Feb 18, 2009

行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ

理屈はまあ分かるんですけどね。モヒカンな人達はそういう誤解を招きやすい言動をしてるなあ、とよく思います。

以前どこかで「中国人には礼節が無いから、儒教が生まれた。日本人は臆病だから、武士道が生まれた。西洋人は卑怯だから、騎士道が生まれた。」という感じの話を見かけた。「おあしす運動(おはよう、ありがとう、しつれいします、すみません、といった挨拶をきちんと言おうという運動)」について母は、「こういう運動をしてるって言う事自体が恥じゃないか」と言っていた。それらが本来備わっているのなら改めて殊更大事にする必要なんか無いわけで、「大事にしましょう」と言うってことは「それが足りてない、それが実現できてない」って言ってるのと同じことだ、という訳ですね。

さて、ここに「罪を<ruby><rb>悪</rb><rt class="読み">にく</rt></ruby>んで人を<ruby><rb>悪</rb><rt class="読み">にく</rt></ruby>まず」という言葉がある。広辞苑によると犯した罪は罪としてにくむべきものだが、その罪を犯した人までもにくんではならない。ということだそうですが、なんでこんな言葉が生まれたんでしょうね。前述の話に倣うと、誰もがデフォでそういう事ができるんだったら、広辞苑に載る程長生きする言葉だとは人々の間で認識されてなかったんじゃないかと思うんですよ。

言い換えれば、少なくとも日本人は(これに対応する言葉が英語圏にもあるんだったら話は別。僕はそれを知らないので、知ってる人がいたら教えて欲しい(→調べた。慣用句で condemn the crime rather than the criminal というのがこれに相当するらしい。っていうかひょっとしてこれが輸入された時の訳が「罪を悪んで〜」なのか?))、誰かが罪を犯したらその罪を憎むしその人の事も憎むのがデフォだって事なんじゃないかと思うんです。昭和がどうとか平成がどうとかじゃなくて、もう、何年経っても何世代経っても消えない業のような物なんじゃないかと。

だから、自分が叩かれたり、人が叩かれたりしてる時には、それは人格批判ではなく行為への批判なのだ、と考えるよりも、行為だけじゃなく人格まで責めてるんだ、と考えた方が予想としては正確さが増すんじゃないかと思うわけです。叩き手のことをよく知らないならば、なおのこと。

少なくとも僕はそう考えてるところがある。そして多くの他人もそう考えてるんじゃないかと思ってる。これが一般人の感覚というものなのではないか、と僕は仮定している。「これは人格批判じゃなくてあくまで行為への批判なんだな」と、向こうの方が勝手に察してくれるはずであるとは、僕は期待していない。そして誤解によって余計なトラブルが起こる事を恐れている。でも、なんとか改めて欲しい、間違いに気付かせたい、と思う事は度々ある。

だから自分が人の行為を咎める時には、その行為だけを咎めたい時には、「これは人格を批判してるんじゃないんですよ、行為を批判してるんですよ」という事をしつこいくらい意識して言葉を選ぶようにしてるつもり。「バカ」という、指す対象が広い否定の言葉を使う事自体を避けて、「これこれこういうケースへの配慮が足りない」のようにより具体的個別的にいていると思うし、「バカ」と書く場合があるとしても多分「バカな事」と限定して書くと思う。(そんな事ばっかりしてるから、こうして長文になるんだけど。だからtwitterやはてブのブコメのような場を僕は表現の場としては選んでいないのだと思う。)

そういう僕からすると、otsune氏やいわゆるモヒカンな人は「そこまで懇切丁寧に説明する義理はないし無駄なのでしない。誤解するなら勝手に誤解してくれ。誤解された結果トラブルが起こるというリスクは承知の上だ。」というスタンスで発言しているように見える。それ自体はその人達が選んだ道だろうから是非は問わないけど、上述の通り仮定した一般人(罪を憎んで人も憎んでしまう考え方がデフォ)の立場で考えたら、それに付き合わされるのはたまったもんじゃねえや、と思う。

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