Oct 14, 2005

童貞の苦悩

童貞はなぜ、童貞であることを気に病んで苦しむのか。僕なりのまとめとしては、「劣等感」。この一言に尽きる。

  • 生物の雄としての敗北
  • 恋愛至上主義市場における敗北
  • 社会的存在としての敗北

この3つの観点で「敗北」を喫していることが、童貞の劣等感の原因だと僕は考えている。

生物の雄として

生物は一般に自己の複製あるいは子孫を遺し、個体の枠を超え、種族としての存続を図る。雄はより多くの雌と交尾して子孫を遺そうとするし、雌はより優秀な雄と交尾して子孫を遺そうとする。

この競争において、遺せた子の数が少ない者は敗者だと言える。その中でも、そもそも交尾にすら至れなかった個体は、敗者中の敗者だ。

多くの生物は、繁殖可能な時期が限られている。繁殖可能な時期に入って以降、最初の交尾までの期間が長くなれば長くなるほど、子孫を残せる可能性は低くなっていく。つまり敗者の度合いを増してゆく。よって、長く童貞でいた者、特に死ぬまで童貞でいた者は、圧倒的な敗者であると言える。

恋愛至上主義市場において

同性同士での価値を考えた場合、つまり童貞と非童貞の比較では、恋愛至上主義市場においては、童貞は非童貞に比べて不利だ。なぜなら、「恋愛を楽しむ」という点において、初心者故の思慮に欠けた身勝手な行動はストレスにしかならない。「童貞と恋愛なんて考えられない」と言う女性は、極端な例かも知れないしそうでないのかもしれないが、ともかく、恋愛経験が少なくて自分のことを満足させられなさそうな相手をわざわざ「気軽に楽しむための恋愛の相手」に選ぶことの意味は薄いと言えるだろう。(なお、童貞で恋愛経験者、非童貞で恋愛未経験者というのももちろんいるが、ここでは話を簡単にするため、単純に童貞=恋愛未経験・非童貞=恋愛経験有と仮定している。)

異性同士での価値を考えた場合、つまり童貞と処女の比較でも、恋愛至上主義市場においては童貞は処女に比べて不利だ。なぜなら、性交経験者数の割合は、男よりも女の方が多い。つまり、男の中で童貞は多いが、女の中で処女は珍しい。もっと言えば、童貞男はいくらでもいて一山いくら程度の価値しかないが、処女は比較的珍しく、個々に高い価値がつく

以上の点から、童貞は非童貞・非処女にも、処女にも、敗北していると言える。

無垢な男と無垢な女の需要

sumeshi氏による言及において、興味深い見解が示されている。

(略)処女の価値には「無垢であること」以外に「一介の処女を女にできる権利」という意味が含まれてると思う。そして恋愛市場における処女は男性の想定する無垢性とかを考えると受動的でも全く構わないと思われる。

けれど童貞の場合、現代社会では「無垢な男」の需要は限りなく少ない。誠実であったり潔い必要はあるけれど、無垢であることは逆に頼りない印象を与えかねない。そして何より男性は恋愛市場においてはある程度の積極性を持った存在(=いざというとき自分から動いたりする頼れる存在)でなければならない。つまり受動的であることが許されない。結果として童貞は非童貞の男性と価値は変わらず、また求められる行動も非童貞男性と同じ基準で見られてしまうのではないか。(略)

女の処女・非処女に(処女膜再生手術のような例外的措置はともかくとして)分かり易い差異があるのに対し、男の童貞・非童貞には分かり易い差異が無い。また、そもそも男の(生殖可能な期間の長期に渡ってそうであることを強いられている)童貞の発生は、男性としての魅力の欠如に起因する。そのため、同一の指標で童貞と非童貞を(ある意味では、公平に)評価した結果、童貞男の「人間としての男性的魅力が」低く評価され、その「男性的魅力の低さ」が「童貞故のものである」と童貞男自身によって解釈される・責任転嫁される結果、「童貞だから敗北」という考えにつながるのではないだろうか。

社会的存在として

恋愛は非常に特殊な人間関係だ。また、性交にまで持ち込むのは(レイプを除けば)高い交渉力が必要となる。特殊な人間関係を構築・維持発展させ、事に至るまでの交渉をこなす、これは、群れをなして生きる人間という社会的存在として考えると、非常に有用な能力だ。

逆に、特殊な人間関係を築いたり維持発展させることができなかったり、関係を構築できても事に及ぶまでの交渉ができないといった場合、社会的存在としての能力・価値が低いということになる。実際、「家庭も持ってないような奴に責任ある行動が取れるのか?」といった話も出てくる。人間が一般的に歳を取る・人生経験を積むことで人格的に成熟していくことを期待されているにもかかわらず、「若いうちから積み重ねていて然るべき、重要な経験」とされる恋愛軽々・性体験が欠如しているために、「現在の年齢において期待される経験値の総量」と実際との差、すなわち「マイナスの人生経験」が、年を経るごとにどんどん増加していくことになる。このことから、童貞は、社会的存在として価値の低いあるいは無価値な存在と言うことができてしまう。

この敗北は、場合によっては帳消しにすることもできることがある。それは、誰にも負けない特殊な技能や知識、経験などを持っている場合だ。例えば宮沢賢治は生涯童貞であったというが、素晴らしい文学作品を多数遺している。それ故、童貞というマイナスは帳消しになり、偉大な作家としてのプラス評価が残る。

それに比して、僕のようなヲタ趣味は、アマチュアであれば下手の横好き、仮にプロとして成功しても「でもあくまでヲタ趣味であって一般ではないよね。一般商品に比べて性風俗って卑しいものだよね。」という偏見(この偏見は不可避のものだ)があり、すべて寄せ集めても一般社会ではプラス評価にはなりようがない。

まとめ

上記3つの観点から、現代日本においては(他の地域でもそうなのかも知れない。日本を出たことがないから僕は知らないが。)特定の年齢層を過ぎた辺りから「恋愛経験があるのが当たり前」「性体験があるのが当たり前」という評価が行われる(そして歳を重ねるにつれてこの評価が厳しくなっていく)風潮がある。そうして常に「当然のことができていない」「価値が低い」「敗北している」ため、童貞は童貞であることや童貞の自分を容易にはプライドに結びつけられない。それどころか、歳を重ねるごとにストレスが年次単位でも累計でも凄まじい勢いで増大していく。このことから、童貞は非童貞、非処女、そして処女にすら――つまり童貞以外のすべての存在に対して劣等感を抱くというのが、僕の認識だ。

なお、これは重要なことだが、ここで「敗北」と述べた事項は考え方次第でいくらでも無視あるいは逆に勝利要素と考えることもできるものであり、問題の本質はあくまで「童貞は敗者」「童貞は劣っている」と考えている本人の価値観にあるのだ、自分で自分を負けと定義しているに過ぎない、ということは、くれぐれも忘れないようにしておきたい。(例えば、性病のリスクが低いとか、自信のない女性にとっては「過去の女」と比べられることがないとか、誰にも仕込まれていないものを一から育てられるとか、評価ポイントや評価者の視点を変えることによって、ここまででデメリットと捉えていたことはメリットに転じる。)

また、ここでは「童貞」「処女」つまり肉体的に性体験がないということを話の軸に据えているが、「誰からも愛されたことがない」という抽象的・観念的な意味合いでの「非モテ」を軸に据えても、全く同じことが言えるだろうということも付記しておく。

個人的苦悩と社会的苦悩

sumeshi氏による言及において、ここで述べた「童貞の苦悩」は、本来「ヤりたいのにヤれない」というシンプルな個人的苦悩から出発しているはずなのに、いつのまにか「ヤらなくてはならないのに、ヤれていない」という社会的苦悩にすり代わってしまっている、という指摘がなされている。

僕としては、「したいことができない」のは他の事についても同じであるものの、他のフラストレーションは乗り越えられてもこれだけは乗り越えられないというのは、結局の所、他者との比較つまり社会的つながりの中で浮かびあがってくる苦悩だからであると言うことができ、故に、社会的苦悩として認識されるのは自明であると考えている。

とはいえこの苦悩は、「社会的苦悩(社会問題)」というよりも「社会的苦悩のように考えられ得る、社会的な人間関係から感じる個人的な苦悩」であるというのが僕の考えであり、前述したような、個人の考え方次第で容易に取り除くことができるものであろうという立場からの転換については、今のところ考えを変えるだけの材料は目にしていないと僕は思っている。

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