Jan 10, 2007

げんしけんの斑目を見て、自分が自分の人生を生きていなかったことに気がついた

全部読んでもいないうちにえらそうなことぶっこいちゃいましたが、改めてちゃんと最後まで読みました。

げんしけん(9)特装版Amazon.co.jp

よもやここを見ていて知らない人はいないと思いますが一応紹介しとくと、某大学の「現代視覚文化研究会」という名前のオタクサークルを舞台にして繰り広げられるオタク男女達の青春物語、みたいな。そんな作品です。

最後まで読んで思ったのは、ああ自分のメンタリティ的に一番近かったポジションは斑目だなあ、ということ。

「あれ、そういえばアイツどこ行った?」「ちょっと私、探してくるね」「Piroくん、こんな所でどうしたの?」「ん……いや、ちょっとね」みたいな展開を妄想して勝手に一人でふらっと場を離れてみたりして、でも実際には別に誰かが探しに来てくれるほど大事な存在とは思われてなくて、っていうかそもそもいなくなった事にも気づかれないような影の薄い存在で、ていうか小さい頃子供会だか何だかで動物園行ったときホントに僕のこと忘れ去られて一人だけ置いてけぼりにされちまったことがあったんですがそんな事はどうでもいいです。とにかく変なところでキャラ作ってかっこつけたがる。そのくせ本当に言いたいことは言えず、寒いと分かっていながら道化を演じる。

そして、オタク趣味やオタク丸出しのキモイ格好は恥ずかしがらないくせに(いや劣等感からくる恥の感覚はずっとあったんだけどさ)、一番本当の本心を明かすことだけはどうしても恥ずかしくてできない。本当の自分、素の自分、正直な自分、偽らない自分を、表に出す勇気がない。表に出したところで実際にはどうせ誰も気にも留めないような「本性」でしかないのに。あるいは、どんな酷い「本性」であれ、晒したところで誰も気にも留めてくれないような薄い存在感しか、または、生活に何の変化も現れ得ないような薄い人付き合いしか、無かったくせに。

一言で言って、演技くさい生き方。自意識過剰の「メタ」視点の塊。

いつの頃からかそれが薄くなってきた気がする。それが薄くなってきてからやっと、僕は僕の人生を生きている、という実感が出てきた気がする。

きっかけが何だったのかは分からない。同じオタクだった友人が脱オタして彼女作ってぐんぐん見違えるように「脱皮」していったのを目の当たりにして、自分の手の届かないはるかな高みに行ってしまったのを見て、それに学んだのかもしれない。いや、自分の手の届かないはるかな高みにいる人間どころじゃなく、自分と同じようなところにいるに違いないと思っていた人に、普通に交際相手がいた、ということを知って、自分の人を見る目の無さ、人を見るときの予想とか分析とかの浅さ、ひいては自分自身の「人」としての底の浅さを思い知らされたからだったのかもしれない。他の人達が自分みたいにキャラ作って演じて逃げて生きてなんかいないことに、気付かされたからなのかもしれない。

そうして振り返って、だからこそ、思う。もっと前から、青春まっただ中の頃から、演じてなんかいない素の自分の人生を、自分の人生を、満喫したかった。今更演じるのをやめても、もう遅かった。僕の僕としての人生の中に、青春時代は、含まれていなかった。青春が終わってからやっと目が覚めた。生き始めるのが遅すぎた。青春時代にはもう戻れない。「青春を生きた経験」はもう手に入らない。

だからこその「げんしけんみたいになりたかった」、なんだ。げんしけんみたいにっていうか、笹原達のように正直に素直に青春を生きたかった、楽しみたかった、っていうことなんだ。もう戻れない、どう頑張っても手に入るはずのない、過ぎ去ってしまったもう二度と訪れない時間への後悔なんだ。

だから僕は、周囲の人達が羨ましいんだ。

エントリを編集します。

wikieditish message: Ready to edit this entry.











拡張機能