May 24, 2006

個性

完全なものは美しいかで言及されたことを受けて。

自分で自分の個性を個性として評価できるという事がどういう事なのか、僕にはよく分からない。

他の人についてなら、それができる。知ってる人の中でその人よりずっと技能のある人、その人よりずっと人望のある人、その人よりもカッコイイ人、その人よりもかわいい人、色々いても、その人にはその人の個性があり、それはそれだけで価値あるものだ、否定し得ないものだ、という風に思うことはある。

しかし自分のこととなるとそれができない。自分より上手い人がいる、自分より物知りな人がいる、そんな風に比較ばかりして、それはそれだけで価値あるものだと認めることがなかなかできない。

それはもしかしたら、自分自身の個性を評価された実感に乏しいからなのかもしれない。否、個性を評価され得る場から自ら逃げ続けてきていたからなのかもしれない

僕は料理や音楽やファッションのことについて全く分からないから、ある一定以上の水準にある人はどれも等しく「すげー」という感じであって、個性をどうこう言う以前に、圧倒的に優れていて見上げる対象としてしか捉えられない、という面がある。

それと同じことが絵や技術についても言えるらしい。絵が全く描けない人やプログラムを全く書けない人に言わせると、ある程度以上の水準になると絵描きのレベルも技術者のレベルも全然見分けがつかなくなる、ということだった。

そして僕は、以前にも書いた気がするけれども、どうやら自ら「自分より(絵や技術の)レベルの高い人がいる場」を避け続けて生きてきているようである。有り体に言えば、自分より絵が下手な人とばかりつるんで、仲間内でだけ「うまいねーじょうずだねー」と褒められてお山の大将気分になってばかりいた、ということなんだけど。

そんなお山の大将でいることばかりを自ら無意識的にあるいは意識的に選んできてばかりいたから、上手い上手いと言われるようなぬるま湯にばかり浸かり続けていたから、自分のプライドを「うまいねーえらいねー」と言われることでしか満たすことができない人間になってしまったのではないかと思う。

自分が「おじょうず」であることをネタにオナニーすることしか憶えてこなかったから、自分の個性、「人より劣っているかもしれないけれども独特の何かがある」ということをネタにオナニーする感覚がわからないままここまできてしまった、のではないかと思う。あるいは、自分の個性を評価されていても、それを自分の相対的な能力への評価としか受け取れなくなってしまっているのではないかと思う。

――という文章の書き方、スタンスからして、ほんとイヤミったらしい人間ですね僕という奴は。

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