Nov 01, 2006

「いじめられ、カッコ悪くない。」

「いじめるのはカッコ悪い」というキャンペーンよりも、「いじめられるのはカッコ悪くない」というキャンペーンの法が必要だ、という指摘は、上手い言い方だと思った。

いくら「いじめるのがカッコ悪い」ということを喧伝したところで、それはいじめ加害者に対しては無力だと思う。なぜなら、加害者は常に群れており、「でも、みんなやってるし」というエクスキューズが生まれるからだ。それに、クラスの人気者が、権力者が、自信のある人間が自信たっぷりにやっている(ように見える)事は、カッコイイ。少なくとも、カッコ悪い事ではないはず。大人は嘘を言っている。大人が「しちゃいけない」と言ってることに敢えて逆らうアイツはカッコイイ。そんな認識が、そこまでハッキリしたものではないにしても、うっすらとはあると思う。特に、幼稚な精神性が抜けきらない時期は。

それに対して、いじめ被害者は大抵、孤立している。早熟な子でもなければ、「あいつらの方がバカなんだ」という風には自分を正当化できない。仮に正当化できても、いじめっ子達の物量作戦の前ではそんな気持ちもすぐ萎える。ほかの誰も真似しようとしない事、ほかの誰もが避けようとしている事態に、自分だけが陥っている。そんな自分はカッコ悪い。いじめられるのはカッコ悪い。劣等感。敗北感。負け組意識。底なし沼に囚われて足掻いているような毎日。そんな思いを否定してくれる人は、仲間は、どこにもいない。

いじめっ子を責めたところで、そのストレスはどうせいじめられっ子に向けられる。いじめっ子を責めるのは、いじめられっ子を保護した後でいい。順番を間違えてはいけない。

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