考えていた気がする。

そういう自分の体験を通して考えると、この「首切少年A」が本質的に「更生など絶対不可能な、永劫に社会的に抹殺されるべき狂人」であるとは、僕には思えなくなってくる。社会秩序維持のために事前にそういった人間を刈り取るべきなのだとすれば、僕もまた刈り取られねばならなかっただろう。そうではなく、実際に罪を犯してから後(「未遂」の段階で食い止められた場合も含めて)でのみ裁かれるべきなのであるとすれば、どうやら彼はもう「裁かれ」ているらしい。では何が問題なのか。「大人になって」から「罪を償っていない」ことが、問題とされているらしい。

過去の自分と今の自分とは人格的にまったく別の人間に変わってしまっているということは、よくあると思う。学んだことや知ったこと、悟ったことを通じて人格が徐々に形成されていく、または崩壊していく、人間という存在は、連続する人生のどの一点を切り取っても、「全く同じ人間」であるとは言えないような気がする。僕自身、過去の自分のしたことを「自分がしたこと」ではなく「どっかの馬鹿がしたこと」と感じることがある。記録を見ても記憶を掘り返してみても間違いなく自分がしたことなのだけれども、実感が喪失している。それは、当時それをした自分と、当時を想像する現在の自分との間で、何らかの点で価値観が断絶しているからではないだろうか。「弁護士A」が「被害者家族」への補償をしないというのは、道義的には問題有りかもしれないが、心情的には共感できる。

賠償金の未払があるのなら、それは払わなくてはならない。少年時代に犯した罪を親が償わされたのであれば、その子が大人になった後であろうと、「自分の監督下にある子」が犯した罪への償いなのだから、親が償わなければならない。親が死んでしまったのなら、その債務を相続した子が払わなくてはならない。相続を放棄したのなら、子は賠償の残りを引き受ける必要は無い。仮にその子が、その親の監督下にあった当時に犯罪を犯した当人であったとしても。僕は理屈で、そう思う。それ以上のこと、当人が今になって賠償をするとか、そういう法的に根拠の無い善意の行いは、ルールで定められていないのであれば、しなくてはならないというものではない、と思う。そしてまた、「しない」ことを選んで社会の非難を浴びることになったとしても、「しない」ことを選ぶ自由を行使したことの代償として、それは受けてもしかたがない(受けなくてはならない、というものでもない)と思う。

つまるところ、僕はこの「元加害者の弁護士」について、糾弾することは理屈の上でも心情的にもできない、と思うわけです。

分類:出来事・雑感, , , 時刻:16:03 | Comments/Trackbacks (0) | Edit

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