宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
水原ありささんというコスプレイヤーの人の涼宮ハルヒのコスプレ写真(Cureで検索すると他の写真も見られる)、僕は素直に「いいねえ」と思ったんだけど、友人にはきもい。。目が。。。
、不自然極まりない
、生がこもってなくてきもいよー
、と不評だった。
このハルヒの写真ではおそらくカラーコンタクトで黒目を大きく見せていて、それが不自然に見えるということなのだと思う。まあ人によって好きずきだと思うけれども、これが「不自然」であるということは客観的に見て事実だろう。
問題は、それにもかかわらず僕が何故違和感を感じなかったか、どうしてこれを自然なものとして受け入れてしまったか、だ。
僕はおそらくこれらの写真を「現実の人間の写真」とは見ていないのだと思う。極端な話、incise soulの美少女3DCG(「おっぱい! おっぱい!」のアニメーションのティファで知ってる人もいるんじゃなかろうか)や、あるいは美少女フィギュアに類するものとして受容している、そんな気がする。
他の例でいえば、「Final Fantasy Ⅶ Advent Children」に対する反応が人によって分かれるのも、その映像に対する「ゲームキャラクターのCGのリアリティを増す方向で突き詰めた結果」と「リアルな人間からいくらかの情報をそぎ落として3DCGに落とし込んだ結果」という認識の差のせいだと思う。
そういう僕にとって、この「水原ありさ」という名前はCGの作家であるとかフィギュアの原型師であるとかと似たようなものとして認識されているわけだ。
しかし実在の人物の写真を見てなおそういう感覚を憶えるというのは、日常生活でリアルな人間に接する(ということを意識する)機会が少なくてもっぱら妄想の中でしか女性というものを意識していない、というような背景事情がその反応に滲み出ているようで憂鬱になる。リアルな人付き合いを普通にやっているかの友人のような反応を示すのが、正常な人間の感覚なのだろうと思うと、自分の人間性に絶望せずにはいられない。
いや、それは僕がこのコスプレイヤーさんに特に思い入れがないせいだからだ、と思いたい。自分の彼女の数少ないスナップ写真を携帯の待ち受けやら壁紙画像やらに加工しようとした時は、明るさ調整やピンぼけの修正(シャープネス)以上のことをしてみると急に「作り物」感が増してしまって、その写真の自分の中での価値が下落する感覚がある。思い入れのある人の写真は、例えホクロがあっても目が半開きでも小皺があっても、やはりありのままの方が良いと思うし、思い入れがますに連れてその感覚はより一層強くなってきている気がする。
まあ写真に写っている姿というのもメイク後の顔だから、撮影したものをデジタル加工したものと、加工済のものを撮影しただけのものとの間に、本質的な違いはないのかもしれないけれども……
の末尾に2020年11月30日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2006-08-19_figure.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。
writeback message: Ready to post a comment.