Aug 27, 2006

感情処理のアウトソーシング

「不幸せ感・辛い感情を感じさせるには、わざわざそういうものを与える必要はない。幸せを与えておいて、ただ、それを奪えばいい。」ということなのかなあ、この二つのエントリが電撃的に頭の中で結び付いてしまった理由は。前者は、自分が主体となってそれを実感した例。後者は、その節によって説明可能な事象の例として。

今まで「満たされた」感をあまり感じてなかった人、渇望していた人ほど、求めていたそれをいざ手に入れたとき、失うときのことを恐れるのではないだろうか、と思う。僕は、恋愛関係という物をずっと渇望していたからその分、何の偶然かそれを手に入れて、それがいついかなる瞬間にも失われそうな脆弱な物に過ぎないと知って、今はまだ失っていないけれども、いつ失うかと思ってビクビクしている。

多分人には、自分を理解する、受け入れて肯定する、そういう存在が必要なのだと思う。強い人は、自分自身がその役割をこなすことができる。弱い人もある程度は自分自身で自己処理しようとするけれども、その処理能力は強い人に比べて圧倒的に劣る。

それでそういった機能をアウトソースするべく、弱い人はパートナーを求める。パートナーは、幻想かも知れないけれども、自分を理解してくれて、受け入れてくれる。つまり二人でいる間は処理能力が高まる。

あるいは歓びや幸せといった感情は、自分自身の処理能力を高めてくれる。

処理能力が高まった状態に合わせた量のストレス・負担を精神が受け取ることが常態化すると、いざ処理能力が落ちたときに、容量を超えた過大なストレスに晒されることになる。それが、喪失の苦しみや不幸せ感の源なのではないかと、僕は思う。

アウトソースする必要のない程に自己処理能力の高い人が、自己処理能力の低い人と接すると、相手には自分のストレスを処理してもらえないのに、自分は相手のストレスを処理してやらなくてはならない、という不均衡が生じるのではないだろうか。だから、強い人ほどドライな人間関係を好むようになるのではないだろうか。逆に処理能力の低い人ほど、ベタベタした人間関係を好むようになるのではないだろうか。

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