Mar 16, 2007

昭和脳

音楽の趣味といい描く絵の絵柄といい、僕のやることなすこと全部どうやら現代の世の中にマッチしていないようで……元々オタクは世間から数年遅れている(世間の流行がオタクの間に浸透するまで数年のタイムラグがある)と云われていますが、僕に至っては他人の1週遅れ2週遅れがもはや当たり前な感じです。

……ということを、雑談で金の使い方の話になって思った。

僕には、「稼ぎを増やしてもっといい所に引っ越したい」という感覚がイマイチ理解できない。そりゃあ、今いる所がよっぽど酷い(雨漏りがするとか風呂がないとか……)ならそういうことも考えるかもだけど……特に不便もないのに、高い家賃の所に引っ越して、無理して労働時間を増やして稼ぎを増やして、増えた稼ぎは家賃を払うために使って、結局、手元にはいくらのお金も残らない、なんていう事をしようと考える価値観が僕にはよく分からない。

じゃあ今はどうしてるのかというと、余った金はそのまま貯金になっている。頑張って貯金してるわけではなくて、オシャレをするでも飲み歩くでも賭博をするでも風俗に行くでもない、普段引きこもってばかりだから、勝手に貯まってくって感じなんだけど。

ふと、そうして貯まった金をいざ使うとなった時のことを考えてみたんだけれども、どうやら僕は、金を使う時に「自分で稼いだ金を自分のために使う」という感覚よりも、「自分で稼いだ金を自分より上位の誰かに預けて、そこからお小遣いをもらって自分のために使う」という感覚の方が、強いような気がする。独り暮らしで、親とも別の生計だし、当然扶養家族もいないし、住んでる所は賃貸だし、誰かにお伺いを立てなきゃいけない立場ではないのに、何故だか、そういう感覚が抜けきらないでいる。

もしかしたら僕は、「家」という概念を未だに持ち続けているのかもしれない。持ち家とか借家とかの「家」ではなく、家柄とか家系とかの方の意味の「家」。個人としての自分である前に、「家」に属する一員としての自分である、という風な。独り暮らしであっても、「自分はPiro家のPiroである」みたいな。一人だけの会社でも社長、個人事業主、あるいは、ヤクルトのおばちゃんのごとく個人でも販売店、みたいな。

この個人主義の平成の時代に、古臭い封建主義に自ら囚われているということなんじゃないだろうか。

それか、もしかしたら「家」の一員であると認識することによって、個人としての責任から逃れようとしているのかもしれない。だとしたら、「古臭い価値観にいつまでも囚われている昭和脳」と言うよりも、「個人として生きるのが当たり前のこの時代に、個人として物を考えることを放棄して、すべての責任を棚上げしようとしている、弱くて愚かな人間である」と言った方が正しいのかもしれない。

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