Sep 12, 2005

自分の経験と非モテタイプ

明治セックル維新 新政府御性文帖明日は選挙 - 恵司のはてなダイアリー

僕自身はこの人の「喪なのは自覚しているけれども、女性から直接的にキモイ等の侮蔑の言葉を投げつけられたことはない」という立場にかなり近い。小中学校の時には「キモッ」みたいに言われたことは結構あるんだけど、高校から上すなわち男と女というものを具体的に意識しだしてからについてはわりかし平穏だったので。これも、自分はモテ非モテ論争から距離を置くべきなんだろうか、自分に語る資格はないのではないかと思う理由。

実体験に基づく強烈なルサンチマンではなく、他人の体験談を自分のもののように感じてしまうという異様に感化されやすい性格と未知のものに対する恐怖とが結合した結果としての「自分は喪だし今後も一生喪」という認識なのだと思う。今でも、そしておそらく今後も、夏の葬列のログを見ると自分のことに思えて暗澹たる気持ちになる。ただ、誰の目から見てもモテ系な人の話には同感できないから、性根の部分では非モテもしくはそれに通じる何かが息づいているんだろうなと思う。

あ。ふと思ったけど。積極的な否定ではないにしろ、消極的にはやっぱり否定されていたと感じていた気もしてきたぞ。

僕は高校時代には、漫研で腐女子な(苦笑)先輩方に囲まれて、「男」としてすら見られない……というか「珍しい男子部員」というオモチャ、イジられキャラとしての日々を過ごしていた。事務的には、例えば「バレンタインデーやホワイトデーといったイベントにおける役回り」としては、「男」として扱われていたけれども、それは単にそういう「役回り」というだけのことであって、それ以上の認識ではなかったと思う。そもそもそういうイベント自体、彼女達自身が高校生活をエンジョイ(死語)するために敢えてやっていたという性質が強いし。

あと、女の裏話というかなんというか、女の人がフツーはあんまり「男には見せたくない」と思ってるだろう話を割とあけすけにされていたから、そこから「つまり僕はこういう話を聞かれても嫌だとは思われないような相手なんだ、ということは、男としては意識されていないんだ」と演繹できた。

この時期が、僕のこれまでの人生の中で一番長い時間「女の人とコミュニケーションを取った」時期だから、僕にとっては「女というのは彼女達のようなものだ」というイメージができてしまっているワケで。それは「女というものに幻想を抱いて過剰に美化したり持ち上げたりしない」という功の面もあったのだけれども、それと同時に、自分は「恋愛対象としての男」として女性から見られることはないのだと、この経験を通じて認識するようになったのだと今では思う。

徹底的に避けられるというのは確かに物凄く辛いと思うけど、歯牙にもかけられないというのもまた別の辛さがあるという話。

まあ多分に被害妄想なんだけれども、そういう経験が僕の人格形成に影響を与えたことは事実なんじゃないかなと思う。

あ。誤解されるとアレなんでフォローしとくと、先輩達は別に悪い人じゃあないっすよ。恨むどころかむしろ好き(人として、友人として)だし。そうでなきゃ卒業してまで闇餃子とか納豆ショコラとか妙ちきりんな遊びに興じたりなんかしませんて。

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