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愚行権 - Aug 07, 2010

ロボット工学三原則っていうのがある。

  • 第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
  • 第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
  • 第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

リンク先にも書いてあるけど、これは平易に言い直せば「何より安全で、それでいて便利で、できれば丈夫で」ということだ。この優先順位は非常に重要で、便利さのために安全性を犠牲にしてはならないし、丈夫さのために便利さを犠牲にしても(本来求められている要件を満たさないような物になってしまっても)いけない。ロボットだけでなく道具一般を作る時にも言える事だ。

ただ、これを厳密に守っているとできない事というのは当然出てくる。例えば、人を殺すロボットというのは作れない事になる。これは、ロボット工学三原則がまとめられた背景の1つに「ロボットが人を殺すんじゃないかという恐怖を払拭するため」という目的があるから、その目的においては願ったり適ったりなんだけど。しかし、この三原則が出てくる小説の中でも「人間が敢えて危険を冒す必要がある作業をしようとして、ロボットが止めに入ってしまうので作業が進まない」というジレンマが出てくる。多分、スタントマンみたいな事や、新薬の臨床試験なんかは、できないことになる。

人命とか安全性とかとトレードオフでしか得られない物を、どうしても得たい。という人の行動を正当化するのが、愚行権という言葉だ。僕も愚行権をよく行使しているという自覚がある。本当だったらちゃんと栄養バランスを考えた食事を取らないといけないんだろうけど、やる気がないから晩ご飯はお菓子だけで済ませてしまおう、とか。

ただ、そういうトレードオフな選択をできるのは、あくまで自分の事だけなんだよね。自分と同じくらい(あるいはそれ以上)に判断力のある相手に「君もそうするかい?」と訊く事はできても、「お前もそうしろ」と押しつける事はできない。「君もそうするかい?」と訊いた後に、相手が「俺もそうしよう」と同じ行動を取る事を選ぶか、それとも自身の考えに基づいて拒否して「俺はちゃんと野菜食べたいから、コンビニ行ってサラダ買ってくるわ」と別の行動を取るか、その選択は相手に委ねる事になる。

お互いがそういう風に自己決定権を尊重し発動しあえるという前提があるからこそ、他人同士というのはうまくやっていけるものなのだと、僕は思う。他人から自己決定権を奪うような事は、原則としてしてはいけないと思っている。相手にも自分にも自己決定権があるからこそ、「みんな好きなようにやればいいと思うよ」と僕は言える。

問題は、本当にその決定が正当な物なのか?ということだ。

自己決定権の行使には、正確な判断材料が欠かせない。「めんどくさいなあ、お菓子で晩ご飯済ませちゃおうかな」という考えの決定には、「きちんとした食事を準備するのはめんどくさい」とか「お菓子だけ食べてると栄養バランスが偏る」とか「栄養バランスが大事」とか、いろんな情報が必要だ。諸々の情報を勘案して「それでも敢えてこの選択を取ろう」と判断したからこそ、その判断は自己決定権の行使として意味がある。「お菓子を食べると健康にいいんだよ、お菓子だけ食べてれば健康になれるんだよ」なんて間違った情報を吹き込まれてしまって、それに大きな影響を受けて下してしまった判断は、正当で意味のある判断と言えるのかどうか?

また、判断のエンジン自体も正しくないといけない。「何十年と先に起こり得るリスクと、今のこの一瞬の快楽とを天秤にかけて、敢えて今の快楽を取ろう」と判断するからこそ、その判断には意味がある。「将来って何? そんな事より、みんな毎日お菓子食べてるから僕もお菓子食べたい!!!!!!! お菓子おいしい!!!!!!」みたいな短絡的思考しかできないのだとしたら、慎重に考える事もできるけど敢えて短絡的になってみたのではなく、慎重に考えるという事がそもそもできないのだとしたら、その判断は、正当で意味のある判断と言えるのかどうか?

安全でないことをやることを他人に促して決意させるなら、その決定は、正しい情報と確かな判断力に基づいて行われていなくてはならない。正しい情報も提供できない、判断力を持っている事も確かめられないなら、危ないことはできないように設計しておくべき。そういう設計ができないのなら、そもそもそういうシステム自体を提供しないべき。そういう考え方が重要なのではないかと僕は思う。

話は変わるけど、そういう事を考え出して、子供を持つのは自分には無理なんじゃないか? とか、子供を持つというのは恐ろしい、とか、そういう風な事をふと思った。

だって、右も左も分からない、自己決定権を行使できるとはまだまだ言えない子供の人生を、自分が預かる事になるんですよ。自分一人の事なら、愚行権を気楽に行使できる。でも相手のことだとそうは言えない。特にその相手が、自分のしている事の良し悪しすらもよく分かっていないのなら。「子供の自主的な判断に任せてますから」と言って何も手を出さなければ、子供はただただ素直に自分にとっての快楽を追求して、お菓子ばっかり食べたりどっかの女を孕ませたりどっかの男に孕まされたり犯罪を犯したり、とにかく何でも馬鹿なことをするだろう(僕は性悪説の立場なのでそう考えてる)。

かといって、「子供に判断力なんか無いんだから」と何もかもを親が代わりに決めてしまうわけにもいかない。その「子供」が「大人」になる機会自体を潰してしまう、自分一人では何も決められない「大きな子供」に育ってしまうかもしれないし、あるいは、「自分のしたいことを何もさせてもらえない」というストレスで心を病んで不幸な人生を送らせてしまうかもしれない。

なんかもうその点だけで、世の人の親というのは尊敬に値するんじゃないかとすら思える。全くの放任でもなく、全くのがんじがらめでもない。完全に相手に委ねるのでもなく、完全に自分が判断を代行するのでもない。中間を行ったり来たりしながら最適なバランスで接する、そんなことを世の人の親はみんなやってるのか!?と思うと、うわー自分にはそんなこと無理だ、としか思えない。(そして実際、そうできなくてグダグダになった挙げ句、親子で万引きだとか自分で何も考えられない頭空っぽな大人だとか、そういうのが出てくるんだと思う。)

分類:出来事・雑感, , 時刻:17:17 | Comments/Trackbacks (0) | Edit

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