たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
「かんなぎ」の登場人物のナギ(産土神)が非処女だった云々の話を聞いたばかりの頃に、かんなぎ1巻の最初の方だけ読める機会があったので読んでみた所、産土神としての回想シーンらしき場面で普通に腹ボテなナギが描かれてたんですよね。駄目押しで、この土地の生き物はみんな自分の子だとかそんな風な発言もあったし。だから今更処女非処女を取り沙汰するのがそもそも変なのでは……とその時は思ったんですけど、ガチで怒ってる人はこのシーンも「処女懐胎だからおk」という風に考えてたんでしょうか?
処女懐胎といえばキリスト教の聖母マリアも福音書では処女懐胎ってことになってるそうですけど、これ、実話としてイエスの父とセックスする前にマリアが既に妊娠してたっていうなら、普通に他の男の子供ですよね……
ふと思い立って鈴木先生の1巻を買ってみたのだけれども、処女非処女云々の話題の事でモヤモヤしている今のタイミングにこの話(「@教育的指導」前・後編)が来たというのは何か運命じみた物を感じてしまうよ……!
なんか……不思議なマンガだなあ。妙におどろおどろしい絵柄で、読んでると全然気が抜けない、読んでるこっちが緊張するような…… 架空の小中学校を舞台にしたマンガなんて他にもいくらでもあるのに、何が違うんだろう。
もしかしたら、本気度合いみたいなのの違いなんだろうか? キャラクター達がストーリーを繰り広げるための舞台、大道具としての学校、というのではなく、シミュレータとして用意された学校の中で各人が汗水鼻汁たらして半べそかきながら死ぬ気で生きてる、みたいな。
また処分しづらい漫画シリーズが部屋に増えていく……
Perlの入門書でだいぶ昔にお世話になりました結城浩氏と、もえじら組で参加した何度目かのコミケ会場でたまたま手に取って以来地味に毎回買い続けさせていただいている日坂水柯氏が、コラボレーションとな?! と、第一報を聞いてから気になっていた漫画版数学ガールの単行本が出たということで買ってきた。
うん。じぇんじぇん分かりまへん
教育コンテンツとしてかろうじて僕の役に立った(?)のは、「1は素数に含めない、のは何故なのか」という話くらいでしょうか……
数式部分がプログラムの(特にJavaScriptの)コードだったら、まだ僕にも理解できたんですかね。それとも、モノ扱いというか、対等な人間関係として見ていない
と評されるような人間である所の僕には、仮に「JSガール」だったとしてもやっぱり理解できないんですかね。
「今日からヒットマン」のことを悪く書いた直後にこういう事書いちゃうのってアレだなーと思うけど、「尊い物を片っ端から失ってボロボロに疲弊していった最後にやっと何かちょっとだけの見返りを得られる」というのは詰まる所この作品のことを指していたわけで。
そのボーイズ・オン・ザ・ランがついに10巻で完結した。最終話とエピローグは泣いた……社会的地位も何もかも失って、自分の事を蔑んでいた連中を見返してやる事も結局全然できなくて、でも「笑いたいやつは笑えばいいさ」みたいな強さに田西は辿り着けたんじゃないだろうか。そうであって欲しい。
本棚整理の時も売ったり処分したりしない、私的殿堂入りの10冊になったと思う。
1巻読んだ段階では、殺し屋の世界に引きずり込まれて卑怯な手を使いながらどうにかこうにか生き延びていくサラリーマン、てな感じの話だと思ってたんだけど……話が進むにつれてだんだん「秘められた才能を発揮」していって、読むのが辛くなってきた。で、5巻で「本部」の人間が彼を評価するようなセリフを言った所で、「あ、もうダメだ」と。何か自分の中で受け入れ難い一線を越えちゃったなと。なのでこの辺で僕はドロップアウトしようと思った。
なんというか、ラブひなと違う所がハーレム状態で囲まれる対象が女であるか「カッコイイ殺し屋」という立場であるかの違いでしかないような気がしてしまったんですよ。何も失わずに美味しいとこだけ手に入ってしまうという都合のいい展開が、「これを見続けてたらどんどん自分がダメになる」という危機感を抱かせた。
いや、トーキチさんは多分代償として平穏な生活を失ったりとか気分が休まらなくなってしまったとか、それなりの物は支払ってるのかもしれない。でも、そういう所にはこの作品ではフォーカスを当てていない、「それらは物語上必要ないもの」として省略されている感じがした。対する僕は、尊い物を片っ端から失ってボロボロに疲弊していった最後にやっと何かちょっとだけの見返りを得られる、そんな展開にカタルシスを感じる性格のようで。大当たりのジャンジャンバリバリフィーバー状態で美味しいとこばかり垂れ流されると、体が拒否反応を示してしまうようなんです。
殺し屋として大活躍するのは、せめて、ファントムオブインフェルノのツヴァイくらいの修行を経てからにして欲しい……
なんかこう、どうにもならない・どうにもできない閉塞感とか、うまくいかないイライラとか、すれ違いの無力感とか、将来への不安とか、目を背けているものを突きつけられるストレスとか、足掻いても勝てない惨めさとか、あることないこと色々なものが掘り起こされて増幅されて、リアルに震えが止まらないです。うん。このタイミングでこの連チャンはよくなかった。
しかしボーイズ・オン・ザ・ランは次で最終巻か……どういう所に落ち着くんだろう。
連載の掲載誌を一度だけ立ち読みした時に再登場してたから「あ、植村ちはる再登場するんだ」ということだけは知ってたんだけど。
なんというか……怒りとかそういうの以前に、悲しくなったわぁ。
そんな感想。
ザ・マーガレット2008年2月号(雪森さくら肉先生のマンガが掲載されているので買った)の後に読んだので、いろんな意味で複雑な気持ちになった。
コミックにシュリンクをしないとどうなるか?(その2) - 本やのほんね
うちの近所の本屋では、立ち読みした後に買ってちゃんと読みたくなりそうなタイプのマンガは見本のシュリンク無しが1冊置いてあって、一回読んだらぁとはどうでもいいやという感じのマンガは見本無し、という感じの運用をしてるような気がした。リンク先の「A」と「B」がそれぞれどういうマンガを好むのかということを考えると、これが一番合理的だと思う。
ふつう「不思議ちゃん」とかいうと、電波入ってる頭の弱い人とかそういうのを思い浮かべるんじゃないかと思うけど、本作に登場する「彼女」卜部さんはそれとは異なるベクトルの「不思議少女」と言えよう。ハサミで物を切り刻むという特技も、感情らしい感情を一切表情に表さない無愛想さも、「絆」で繋がった彼氏がいるから友達にはなれないという風な理屈に代表される独自の価値観に基づく判断も。「不思議」っていうより「<ruby><rb>謎</rb><rp>(</rp><rt>ナゾ</rt><rp>)</rp></ruby>」という言葉の方が多分しっくりくる。
そんな謎少女の卜部さんに対して、主人公の椿くんはいたって普通の健康的な少年だ。「彼女」に対して触りたいとか手をつなぎたいとかキスしたいとかの「ありがちな」欲は当然ある。でも謎少女の卜部さんはそれをことごとく拒絶する。卜部さん自身が望んだ時でなければ触れることも許されない。夏休みも、デートといえるようなデートはたった1回あったきりだ(2巻までの時点で)。世の中の「普通のカップル」がしてるような事、椿くん自身も「そうしたい」と思ってた事は、どうやら卜部さんとのつきあいの中ではなかなか得られそうに無いようである。
でも、いや、だからこそなのか、椿くんは卜部さんにますます興味を惹かれていく。期待しすぎず、でも絶望もしすぎない、適度な距離感を保ちながら、半ば「観察」してるような状態。この微妙な空気が許されるのは、作者自身が語っている通り、二人が「17歳」だからなんだろうな。
しかし、彼がこう安心してられるのは、目に見えて分かる「絆」が二人の間にあるからなんだろう。それが無かったら、どうだっただろうか……彼はこんなに余裕で毎日を送っていられたんだろうか?
剣と魔法のファンタジーな世界観で、何故かヤクザの抗争チックな魔法ギルド同士の争いが勃発。その渦中に舞い戻ってきた男の魔法の属性は、地水火風いずれにも属さない第5の属性、「萌え」だった。高位の童貞魔法使い達による「萌え」の魔法が猛威をふるう、ギルド同士の血で血を拭う争いは、後に「ドスペラード」と呼ばれる……という無茶苦茶な漫画。下らないネタを極めて真面目に描いているので、余計に笑える。
でも、最終童貞への試練の中で見る「夢」には、何かもの悲しさを感じてしまうんだ……
ギルドの最終兵器に彼は敏感に反応してしまったけど、童貞レベルの高まった男なら分かるだろう!? 「彼女」という響きのエロさが!! その一言がいったいどれほどの妄想を引き起こすか!!! 屈してしまった彼の事を誰が責められようか……!!!!(血涙)