Nov 02, 2005

非モテと自画自賛

自己承認の話と非モテ話とを結びつけて論じて欲しくないと言う人がいるけれども、「非モテ話」とは、ただの「女にモテない男の話」ではない。「誰からも、自分自身からすらも、一人前のヒトとして承認されない人間」を象徴する言葉として「非モテ」という単語が使われているに過ぎず、その本質は、「自己承認を得られないことで死ぬほど悩んでいる人間」についての問題なのだ。つまり、自己承認の話と非モテ話とは同じものだ。

問題は、非モテ者は自分自身による自己承認(自己愛、ナルシシズム)を確立できず、それ故に他者による自己承認(いわゆる愛)に依拠しようとしているところにある、と僕は考えている。

揺るがぬ自己愛を確立することさえできれば、彼らは非モテの悩みから解放されると僕は考えている。その点で、自らを「モラリスト」と自画自賛(※ここではこの言葉を、自分で自分を賛美するという意味で使っている)する「避モテ(女はみんなモラルがなっておらず、それ故、男の自分はそんな醜い女共にモテたいとは思わない、という一派)」は、確かに「非モテ」ではない。真性の非モテ者には自画自賛はできない。「避モテ」は「モテを敢えて避ける」というアクティブな存在だが、「非モテ」は「モテることができない」というパッシブな存在なのだ。

では、なぜ非モテは自画自賛しない・できないのか?

自画自賛というのは、「他人によって褒められる」という経験を通じて得た「自分は褒められるに値する」という評価が自分自身の中に定着することで初めて行えるものだと僕は思う。そして同様に、「他者によって貶される」という経験を通じて得た「自分は褒められるに値しない」「愛されるに値しない」という評価もまた自分自身の中に定着しうるとも考える。

ものすごく簡単に言えば、非モテが自画自賛できないのは「貶されることしかなかったから自分は貶されて当然と思うようになった、それゆえ自画自賛できない」「愛されることがなかったから自分は愛されなくて当然と思うようになった、それ故自分を愛せない」ということではないか、と僕は考えている。

僕の場合、現在持っているものを省みて自画自賛はできる。しかし、自画自賛そのものを忌避すべき事として認識しているところがある(自画自賛が行きすぎると問題なのは言うまでもないが、足りなさすぎてもまた問題になる)。それ故に僕は、非モテに極めて近い心理状態に長くいたのではないだろうか。これは「真性非モテ」に対する「仮性非モテ」とも言えるのかも知れない。

――ここまでで「自己愛」という言葉を幾度となく使ったが、「自己愛」というとネガティブなイメージを持たれるようなので、「自尊心」あたりに置き換えれば、世間一般的にはもっとスンナリと受け入れられる話になるらしい。僕には自尊心と自己愛の違いがよく分からないのでピンと来ないのだが。(自己愛が自尊心より卑しいものだとするなら、僕はその程度の卑しいニセモノの自尊心しか持っていないとも言えるんだろうなあ)

――はてなブックマークで一行コメントつけるだけで、他人からURIを特定され名指しで言及される可能性を回避することを、僕は感心しない。「はてブの一行コメントで反論する」ということは、システム的に「再反論を拒否する」事に等しい。はてなアカウント名は特定可能なので、その点ではまだ匿名掲示板よりも潔いとは思うが。

それは本題ではないので置いておくとして、自己愛がある(もしくは強い)状態でもモテない人はモテないと思うんだがとコメントしている人がいるが、この文脈において本来の意味で「モテ」という単語を使うのは、話がややこしくなるので避けたいところだ。敢えて本来の意味で「モテ」という単語を使うのなら、自己愛を持っている人は「自分自身からモテモテ」なのだと言えよう。真の非モテ人は自分自身にすら嫌われているという前提を忘れてはいけない。

このエントリの要旨は「非モテ人は、自分自身にすらモテてないのが、無限の苦しみの原因なんじゃないのか」「まず自分自身にモテるということも、無限の苦しみから解放される一つの方法たり得るのではないか」「なのに、なぜ自分自身にモテることすらできないのか」ということなので、ここで「でも結局他人からはモテてないんだよね」と別レイヤの問題を指摘することは、僕には不適切だと思えるのだがどうか。

エントリを編集します。

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