Sep 24, 2005

テロりながら愛されたいと願う矛盾

結局、非モテを取り巻く世界も、非モテの人自身も、臆病すぎるんじゃないのか。今までの価値観と違うものを受け入れる事への不安、今までの自分が失われてしまう事への恐怖。だから過剰反応して、非モテイジメに走ったり非モテのテロなんてことをしてしまう。どうしてそこまで頑なにならなくてはならないのだろう。

というか益田ラヂヲ氏の考えがますます一層分からなくなってきた。

詰まるところテロに走るというのは、お互いもはや理解し合うことはできないという大前提のもと、ただただ自分の気晴らしのためだけに報復するということに他ならない。

ところが氏は一方で、自分が愛されることも望んでいるという。テロをしながら愛されたいというのは矛盾している。自分に対して殴りかかってくるような人にどうして仲良くできる? 自分の知り合いに対して刃を向けるような人とどうして仲良くできる?

これを矛盾と捉えるのは、僕が、「テロに走る氏」と「愛されたいと願う氏」が一つの人格であると考えているせいだろうか。つまり、氏にとっては「愛されたいと願う氏」がリアルの人格であって、「テロに走る氏」というのはただのネタ人格、ということなのだろうか。そう考えると全てが腑に落ちる。確かに氏は実名も顔写真も晒しておらず、いつでもこれを「ネタ人格」として切り捨てて社会復帰を果たせる状態だからだ。

それに比べ、僕は実名も勤務先もこれまでの自分の活動そのものも全て晒しており、今更これらを「ネタ人格」と切り捨てることなどできはしない。ここにあるものが全て素の僕だ。だから僕は何に対してもガチンコ勝負でぶつかるしかない。「ネタですから」と逃れることができないし、許されない。

僕には、一つの名前において発言することは全体として筋が通っているのが自然だという思いがあり、誰も彼も自然にそういう状態を目指すものであるはずだという思い込みがある。これはおそらく「問題解決」について少々学んだ事があるためだろう。

「問題解決」。望む姿と現在の自分の姿とが一致していないときに感じるギャップを「問題」と定義し、そのギャップを埋めるかなくす事すなわち「解決」の方法を考え実践する、ある意味では、自己満足を最大化するためのメソッドだ。問題解決では、自分の理想はどうなのか、それに対して現状はどうなのか、その間にはどのようなギャップがあるのか、すなわち「何が問題なのか」を認識することが、最も重要な出発点だ。だからいわゆる「非モテ」は、すでに問題解決の最初のステージに立っていると言うことができる。そこまで状況が見えているのなら、あとはその「問題」をいかにして「解決」するかだけが問題だと言っていい。

問題解決の文脈における「解決」とは、文字通り「正面からぶつかって問題を解くこと」だけを言うのではない。「どうせあれは酸っぱいブドウだったんだ」と自分を諦めさせることも「解決」だし、「モテないことが何だ、俺はこの分野では誰にも負けない実績があるんだ」と他のことに走るのも「解決」だ。

何が「問題」であるか見えていて(自分という人格の承認が得られていないこと)、それに対して何が「解決」の道であるかも見えている(承認を得ること、承認は必要ないと考えを改めること、など)、にもかかわらず、問題を解決する方向ではない方向の言説ばかりが目立つ(承認を求めながら、承認を否定する)。問題を解決しようという意識が窺えないのが、どうやら、僕が氏の言説に対して抱いた違和感の正体のようだ。

あるいは、もしかしたら、これが氏にとっての「解決」なのかもしれない。問題を解決せず敢えて棚上げすることによって、非モテ活動家というポジションを手に入れ、一目置かれる、自分の置かれた状況そのものを「ネタ化」して「メタな立場に立つ」、「誰からも承認されない、筋が通らないことをしていることをもって、自分の承認とする」ことが。僕にとっては、そんな「ストレートでない」「ねじれた」解決は受け入れがたいものではあるが、だからといって、その道そのものを否定する権利は誰にもないのだ。

結局僕も、「他人の気持ち」で物を考えることなんか全然できていなかった、「自分ならこうする」という形でしか問題を捉えることができていなかった、ということか。

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