May 06, 2006

ふみえ と書くと巨乳で有名だった人を思い出す

これで泣かないのならというエントリで紹介されている山下達郎のPV映像について「これで泣けるかどうかが真性非モテかどうかの境目なんじゃないの」と書かれていたので、見てみた。

ボロ泣きしましたが何か?

このPV映像の受け取り方には2種類あると思う。一つは、この女性を「過去に現実にいた人物」とする考え方。もう一つは、「男の妄想が生み出した架空の人物」とする考え方。まりねこ氏は前者の受け取り方をされたようだけれども、僕はナチュラルに後者の受け取り方をした。

そして後者の受け取り方をした場合、このPV映像の意味は前者の受け取り方の場合とはおそらく逆転する。

  • 愛は素晴らしいとかなんとか言う人が世の中には大勢いるけれども、自分は結局ここまで、愛に触れることなく来てしまった。
  • 周りの誰も彼もが、愛する人を見つけ、二人手を取り合って幸せに生きている。
  • でも自分にはそんな相手はいない。
  • だから自分は白馬の王女様を妄想して、白馬の王女様が来てくれれば自分もその幸せな人達の輪の中に入っていけるのだという妄想をして、気を紛らわす。
  • そうこうするうちに、突然の終わりが訪れる。
  • 「白馬の王女様なんか現実にはいないんだよ、そんなものを求めて何もしないで落ちぶれたお前ごときは、妄想の中でだけ幸せを感じて消えていきなさい」と、世界から突き放される。

――こういう歪んだ受け取り方をするっていうことが、もう、真性非モテということなのかもしれない。

追記。元エントリに寄せられた益田氏のコメントを見て、なるほどメタ的に見ればそういう捉え方もあるか、と思いました。しかしさらにもう一段メタの見方を進めて、「山下達郎やPVに出演している人をはじめとしたモテ界の人々が、このような人生の末路を敢えて描くことで、真性でそのような末路を歩んでいる・歩もうとしている・歩みかねない人の人生そのものを戯画化している」、そのことに悔し涙を流す、という捉え方も有りなんじゃないかなと思いました。というか、どうも僕の見方というのは元々こちらのスタンスに近かったようで、この事を改めて認識すると、さらに悔し涙がこみ上げてくる思いです。

エントリを編集します。

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