たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
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絵柄、漫画表現の流行史。図版がないから読むのに想像力を要するけど、今のトレンドに繋がる流れを理解する上で重要な情報だと思う。
絵が嫌いっていうか、好きになれるわけがない、という気がしてきた。
だって自分の描いてる絵って、ほとんど代償でしかない。
たまたま自分に「絵のようなものを描ける」という技能があるから、そして、自分の欲しているものが世の中になかったり、買おうとしても手が出なかったりするから、手っ取り早く手に入れるために、自分で描いてしまう。
自分のノートに自分の好きなキャラのプリントがされてないから自分で描く、そんなところから絵描き歴が始まっている気がする。
オナネタを自分で調達する所から、僕のエロ絵歴(?)は始まっている(これは断言できる)。
自己表現とかそんな大それたことじゃあないんですよ。多分。
自分の絵が好きなんじゃなくて、自分の絵を褒めてくれる人が好きなんですよ。褒めてもらうことが好きなんですよ。褒めてもらえる絵が好きなんですよ。そんな絵を生産できる自分が好きなんですよ。だから、褒めてもらえない絵を描いても虚しいんですよ。
自己表現でもなんでもないくせに「絵柄が古い」と言われて落ち込むのは、僕の描く絵の絵柄が古い=それが萌える!抜ける!と思っている自分のセンスが古い=そんなあなたは絵描きとしてだけでなく人間として全てのセンスが古い=あんたももう歳だね、と言われているように感じるからなのかもしれない。
サルでも描けるまんが教室21での相原コージ先生による萌え絵(線画のみ)を見て、軽く絶望する。相原コージ先生が最新の絵柄に追従されている(さすがはプロだ)のに、僕は90年代の絵柄のまま進歩を止めてしまっている。
絵柄が古いということを、何度か指摘されてきた。
この間のコミケの後、クリルタイの打ち上げに混ざったときに、加野瀬氏にも聞いてみた。僕の絵はどのあたりが具体的に古臭いのだろうか、と。
とはいえ具体的にどこがそうであるというのを指摘するのは難しい、と加野瀬氏もおっしゃっていた。「どこが古臭いとは言いづらいけど、全体的に見たらどうにも古臭い感じが否めない」というのはハッキリしているのに。
こういう話題を取り扱ったまとめサイトのような物がある、と聞いたのでちょっと検索してみた。古い絵,新しい絵というページが引っかかったけれども、これのことだろうか?
よく考えたら(よく考えなくても)、僕は最近の萌え系の漫画、最新の萌え絵にあまり触れていない、というか全然触れていない。というよりもひょっとしたら、敢えて避けているのかもしれない。普段見ているのは「最強伝説黒沢」とか「闇金ウシジマくん」とか「ボーイズ・オン・ザ・ラン」とか「デトロイト・メタル・シティ」とか、萌え絵の対極にあるようなものばかりだから。
とりあえず、えすのサカエの未来日記(Amazon.co.jp)を買ってきてみた(以前組長が「面白いぜ」とお勧めしてくれて、えすのサカエ作品は「花子と寓話のテラー」をちょっとだけ読んだことがあって、少年エース系ならまだ僕の普段の守備範囲よりは萌え絵に近いだろうと思ったから。全然見当外れな選択だったでしょうか?)。他にも「最新の萌え絵の系統に属する絵柄」で内容が面白いものでオススメの物があるという人はぜひとも教えて欲しい。
ここしばらくずっとほぼ徹夜でマンガの作業を進めてるわけですが。どうも心残りな出来になりそうな雰囲気が漂いまくっているわけですが。肌の影のトーンとかそういうのは全部省略せざるを得ない感じ。もっと計画的に制作するべきでした、という反省を得た訳なのですが。
それはさておき。
昨日実際にコミケカタログのサークルカットを見ていて、自分の描いたサークルカットを見つけたけれども、その周囲のカットを見て憂鬱になった。流行の画風とは明らかにかけ離れた古臭い絵柄。「描き慣れていない」感漂う、整理されていない汚い描線。自分という人間をまさに体現するものだと思う。つまり、時流に乗ることもできず、上手く物事をこなすこともできない、どうしようもなく不器用で不器量な、僕の人間性を。
絵を描いてもそこにはどうしても僕という人間が滲み出てくる。僕の持っていないものは画面に現れ得ない。僕の描く絵は、僕の範疇に収まるものにしかならない。つまり、そこには何の救いもない。僕を救ってくれる、僕にない力を持った救世主を、僕自身が生み出せるわけがない。
つまり何をやっても縮小再生産にしかならない。何も「新たに得るもの」がない。
それでどうして虚しくならずにいられるというのだろうか。
「ここのデッサンがおかしい」とか、僕も含めて素人絵描きはよく言う。そこにこだわりすぎるあまり、失敗を重ねてしまう人もいる。でもそれってそんなに重要なことなの?
デッサンとはこの場合、物の形や角度、位置、バランスなどを正確に2次元に投影・投射して描く力のことだ。それらがどこか破綻している場合、「デッサンがおかしい」と言われることになる。実際に「デッサンがおかしい絵」の例を見れば一目瞭然だろう。
この絵では上半身が「上から見下ろした絵」、下半身が「下から見上げた絵」になっている。これほど範囲が広くて極端な「デッサンの狂い」はさすがにそうそう無いけれども、もっとミクロな部分、例えば全身に対する手首であるとか、顔全体に対する髪の毛であるとか、そういうレベルで「デッサンの狂い」は表出することが多いと思う。
こういった歪んだ絵になることを防ぐ方法は二つある。一つは、まずは全体を描いて、次に、おかしいところを見つけたらそこを片っ端から直していくという方法。もう一つは、消失点や補助線を取って製図的アプローチで「作図」すること。ただ、どちらにしても「躍動感に欠ける絵」になりやすいのが欠点で、最も良いのはやはり、最初から最後まで一発で描きながら破綻のない絵を描くことだ。そのためにはいわゆる「デッサン力」を磨くほか無い。
ところで、ある程度以上の「デッサン力」があるのなら、些末な「デッサンの狂い」に囚われて微修正を繰り返すことは、最初の絵の躍動感を、魅力を失わせる作業となってしまう。「デッサン」を過剰に重視する必要は必ずしも無いのではないか? というのが、ここで僕が言いたいことだ。そう考える根拠を以下に示そう。
「ここのデッサンがおかしい」とか、僕も含めて素人絵描きはよく言う。そこにこだわりすぎるあまり、失敗を重ねてしまう人もいる。でもそれってそんなに重要なことなの?
デッサンとはこの場合、物の形や角度、位置、バランスなどを正確に2次元に投影・投射して描く力のことだ。それらがどこか破綻している場合、「デッサンがおかしい」と言われることになる。実際に「デッサンがおかしい絵」の例を見れば一目瞭然だろう。
この絵では上半身が「上から見下ろした絵」、下半身が「下から見上げた絵」になっている。これほど範囲が広くて極端な「デッサンの狂い」はさすがにそうそう無いけれども、もっとミクロな部分、例えば全身に対する手首であるとか、顔全体に対する髪の毛であるとか、そういうレベルで「デッサンの狂い」は表出することが多いと思う。
こういった歪んだ絵になることを防ぐ方法は二つある。一つは、まずは全体を描いて、次に、おかしいところを見つけたらそこを片っ端から直していくという方法。もう一つは、消失点や補助線を取って製図的アプローチで「作図」すること。ただ、どちらにしても「躍動感に欠ける絵」になりやすいのが欠点で、最も良いのはやはり、最初から最後まで一発で描きながら破綻のない絵を描くことだ。そのためにはいわゆる「デッサン力」を磨くほか無い。
ところで、ある程度以上の「デッサン力」があるのなら、些末な「デッサンの狂い」に囚われて微修正を繰り返すことは、最初の絵の躍動感を、魅力を失わせる作業となってしまう。「デッサン」を過剰に重視する必要は必ずしも無いのではないか? というのが、ここで僕が言いたいことだ。そう考える根拠を以下に示そう。
「ここのデッサンがおかしい」とか、僕も含めて素人絵描きはよく言う。そこにこだわりすぎるあまり、失敗を重ねてしまう人もいる。でもそれってそんなに重要なことなの?
デッサンとはこの場合、物の形や角度、位置、バランスなどを正確に2次元に投影・投射して描く力のことだ。それらがどこか破綻している場合、「デッサンがおかしい」と言われることになる。実際に「デッサンがおかしい絵」の例を見れば一目瞭然だろう。
この絵では上半身が「上から見下ろした絵」、下半身が「下から見上げた絵」になっている。これほど範囲が広くて極端な「デッサンの狂い」はさすがにそうそう無いけれども、もっとミクロな部分、例えば全身に対する手首であるとか、顔全体に対する髪の毛であるとか、そういうレベルで「デッサンの狂い」は表出することが多いと思う。
こういった歪んだ絵になることを防ぐ方法は二つある。一つは、まずは全体を描いて、次に、おかしいところを見つけたらそこを片っ端から直していくという方法。もう一つは、消失点や補助線を取って製図的アプローチで「作図」すること。ただ、どちらにしても「躍動感に欠ける絵」になりやすいのが欠点で、最も良いのはやはり、最初から最後まで一発で描きながら破綻のない絵を描くことだ。そのためにはいわゆる「デッサン力」を磨くほか無い。
ところで、ある程度以上の「デッサン力」があるのなら、些末な「デッサンの狂い」に囚われて微修正を繰り返すことは、最初の絵の躍動感を、魅力を失わせる作業となってしまう。「デッサン」を過剰に重視する必要は必ずしも無いのではないか? というのが、ここで僕が言いたいことだ。そう考える根拠を以下に示そう。
「ここのデッサンがおかしい」とか、僕も含めて素人絵描きはよく言う。そこにこだわりすぎるあまり、失敗を重ねてしまう人もいる。でもそれってそんなに重要なことなの?
デッサンとはこの場合、物の形や角度、位置、バランスなどを正確に2次元に投影・投射して描く力のことだ。それらがどこか破綻している場合、「デッサンがおかしい」と言われることになる。実際に「デッサンがおかしい絵」の例を見れば一目瞭然だろう。
この絵では上半身が「上から見下ろした絵」、下半身が「下から見上げた絵」になっている。これほど範囲が広くて極端な「デッサンの狂い」はさすがにそうそう無いけれども、もっとミクロな部分、例えば全身に対する手首であるとか、顔全体に対する髪の毛であるとか、そういうレベルで「デッサンの狂い」は表出することが多いと思う。
こういった歪んだ絵になることを防ぐ方法は二つある。一つは、まずは全体を描いて、次に、おかしいところを見つけたらそこを片っ端から直していくという方法。もう一つは、消失点や補助線を取って製図的アプローチで「作図」すること。ただ、どちらにしても「躍動感に欠ける絵」になりやすいのが欠点で、最も良いのはやはり、最初から最後まで一発で描きながら破綻のない絵を描くことだ。そのためにはいわゆる「デッサン力」を磨くほか無い。
ところで、ある程度以上の「デッサン力」があるのなら、些末な「デッサンの狂い」に囚われて微修正を繰り返すことは、最初の絵の躍動感を、魅力を失わせる作業となってしまう。「デッサン」を過剰に重視する必要は必ずしも無いのではないか? というのが、ここで僕が言いたいことだ。そう考える根拠を以下に示そう。
「ここのデッサンがおかしい」とか、僕も含めて素人絵描きはよく言う。そこにこだわりすぎるあまり、失敗を重ねてしまう人もいる。でもそれってそんなに重要なことなの?
デッサンとはこの場合、物の形や角度、位置、バランスなどを正確に2次元に投影・投射して描く力のことだ。それらがどこか破綻している場合、「デッサンがおかしい」と言われることになる。実際に「デッサンがおかしい絵」の例を見れば一目瞭然だろう。
この絵では上半身が「上から見下ろした絵」、下半身が「下から見上げた絵」になっている。これほど範囲が広くて極端な「デッサンの狂い」はさすがにそうそう無いけれども、もっとミクロな部分、例えば全身に対する手首であるとか、顔全体に対する髪の毛であるとか、そういうレベルで「デッサンの狂い」は表出することが多いと思う。
こういった歪んだ絵になることを防ぐ方法は二つある。一つは、まずは全体を描いて、次に、おかしいところを見つけたらそこを片っ端から直していくという方法。もう一つは、消失点や補助線を取って製図的アプローチで「作図」すること。ただ、どちらにしても「躍動感に欠ける絵」になりやすいのが欠点で、最も良いのはやはり、最初から最後まで一発で描きながら破綻のない絵を描くことだ。そのためにはいわゆる「デッサン力」を磨くほか無い。
ところで、ある程度以上の「デッサン力」があるのなら、些末な「デッサンの狂い」に囚われて微修正を繰り返すことは、最初の絵の躍動感を、魅力を失わせる作業となってしまう。「デッサン」を過剰に重視する必要は必ずしも無いのではないか? というのが、ここで僕が言いたいことだ。そう考える根拠を以下に示そう。
「ここのデッサンがおかしい」とか、僕も含めて素人絵描きはよく言う。そこにこだわりすぎるあまり、失敗を重ねてしまう人もいる。でもそれってそんなに重要なことなの?
デッサンとはこの場合、物の形や角度、位置、バランスなどを正確に2次元に投影・投射して描く力のことだ。それらがどこか破綻している場合、「デッサンがおかしい」と言われることになる。実際に「デッサンがおかしい絵」の例を見れば一目瞭然だろう。
この絵では上半身が「上から見下ろした絵」、下半身が「下から見上げた絵」になっている。これほど範囲が広くて極端な「デッサンの狂い」はさすがにそうそう無いけれども、もっとミクロな部分、例えば全身に対する手首であるとか、顔全体に対する髪の毛であるとか、そういうレベルで「デッサンの狂い」は表出することが多いと思う。
こういった歪んだ絵になることを防ぐ方法は二つある。一つは、まずは全体を描いて、次に、おかしいところを見つけたらそこを片っ端から直していくという方法。もう一つは、消失点や補助線を取って製図的アプローチで「作図」すること。ただ、どちらにしても「躍動感に欠ける絵」になりやすいのが欠点で、最も良いのはやはり、最初から最後まで一発で描きながら破綻のない絵を描くことだ。そのためにはいわゆる「デッサン力」を磨くほか無い。
ところで、ある程度以上の「デッサン力」があるのなら、些末な「デッサンの狂い」に囚われて微修正を繰り返すことは、最初の絵の躍動感を、魅力を失わせる作業となってしまう。「デッサン」を過剰に重視する必要は必ずしも無いのではないか? というのが、ここで僕が言いたいことだ。そう考える根拠を以下に示そう。