Dec 02, 2005

普遍と思うこととコミュニケーションへの意識

「恋愛は普遍」だなどと誰が言ったのかというエントリを見て思った事。リンク先は長いから要約すると、「恋愛は普遍だとあなたは言ったが、普遍であるという証明がなされていない。単にあなたが、それを普遍だと思い込み、他の価値観が存在する可能性を思考から排除しているに過ぎない。」という話、になるのかな? 少なくとも僕はそう理解しましたが。

カトリックにとっては、カトリックだけが人間で、プロテスタントも異教徒も人間じゃない。だから殺しても罪にはならない。みたいな。少なくともどっかのイスカリオテの某マクスウェル大司教はそうお考えのようですが。この考え方って、逆から見れば「人間ならカトリックで当り前だろ。カトリックは普遍だ。」という話でもありますよね。

ということは、恋愛が普遍だと思ってる人にとっては、恋愛できない者はヒトではなくただの動物なのかしらん。

ウェブアクセシビリティとかそういう話をかじってると、オーバーラップしてきますね。「晴眼者で、日本語が読めて、Windows Internet Explorerを使ってて、広い画面でWebを閲覧してる人」しか意識してない、それ以外の環境があることを考え付きもしない、みたいな。音声読み上げでブラウズしてるかもしれないし、運転中で手が離せない状況でカーナビで見てるかもしれない、そういう人を排除するのか、みたいな。そして「俺は自分と近い環境の人しか想定してない。それ以外の環境の人は見んでもいい。俺はそんな人らとはコミュニケーションとりたくない。」と言われておしまい、みたいな。

まあそれを以って「考えが浅いなあ」と言ってしまうこともできるわけですけれども、あまねく全ての人を相手にコミュニケーションしろと言うのも無理な話ですから、どこかで線を引かないといけませんね。自分がコミュニケーションを取りたいと思い、実際に取る、その相手を選別するための線。

本当の意味で非モテ人とモテ人がお互いコミュニケーションをとろうとしてる例がどれだけあるんだろう。と、思った。

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