Oct 03, 2006

赤い羽共同募金

昨日駅で、女子高生の集団(と書くとなんかアレだな)が赤い羽共同募金の呼びかけをしていた。一度通り過ぎた後少し考えて引き返して、硬貨1枚だけ放りこんだ。どうせゴミになってしまうだけなので、羽根は受け取らなかった。

街頭で何時間も突っ立って募金を募るくらいなら、何時間かバイトしてその給料を全額寄付しろよ、と言う人もいる。24時間テレビなんて、集まった募金額をはるかに超える巨額のカネがギャラやら何やらで動いてるわけで、番組作るよりそれ全額寄付すればいいじゃねえか、と言う人もいる。結局偽善じゃねえか、と。

確かにそういう見方にも一理あると思う。「カネ」だけに目をつけるなら確かに意味は無い。しかしこういった募金の呼びかけやチャリティ企画の「啓蒙・教育効果」については、意義はあると思う。

普段生活していて身近なところに障碍とかなんとかそういった問題で困ってる人と接する機会が無いと、そういう人が「見えない」と、そもそも「存在しない」という風に僕のようなモラルの低い人間は思ってしまう。思ってしまうというか、存在自体認識できなくなってしまって、「意図的に無視する」ことすらできない、「え、そんな人が世の中にいたの?」と素で驚いてしまうような、そんな風になってしまうだろう。小学校で道徳教育の時間があっても、大人になったらそんな事は忘れてしまう。

仮に誰か偉い人が、そういう人のために自分の給料を全額寄付したとしても、その行為は僕には見えない。その人がそういうことをする人だということが見えないのは、どうでもいい。けれども、それよりも、そういう寄付を必要としている人がいるということまでもが見えない、そっちの方がヤバい。

だから、これ見よがしに募金を募り寄付を募ることに意義が出てくる。24時間テレビの1日間で集まった募金の総額が、番組の制作費に遠く及ばないとしても、定期的に「募金や寄付が必要な人」がいることをアピールして周知徹底できること、そういう人達に対して募金や寄付をするという行動を誰もが取ることができるのだという事実を知らしめることには、意義がある。

そしてそういうチャリティイベントや募金・寄付に敢えて「乗る」ことにも意味がある。まず、一般参加者として参加した人自体がサクラとして機能して、さらに人を集める事につながる可能性がある。また、運営者として不本意かもしれないけれども関わった人達、例えば冒頭の募金を募っていた女子高生に対して、インセンティブを与えることにもつながる。「何時間か立ちんぼさせられて1円も集まりませんでした」じゃあ、活動した人の間で「こんな事やっても無駄じゃん」という厭世ムードが漂いだして、いずれは活動自体が消滅してしまう。

募金活動や寄付の呼びかけは、やる方にも、それに乗せられる(乗っかる)方にも、載せられなかった人にも、意義がある。そんな風に、僕は思うわけなんですよ。

あ、募金を装った詐欺は当然ながら論外ですよ。

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