Aug 18, 2006

ブクマコメントが数十件付いた程度で天狗になってしまう心理

泡沫ブロガー天狗問題を見て、どうしてブロガーやってると天狗になってしまいやすいのかを考えてみた。

Web上で感想や意見を表明する場合、それにはいくつかのレベルがあると思う。自分の感覚では、とりあえず以下のように思っている。

  1. リスペクトを捧げて新たな作品を作り、その人にだけプレゼントする。
  2. リスペクトを捧げて新たな作品を作り、一般に公開する。
  3. 感想や意見をメールで送る。
  4. 感想や意見を自分のエントリに書く。
  5. 感想や意見をエントリのコメント欄や掲示板に書く。
  6. 感想や意見をブックマークのコメント欄に書く。
  7. 感想や意見を2chのスレに書く。
  8. 「これいいね」とか「これはひどい」と思うだけで終わる。

上位ほど入れあげている度合いが高くて、下位ほど醒めた淡泊な反応、という風に見てほしい。創作系の反応が上位にあるのは僕が創作を趣味にしているからであって、人によってここは変わるかもしれない。しかしながら、4位以降の序列については、一般的にも言えることではないだろうかと思う。

もしこのような図式があると仮定して。

かつてコミュニケーション手段がそれほど多くなかった時代には、送り手が受け手からの「反応」そのものを得る事自体が難しかったはずだ。受け手は「ファンレター」のような形でしか感想や意見を表明することはできず、また、送り手はそのような形で表明された物しか受け取ることができなかった。

しかし今は違う。ファンレターを送るような熱い思いがなくても、受け手はとても軽い気持ちで感想を表明することができる。普通の人がしている何気ないことに対してファンレターを送る人はいなくても、ブックマークでコメントを付ける人くらいは出てくる。

また、送り手も、容易にそれを見ることができる。はてなブックマークの「〜の注目エントリー」といった機能を使えば、自分の書いた記事がブックマークされたかどうかチェックできる。トラックバックをたどることももちろんできるし、リファラを見ればそれ以外に言及しているサイトも見られる。もっと単純なところでは、「アクセスカウンタ」という仕組みのおかげで閲覧者数も数えられる。

これこそが、ブロガーを天狗にさせてしまうのではないだろうか、と僕は思う。

送り手にしてみたら、ブクマコメントが付けられていただけでもファンレターに等しい喜びを感じるものかもしれない。自分の作った自分だけのコンテンツが他の人から注目されている、そんな実感を得られるかもしれない。

しかし受け手にとって、ブクマコメントは所詮は、それ以上のアプローチを試みるつもりが無い・それ以上関わり合いを持つ気なんかさらさら無いという場合に使う、送り手向けではなく自分同様の受け手向けの、意見表明の手段でしかない。その他のことについても、彼らにしてみればその時目にした送り手は有象無象の中の一人、one of themに過ぎない。

そこに、送り手と受け手での意識のずれがあるのではないだろうか。

このような状況は、今のような過渡的な状況においてのみ表れる現象なのではないかとも思う。すなわち、ソーシャルブックマークというものが存在せず、ブログもトラックバックも存在しない、そんな生活が価値観の基盤となっていた人が、ブロガーやるようになったという時代に、限定的な現象ではないか、と。こういう形でのコミュニケーションが当り前であるという価値観を持つ人達が増えてくれば、ブックマされた程度のことを自分に対する賛辞と勘違いして天狗になるなんてことも、減ってくるのではないだろうか。

そんな風に、HTML直書きの日記+teacupの掲示板でスタートして、そのうち自サイトに掲示板を取り込むようになり、各日記の記事に固定のURI(permalink)を割り振るようになって、やがてblosxomの導入でコメントやトラックバックを受け付けるようになった、僕は思うのです。

エントリを編集します。

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