Oct 10, 2005

ハードSFと詩と萌えとパトレイバーとガンダム

込み入った設定ばかりに満ちていて一貫した物語がないようなSFを、「ハードSF」だなんて呼んで欲しくない――SFに詳しいらしいとある友人がこういうことを言っていた。ディアスポラAmazon.co.jp)の1章を読み終えて、ふと思い出したんだけど。

これを読んでいて、自分の理解できないような高度な情報がどんどん現れては去ってゆくことに、自分の頭の悪さに辟易としながらも、自分と全然異なる物の見方をする人の考え方や感じ方を追体験する(しようとする)、その人になりきってその人の生きる世界に旅行することは、それだけでも十分に楽しいことだと僕は思った。

そして気がついた。これは僕がAQUAAmazon.co.jp)/ARIAAmazon.co.jp)を見たときの感動と同じ物なのではないか、と。

この作品には物語がない。あるのは、地球環境化テラフォーミングされた火星である水の惑星AQUA、その一都市のネオ・ヴェネツィア、そこに店を構える観光案内業のARIAカンパニーという舞台と、観光案内業の水先案内人ウンディーネに憧れて地球マンホームからやって来た主人公・水無灯里、先輩のアリシアその他の人物、そして灯里の目を通して描かれる、AQUAで彼女が出会った些細な出来事の積み重ねだけだ。故に僕は、この作品を詩のようなものと捉えた。

物語の不在は、この作品に限ったことではない。

いわゆる「萌え系」作品には、ただキャラクターの魅力だけで成り立っている薄い作品は山ほどある。そういった作品を僕が見たときに辛い物を感じるのは、作品が本来見せたいものが物語ではなくキャラクターや状況それだけでしかないのに、無理に物語をひねり出そうとしているからだと思う。例えば、古い例でアレだけれども、「ラブひな」なんかは、冴えない男が美女に囲まれてモテモテという状況だけが作品の核であるはずなのに、主人公浦島景太郎の成長物語や成瀬川なるとの集中的な恋愛といった要素を、完全に消化しきることなく中途半端に描いてしまっているから、そこに僕は「ああ、物語描く気がないのに物語の真似事なんかしちゃって、見苦しいなあ……」という感想を憶えるわけだ。

だから、開き直って物語そのものを放棄した、あるいは、状況を描くことそのもの、日々の体験の積み重ね=主人公の人生そのものを物語にしてしまった「AQUA」「ARIA」は、潔くて魅力的なのだと思う。物語性がなくて、純粋に作品世界の魅力だけに注目できるから。

とはいえ、物語と作品世界の魅力を両方同時に高いレベルで兼ね備えている作品はそれはそれで素晴らしいものだ。僕は機動警察パトレイバーAmazon.co.jp)はそういう作品だと思っている。

この作品は、立脚点が「町の中に桜の代紋を付けた白黒のロボットが立ってたら面白いよね」という一発ネタ的な所にあり(これはインタビュー等で散々語られている)、そこから発生した多脚歩行式マニピュレータ「レイバー」という概念、レイバーのある近未来世界、という世界観が非常に魅力的なものになっている。のみならず、主人公・泉野明をはじめとしてオチコボレ警察官として登場した達特車2課の面々が、ただの軽い人達light staffから正しい資質right staffを備えたベテランへと成長してゆく成長物語としても、非常に面白いものとなっている。

そういう観点で見ると、ガンダムはとても幅の広い「ジャンル」だと思う。設定の整合性を壊しても人間ドラマを描くことに特化した0080や第08MS小隊という映像作品がある一方で、物語性が存在しないMSVというプラモシリーズすらもある。「おもちゃの30分CM」として生まれたガンダムが物語性で評価され、ガンダムから生まれた物語性のないシリーズがこれまた評価される。この現象はとても興味深い。

まあ何が言いたいかというと、物語があるものだけが魅力的なんじゃあないんじゃないの? むしろ物語性を排除したからこそ魅力が際立つこともあるんじゃないの? ってこと。

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