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の動向はもえじら組ブログで。
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ここまでのまとめ。
んで、今日、その著者の方とお会いしてきましたよ。「変身」決行の前の打ち合わせということで。
色々興味深い話が聞けたと思う。特に口止めされてなかったから暴露しちゃいますよ?(鬼)
僕は僕でまた思いつきで色々ベラベラと。
異なる世界の人と話すと、今までハッキリとは見えていなかったことや、確信を持てなかったことに、確信めいたものを持てるようになってきたりする。
まあ会って話して思ったのは、氏のあのノリは悪意と言うよりは、ヲタに対する無知故のただの無神経(←暴言)。例えるなら「パワフルなかーちゃん」的な印象を受けました(←失礼)。
見方を変えれば、ヲタがあまりに神経質すぎるとも言えるかもしれない。
上に書いた「タブー」に無意識のうちに触れてしまいかねないのが、価値観の異なる人同士のコミュニケーションの難しさですね。しかしそこに拘泥してても建設的な話にはならんでしょう、と、僕は思います。
決行の日へ続く。
Kammy+氏の別のエントリに寄せられたコメントを見ていて気づいたが、嫌悪と恐怖を明確に区別したがる人がいるようだ。だが僕は、嫌悪と恐怖、嫌悪と軽蔑は、どれも同質の感情ではないかと思う。
「恐怖」とは、嫌悪の対象を己の力では退けることができない時、嫌悪の対象が己よりも格上である時に抱く感情だ。「軽蔑」とは、嫌悪の対象が己よりも格下である時に抱く感情だ。恐怖と軽蔑は、己と嫌悪の対象との力関係によって分かれるものでしかない。と、僕は考える。
ファッションについて無知な人間がファッションに関わろうとする時、ファッションについて無知な人間は、ファッションに詳しい人間に比べ、少なくとも知識・経験面においては絶対的な弱者だ。ファッションに力を注ぐことを嫌悪する人間がファッションに挑戦しようとするときに、この力関係を意識して感じる不快感は、恐怖と呼んで差し支えないのではなかろうか。
そして、これを恐怖と認めようとしない行動は、防衛機制の「代償」に該当するのではないだろうか。
まあ、そんなとこです。
Kammy+氏のレビューに乗っかってあれこれ書いてたけど、きちんと目を通してからでないと批判する資格は無いと言われるのも何なので、税込み999円出して買ってきましたよ電車男スタイリング・バイブル(Amazon.co.jp)。
さて通読してみた感想はというと、概ね購入前の印象と同じだ。とはいえ、立ち読み段階で読んでいなかった部分については、想像していたよりも、対象読者である「現在オシャレでないが、オシャレになりたいと思っている人」に対して好意的なスタンスで書かれているようには思えた。少なくとも、悪く言おうとしてそう書いたわけではないのだろうということは何となく分かる。
ただ、この本のコンセプトを「電車男と呼ばれるような人も含めて、オシャレになりたい人に届けたい(A)。その人たちはこういう内容の本を求めているはずである(B)。」と2段階に分けて解釈すれば、Aから導かれたBの内容がAの実態に即していない、という感想については、通読する前後で変化はない。例えて言うなら、「熱意は分かるけれども、バットの振りどころが外れてるなあ、所々ではキャッチャーの頭をぶっ叩いてしまってたりもするなあ」といったところだろうか。
【レビュー】『電車男スタイリング・バイブル』のコメント欄がちょっと面白いことになってる。
「アキバ系をオシャレに改造!」みたいなノリの本について、おそらく想定されていたであろう読者層のKammy+氏が辛辣なレビューを書き、そこに著者の人がコメントを付けて……という展開。
コメントを見て著者の方が色々カルチャーショックを受けているところが興味深い。オシャレ側の人は基本的に、オシャレは楽しいもの、服選びは楽しいものという価値観を持っているから、「いかに無難な服を選ぶかに必死」「服選びなんて苦痛で仕方がない」というマイナス思考の非オシャレ側の考え方をなかなか想像できない。また、「オシャレはみんなのもの」と彼らは思っているけれども、非オシャレ者にとってオシャレとは自分の容姿を嘲笑い攻撃する口実に使われるものでしかなく、つまり「敵の文化」として捉えられている、ということも。
これらの価値観の相違を認識しないままに「キミもオシャレになろうよ!」と呼びかけても、その呼びかけが届くことはない。なぜなら、勘違いで呼びかけているにすぎないから。あるいは、善意で呼びかけているつもりでも、受け取る側には「小馬鹿にされた」としか感じられない。いや、事実、小馬鹿にしているも同然だろう。目線を合わせて理解する努力を怠って、頭ごなしに語っていたのだから。
モテ界に生まれ育った人は、オシャレ界に生まれ育った人は、軽い気持ちで非モテや非オシャレに触ろうとすると火傷することになる。非モテも非オシャレも、想像よりずっと深い心の闇を抱え、想像よりずっと複雑な人間性を有している。高みの安全圏からものを言いたいだけなら、マスメディアだけに閉じこもるのがいい。マスメディアには検閲されないコメント欄もトラックバックpingもない。ただ送り手によってコントロールされた情報があるだけだから。双方向のコミュニケーションが容易で、且つ、その内容が第三者からも見て取れる、Webとかblogとかそういったメディアを軽い気持ちで使おうとすると、火傷することになる。
まあ敵とか味方とか、あっちとかこっちとか、考えるのがそもそも間違ってるというかおかしいことなんだというのは、正論なんだけれども。土曜日の結婚披露パーティでの司会の芸人さんの何気ないラブハラスメントのように、敗者を貶して笑いを取ることが常態化し、且つそれが自然なもの・奨励されるべきものとして受け入れられているこの世の中では、コンプレックスは増幅されこそすれ、解消されることなど無いのではないだろうか。だから、脱ヲタした人がヲタを馬鹿にするといった、コンプレックスを引きずったままの行動、敗者への攻撃の再生産が起こるのではないだろうか。
電車男がウケたのは、そこに流れる童貞非モテアニオタマインドにそれなりのリアリティがあったからだと思う。物語の素性が明らかになっていなかった頃、これを無条件に受け入れてしまった者は少なくなかったはずだ。
【レビュー】『電車男スタイリング・バイブル』に書き込んだコメントからの発展。
服装に無頓着でいわゆる「アキバ系」だったのが、服装を改善しようとし始めたときに、「うわー、いかにも脱オタ真っ最中ですって感じだね。ぶっちゃけ似合ってないよ。センスなさすぎ。」とか言われた時、どんな行動に出るだろうか。
僕は、きっとそうはならない。
このように、僕のように性根のねじまがった人間が、恋愛のことについて語りだしたのが、「非モテ」問題の一つの正体なんじゃないだろうか。と、ふと思った。
キャバクラ嬢が美容院で希望と異なる髪型にされたので損害賠償を求めていたという裁判で、24万円の支払い命令を含む判決が出た話について。
夏の葬列とかでは「気に入らんことがあったら全部訴訟かよ。醜いな。たかが髪型じゃねえか。」といった感じの意見が見られ、実際僕もそう思わんところがないワケじゃないけど。以下のような情報を目にすると、全く不合理な判決というわけでもないのかなと思えてきた。
「清潔感のある格好なら大丈夫」と言われたのを真に受けておろしたてのA系ファッション(キバカジ、アキバ系)で出向いたら果たしてそれは好印象に繋がるのか、という話。
以前、デートに行く際(いつぞやの「エロ絵男」の時ですね)の服装をどうすればいいんだああああおいらヒキヲタだからふぁっそんセンス皆無だっつうのおおおおおお!!とIRCで嘆いた際に、友人女性から「清潔感のある格好なら大丈夫だと思うよ」てな感じのアドバイスを受けた。
でもね。よくよく考えてみたら、「清潔感のある格好」ってのは、ピントのずれたアドバイスなんじゃないかと思うんだ。あるいは非常に曖昧で曲者の言葉。
風呂入るついでに、「手洗いすべし」と書かれてたズボンを洗濯石けんと小さなタライでごしごしとやってたわけなんだけど。オサレさんな人(っていうか外見があからさまな喪じゃない人)って、こゆことを毎日やってんのかと思うと、そういったことをこなしながら日常生活を送り趣味に恋にと奮闘する彼ら・彼女らのバイタリティに敬服する。彼らはバケモノだ。
翻って自分を省み、こうやって毎日やる気を消耗してたら僕はなんにもできなくなっちまうなあとも思った。一芸に秀でた喪というのは、他の全てを犠牲にしてそこにエネルギーを注ぎ込んでいるからこそ一芸に秀でることができているのであって、脱喪すれば人生を駄目にしてしまうんじゃないかという事を改めて思った。
洗濯ごときでそこまで妄想が膨らむ僕ってどうなんだろう。