Sep 24, 2006

感情の話のハズなのにいつの間にか理屈で裏付けようとすること

作家の平野啓一郎氏が、別の作家に処女作を盗作と疑われ、いつの間にかその話だけが一人歩きして、事実確認もなしにWikipediaに「盗作疑惑」として記載されたまま放置されていた、ということについて、「盗作は無かった」という反論の根拠となるソースを自分自身が示していなかったことへの反省なども含めた文章を公開されていて、それに対してとある人が必死になってるところがキモイ、こういう奴とは絶対つきあいたくないと発言されたことについて、ついコメントしてしまったのだけれども、はてダのプロフィール欄とか見たら 基本的には、「すきかきらいか」というような、頭の悪い話をすることにしました。 と書いてあって、なんだネタにマジレスしちまったよ、と少し後悔した。

しかし感情一直線で行くなら、この人も下手に理屈づけた解説文をグダグダ書かず、短く簡潔に「このリンク先がキモイ。生理的に受け付けない。」とだけ書いてりゃ良かったんじゃないのかなあ、とも思った。

そうしなかった理由とは、いったい何なのだろう。どうして、無駄に多弁になってしまうのだろう。――それは、僕自身が普段取っている行動についても言える事だ。僕自身、自分のしょうもない負の感情にあれこれ理屈を付けてダラダラと語っている。

僕自身について言えば、多分、「その場の一時的な感情だけで動く軽薄な人」と思われたくないのだろうと思う。感情は移ろう、しかし理は(少なくとも我々が観測可能な世界の中では)普遍であり不変だ。移ろわぬ物に根拠を置いている、一貫した人間なのである、ということを、僕は暗に言いたいのだろうと思う。事実がどうであるかはさておいて。

それとは別の話として。ネタにマジレスと書いたけれども、本文では理詰めで鋭く痛いところを突いていて、しかしツッコまれた時には「やだなあこれはネタなんですよ」と言い逃れて、という風刺的論者のスタイルも世の中にはあるので、一様に「下らぬネタ」扱いしてしまうのも、失礼な話かなとも思った。

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