Dec 05, 2005
道具と習熟と知性と敬意とIT土方
現代のコンピュータは「道具」だ。
道具とは、ただそこに在る物だ。道具は何も考えない。人が触らなければ何もしない。
道具は機能がシンプルであればあるほど、良いものが作れる。例えば「包丁」。包丁は物を切ることに特化した素晴らしい道具だ。また、どこが持つべき場所でどこが触ると危険な場所か、見てすぐに分かる。
道具の機能が増えれば、人間の側にも努力が必要になってくる。「鋏」は「包丁」に比べると、パーツが二つに増えて、扱いが難しくなっている。二つの穴に親指と人差指を入れること、指を開いたり閉じたりすることが刃の開閉に連動することなど、いくつかの約束事を覚えなくてはならない。鋏を使うのにすら、人間は、習熟が必要なのだ。
コンピュータは、これら単純な機械に比べると、はるかに機能が複雑だ。そしてその分、習熟にも時間と手間がかかる。コンピュータが「道具」である限り、これは動かしようの無い事実だ。
習熟の必要が無いのは「召使い」だ。
召使いと道具の間には決定的な違いがある。それは「知性」の存在だ。召使いは知性を持っているから、主人の側に合わせて臨機応変に行動できる。
知性を持たないコンピュータを、人間に合わせて働かせるということは、コンピュータを作っている「知性を持った人間」が、ユーザに合わせて働くということだ。現在のコンピュータに「どこまでも人間に合わせること」を求めるのは、開発者に「どこまでもユーザに尽くすこと」を求めること、開発者がユーザの召使いとなることに他ならない。
良識ある人は、知性を持った相手に対しては敬意を持って接する。しかし良識がある人でも、知性を持たない道具に対しては居丈高に接する。知性を持たないコンピュータに居丈高に接し、召使いと同じ物を求めるのなら、それは、コンピュータの向こう側にいる知性を持った人間に対して居丈高に接するのと同じことだ。コンピュータを介することで、その事実が隠蔽され、良識ある人でも、他人を奴隷のように扱うようになっているのではないだろうか。
「IT土方」はこうして生まれるんだろうか、と、ふと思った。
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