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収録時や収録後の回想。
これも2次会でしゃべったこと。
非モテをこじらせるパターンで「女性」に全ての責任をなすりつけてしまうケースがあると思う(刺身氏もかつてそうだったと仰っていた)けれども、それはある意味で、女性というものを(性的な意味でなく、それ以外の点で)知らないからそうなるのかなあ? と、何となくだけど思った。
自分はこれまで何度か書いたとおり、高校時代に腐女子な先輩方に囲まれていて、でもって僕を男と意識してなんかいない部分が結構あったようだから、結構生々しい話も見聞きする機会がたまにあった。そこで知ったのは、女性といっても大体においては男性とさして変わらないっぽい、ということだった。異性に求めるもの、自身の生き方のスタンス、聞けば聞くほど「男と大して変わらん」と思った。不満の全ての原因を女性一般に押しつけるには、僕が見知った人達はあまりに「無害」すぎた。
ラジオクリルタイ公開収録3次会で話してたことなんだけど。
非モテはみんな年下が好きだ!という話があるけれども、非モテマインドを持っていると自認している僕にもそこはどうにもよく分からない。収録の時にもそういう(みんな年下好きだ!という)話が出ていて、もしかしたら僕一人だけかもしれないけど、「それは違うんじゃないの?」とずっと思ってた。で、3次会の時にその話がちょこっと出てきたので、思い切って聞いてみたんだけど。「そもそも非モテは年上と年下どっちが好きなんだ?」と。
そしたら大体の人が「年下でしょ」と、そうお答えになる。「じゃあ何故年下が好きなの?」と再び問うたら、「年下の方が御しやすそうだから」という答え。
でも僕はそれは、ほんとにそうなのかなあ?と思うんだ。年下の女性がほんとに御しやすいのだろうか? むしろずっと扱いにくいんじゃないのか? と。
ラジオクリルタイ公開収録2次会で参加者の人(はてなIDを伺ったんだけど失念)に「非モテって結局何なわけ? モテたいの?」と聞かれて、とっさに「モテたくないけど周囲がモテろモテろとうるさくて嫌だという人とか、モテたくてモテたくて仕方ないけどモテなくて苦しいという人とか、色々ある」と答えたのだけれども、これは考えが浅かったような気がする。
改めて考えてみたのだけれども、僕の認識では、非モテとはつまり自己承認できていない人で、且つ、自己承認の基準を他者に置いている人のことなのではないか?と思う。
ラジオクリルタイ公開収録に行ってきた。当日の一般参加で1500円払ったよ。いや、ほんとは仕事しなきゃいけないんだけど、全然やる気起こらなくて、せっかく東京にいるんだし聞いとかないと損かなあとか思ったしで、衝動的に。
ラジオ未収録の第3部も含めて、色々と興味深いお話を拝聴できました。というかほとんど竹熊先生の独演会だった気がする。しかしさすがはこの業界(何)の重鎮で、実に知識の幅が広く、また、それは氏ご自身の経験にも裏打ちされていて、含蓄のある言葉として感じられました。あと、終わった後に写メなんか撮らしてもらっちゃったYO!(何やってんだ自分)
ラジオクリルタイに混ざってうだうだ話してて思ったこと、話す前に思ってたことを、少しずつ小出しにしていこうPart1。
これは、収録後の飲み会で話したネタなんだけど。
僕には、自分のやることなすこと全てが周囲に対して何らかの「汚染」を引き起こしてるんじゃないかという、妄想じみた感覚がある。非モテ性なのか喪性なのか童貞臭なのか睾丸毒なのか何なのか、上手く言葉にできないけれども、とにかく何か、どす黒くて汚いもの、小学校のイジメみたいな表現で言えば「Piro菌」(どうでもいいけど「ピロリ菌」に音が似てますね。ほんとにどうでもいいですね)みたいなものがあると思っている。いや、正確に言えば、何となく漠然としたイメージだけがあって、それに敢えて名前を付けて可視化するなら、Piro菌とでも呼ぶのが相応しいような気がするという感じなんだけど。
ラジオクリルタイ第3回(後半)を聞いてて思ったこと。
2ちゃんねる喪男板的には「はてなダイアリーで名前(実名でなくても、発言から発言者を、そして他の発言を追跡できるようなidentifier)を晒してる人の感覚がよくわからん」みたいな感じだ、という話があったと思う。「ネットで名前を晒すなんて、誰からイタズラされたり犯罪に利用されたりするか分からないし、危なくて危なくて仕方ないじゃないか、こいつら一体何考えてるんだ」とか、「固定ハンドルが気にくわない。特定の名のもとに発言する奴なんてのは、ただの目立ちたがりか、商売根性の下衆だ。名前を晒して何かするなんてのは売名行為だ。」とか、そのへんの。
個人の名のもとに発言する人が多ければ、確かに、個人の利益のための売名行為は増えるだろう。匿名が推奨される環境なら、売名行為は排除されるだろう。それはいけ好かない奴が現れにくい、薄汚れたエゴが淘汰される、ある意味では清らかで美しい世界と感じられるものなのかもしれない。
しかし、有名人でもないただのいち個人の名のもとにできることなんていうのは限られている。何かあったときにはその個人が発言の責任者として集中砲火を食らい信頼を失うことになるから、下手な事はできないというブレーキも自然とかかる。逆に、匿名だと責任を取らされることがないから、リスクなく「下手な事」「まずい事」ができてしまう。だから暴走に歯止めがかからなくなることがままある。
薄汚れたエゴにまみれた世の中と、無責任な暴力が溢れる世の中とでは、どっちがより住みやすくて居心地のいい世の中なんだろう。そんなことを思った訳ですよ。
ラジオクリルタイ第3回(後半)を聞いてて思ったこと。
2ちゃんねる喪男板的には「はてなダイアリーで名前(実名でなくても、発言から発言者を、そして他の発言を追跡できるようなidentifier)を晒してる人の感覚がよくわからん」みたいな感じだ、という話があったと思う。「ネットで名前を晒すなんて、誰からイタズラされたり犯罪に利用されたりするか分からないし、危なくて危なくて仕方ないじゃないか、こいつら一体何考えてるんだ」とか、「固定ハンドルが気にくわない。特定の名のもとに発言する奴なんてのは、ただの目立ちたがりか、商売根性の下衆だ。名前を晒して何かするなんてのは売名行為だ。」とか、そのへんの。
個人の名のもとに発言する人が多ければ、確かに、個人の利益のための売名行為は増えるだろう。匿名が推奨される環境なら、売名行為は排除されるだろう。それはいけ好かない奴が現れにくい、薄汚れたエゴが淘汰される、ある意味では清らかで美しい世界と感じられるものなのかもしれない。
しかし、有名人でもないただのいち個人の名のもとにできることなんていうのは限られている。何かあったときにはその個人が発言の責任者として集中砲火を食らい信頼を失うことになるから、下手な事はできないというブレーキも自然とかかる。逆に、匿名だと責任を取らされることがないから、リスクなく「下手な事」「まずい事」ができてしまう。だから暴走に歯止めがかからなくなることがままある。
薄汚れたエゴにまみれた世の中と、無責任な暴力が溢れる世の中とでは、どっちがより住みやすくて居心地のいい世の中なんだろう。そんなことを思った訳ですよ。
ラジオクリルタイ第3回(後半)を聞いてて思ったこと。
2ちゃんねる喪男板的には「はてなダイアリーで名前(実名でなくても、発言から発言者を、そして他の発言を追跡できるようなidentifier)を晒してる人の感覚がよくわからん」みたいな感じだ、という話があったと思う。「ネットで名前を晒すなんて、誰からイタズラされたり犯罪に利用されたりするか分からないし、危なくて危なくて仕方ないじゃないか、こいつら一体何考えてるんだ」とか、「固定ハンドルが気にくわない。特定の名のもとに発言する奴なんてのは、ただの目立ちたがりか、商売根性の下衆だ。名前を晒して何かするなんてのは売名行為だ。」とか、そのへんの。
個人の名のもとに発言する人が多ければ、確かに、個人の利益のための売名行為は増えるだろう。匿名が推奨される環境なら、売名行為は排除されるだろう。それはいけ好かない奴が現れにくい、薄汚れたエゴが淘汰される、ある意味では清らかで美しい世界と感じられるものなのかもしれない。
しかし、有名人でもないただのいち個人の名のもとにできることなんていうのは限られている。何かあったときにはその個人が発言の責任者として集中砲火を食らい信頼を失うことになるから、下手な事はできないというブレーキも自然とかかる。逆に、匿名だと責任を取らされることがないから、リスクなく「下手な事」「まずい事」ができてしまう。だから暴走に歯止めがかからなくなることがままある。
薄汚れたエゴにまみれた世の中と、無責任な暴力が溢れる世の中とでは、どっちがより住みやすくて居心地のいい世の中なんだろう。そんなことを思った訳ですよ。
ラジオクリルタイ第3回(後半)を聞いてて思ったこと。
2ちゃんねる喪男板的には「はてなダイアリーで名前(実名でなくても、発言から発言者を、そして他の発言を追跡できるようなidentifier)を晒してる人の感覚がよくわからん」みたいな感じだ、という話があったと思う。「ネットで名前を晒すなんて、誰からイタズラされたり犯罪に利用されたりするか分からないし、危なくて危なくて仕方ないじゃないか、こいつら一体何考えてるんだ」とか、「固定ハンドルが気にくわない。特定の名のもとに発言する奴なんてのは、ただの目立ちたがりか、商売根性の下衆だ。名前を晒して何かするなんてのは売名行為だ。」とか、そのへんの。
個人の名のもとに発言する人が多ければ、確かに、個人の利益のための売名行為は増えるだろう。匿名が推奨される環境なら、売名行為は排除されるだろう。それはいけ好かない奴が現れにくい、薄汚れたエゴが淘汰される、ある意味では清らかで美しい世界と感じられるものなのかもしれない。
しかし、有名人でもないただのいち個人の名のもとにできることなんていうのは限られている。何かあったときにはその個人が発言の責任者として集中砲火を食らい信頼を失うことになるから、下手な事はできないというブレーキも自然とかかる。逆に、匿名だと責任を取らされることがないから、リスクなく「下手な事」「まずい事」ができてしまう。だから暴走に歯止めがかからなくなることがままある。
薄汚れたエゴにまみれた世の中と、無責任な暴力が溢れる世の中とでは、どっちがより住みやすくて居心地のいい世の中なんだろう。そんなことを思った訳ですよ。