Jan 03, 2009

らき☆すた 見てて辛い

6話まで見た。

原作1巻までしか読んでない状態なのでひょっとしたら外してるかもだけど、原作のエピソードをきっかけにさらに自然な形で発展させているような印象を受けた。これが本当にアニメオリジナルなんだったら、本当に、見事な「アニメ化」だと思う。あれだけハマってたAIR(Adobeのアレじゃないよ)のBS-iアニメ化の時にもぐうの音も出ない見事な「アニメ化」を見せてくれた京都アニメーションだけの事はある、ということだろうか。

そのアニメなんだけど、なかなか面白い。時間取ってガッツリ見るほどとはあんまり思わないけど、無限ループで環境ビデオとして流してたいような感じ。(ってこれ誉めてんのか?)

しかし、面白いんだけど、それだけに、見てて辛い。無邪気に楽しめない事が辛い。これを面白いと思える事が辛い。これ「ならば」面白く思えてしまう、ことが辛い。

素直に「面白い」と思う中で時々、かわいらしい美少女・女子高生として描かれているこなたやかがみの言動が、あくまで我ら醜いヲタの醜い姿の投影にすぎないと気付いてしまう。すると、彼女らの姿は微笑ましく見えるのに、方や、その投影元である自分の姿はとても格好悪くだらしなく他人様に見せられたもんじゃない、という事を意識してしまう。「ただしイケメンに限る」という言葉があるけれど、それと同じだ。「ただし美少女に限る」。彼女らがする姿なら、許せるし笑えるし微笑ましい。自分がする姿は、とても許せないし笑えないし痛々しい。

「げんしけん」の男性陣(除・コーサカ)なんかがそうなんだけど、やっぱ、見てて耐えられないんですよ。うっわぁ痛々しい……って。自虐的な笑いになってしまう。なのに、こなたやかがみだったら、同じ事をしててもそうはならない。その事が、とても辛い。なんで自分はこなたやかがみじゃないの? どうして自分は、この痛々しい姿を第三者から見て微笑ましいと思えるような人物像じゃないの? どうして自分はクッチーだったり久我山だったり斑目だったりの方なの? って。ぶっちゃけそんな風に思ってしまう。

そんな風に思ってしまうから、この作品自体も、「自分達のヲタ言動を美少女に投影する事で微笑ましいゆるゆる日常ギャグに見せて、本質的なキモさだとか痛々しさだとかをごまかして、目をそらさせる、そのために書かれて(描かれて)いる」、歪んだ自己弁護のように見えてしまって、素直に楽しめなくなってしまう。穿った見方に囚われてしまって、素直に楽しめなくなってしまう。

まあそれでも、ヲタである事をやめられはしないし、やめたいと心底思う事も多分無いし、この作品そのものを面白いと感じるのは変わらないんですけど。

他人の目を気にしすぎ? その通りですね。

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