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Latest topics 近況報告

たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。

萌えるふぉくす子さんだば子本制作プロジェクトの動向はもえじら組ブログで。

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Firefox Hacks Rebooted ―Mozillaテクノロジ徹底活用テクニック
浅井 智也 池田 譲治 小山田 昌史 五味渕 大賀 下田 洋志 寺田 真 松澤 太郎
オライリージャパン

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CSS Niteにまつわる一連のアレを見て思った事 - Jul 19, 2007

amachangさんのエントリ金子さん(刺身さん)とのやりとりとを見ていて、どうにも違和感をぬぐいきれなかった。

僕の中ではamachangさんの人間像というのは、朗らかで健全でモテ系で努力家でイケメンでスーパーハカーで非の打ち所のない人、という印象だった。なので、そのamachangさん自身が「外見で他人を差別すること」に殊更嫌悪感を表明している事が、不思議に思えた。今はもう削除されている、金子さんのエントリへのコメントに書かれていた過去のトラウマの話を読んでも、「ねじれてるなあ」という印象が強くなるばかりだった。

「外見で差別するのが許せない」と言いながら、そう言っている自分自身もまた「外見で差別」してる(自分自身がダサくならないように心がけている)、という事に、僕は矛盾を感じる。

外見での差別は何が何でも許せないということなら、世間の価値観に逆らいいわゆる「ダサイ」格好を貫き通すという生き方が、一本筋が通っててある意味で「正しい」と思う。逆に、自分自身もまた外見で差別する価値観から逃れられない・無意識のうちにその価値観に支配されているという業を受け入れるのであれば、他人が同じような業に踊らされている様子を見ても、虚しさを感じこそすれ、激しい怒りを感じる事はないだろうに、と思う。

なんでそこで攻撃性が外に向いちゃうんだろうか、受け流してスルーできなかったんだろうか、と、無責任な第三者の立場からはそう思ってしまう。僕のように自虐キャラが染みついてると、普段から弱みを晒しまくってガスを抜きまくってるから、いざ痛い所を突かれた時も、慣れで案外流せてしまったりして。少なくともヤバいほどのファビョり方はしないで済みそうな気がする。気がするだけかもしれんけど。

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僕が生きてていいのが当たり前だ、と思えなかったこと - Dec 27, 2006

「子供の全能感」という言葉から僕は、赤ん坊の「不快に思う(泣く)だけでその原因(濡れたおむつ、空腹、そのほか)が自動的に取り除かれる、自分は何でもできるスーパーマンだ、自分は何でもしてもらえる王様だ」という風な世界の認識の仕方の事を想起した。

通常、このような認識は、(世の中自分の思い通りになることばかりではないので)成長の過程で破壊あるいは修正され、世間との折り合いを付けながら自己愛を満足させる方法を見出していくようなのだそうだ。けれども、そこで失敗すると、他人と自分を比べる事でしか自分を肯定できない人間や、他人に褒められることでしか自分を肯定できない・他人に褒められるためだけに行動する「いい子」などになるのだとも聞いた。

つまり、上記の成長の過程において思いどおりにならないことがあまりに多すぎた場合や、条件付きの肯定しか得られなかった場合などに、「僕が生きてていいのは当たり前だ」という認識を持つことができず、条件付きの「生きていてもいい」しか認識できなくなってしまうのではないだろうか。

しかし自分の人生を振り返ってみても、自分が親からそういう扱いを受けていたという自覚はどうやら無い。何か別の理由があるのだろうか。

僕が生きてていいのは当たり前だ、と少しでも思えるようになったのは、彼女に存在を肯定されてからのような気がする。あったらいいなと思っていて、でもそんなことあり得ないよなと諦めていたことが、真っ向から否定されて、考えが変わったような気がする。

親からの愛に慣れきってしまって、親に肯定されているという実感が持てなくなってしまっていたのだろうか。過度に親にべったりで、近くにいすぎて、親が自分を無条件で肯定してくれることのありがたみを認識できなくなっていたのだろうか。少し遠い所から肯定されてやっと、それを認識できるようになったのだろうか。

そんなことを生きてていいのはあたりまえ。を見ていて思った。

がっつくのをやめるために - Dec 12, 2006

成功や欲望を「たいしたことねーな」と実感できるようになることにこそ、成功体験の意味はあるのかもしれないと、Masao氏は言う。

確かに僕自身も含めて非モテ層のうちある程度の部分の人は、勝利や成功に乏しい人生から脱出したくて、人一倍勝ちや成功に固執していて、平たく言えば何事に対してもがっついていて、だから、その逆に「どうせあんなの酸っぱいブドウに決まってる」とか「そういう価値観に異を唱えたい」とかわざわざ言う人も、そのうち何割かの人は間違いなく、それが成せないと知ったからひがんで言っているだけだったりして、結局この苦しみから解放されるためには、成功を渇望する感情をいかにして捨て去るか、欲をいかにして捨てるか、ということが鍵になるのだと思う。

そしてそれを実現する一番の正攻法が、実際に成功体験を得るというプロセスなのだけれども、残念ながら、誰もがそれを実践できるわけではない。本人の資質、物事のタイミング、努力では補いきれない要素が関わることだから。

そして正攻法以外の方法もあるけれども、それは多分もっと難しい。正攻法で行った場合、「飽きる」という人間の生理的性質によって、欲を捨てるという目的の達成に近づくことができるけれども、それ以外の方法では、例えば悟りを開いて無我の境地に達するなんていうのは、甘い考えを捨てきれないボンクラにはとてもとても無理な相談だろう。

どうすれば、がっつかないでいられるんだろう?

愛とか - Nov 07, 2005

明治セックル維新 新政府御性文帖非モテには残酷な言葉

他人から愛を受けなければ他人を愛せない。他人を愛せなければ他人から愛を受けられない。本当に救いが無いですね。

非モテと自画自賛 - Nov 02, 2005

自己承認の話と非モテ話とを結びつけて論じて欲しくないと言う人がいるけれども、「非モテ話」とは、ただの「女にモテない男の話」ではない。「誰からも、自分自身からすらも、一人前のヒトとして承認されない人間」を象徴する言葉として「非モテ」という単語が使われているに過ぎず、その本質は、「自己承認を得られないことで死ぬほど悩んでいる人間」についての問題なのだ。つまり、自己承認の話と非モテ話とは同じものだ。

問題は、非モテ者は自分自身による自己承認(自己愛、ナルシシズム)を確立できず、それ故に他者による自己承認(いわゆる愛)に依拠しようとしているところにある、と僕は考えている。

揺るがぬ自己愛を確立することさえできれば、彼らは非モテの悩みから解放されると僕は考えている。その点で、自らを「モラリスト」と自画自賛(※ここではこの言葉を、自分で自分を賛美するという意味で使っている)する「避モテ(女はみんなモラルがなっておらず、それ故、男の自分はそんな醜い女共にモテたいとは思わない、という一派)」は、確かに「非モテ」ではない。真性の非モテ者には自画自賛はできない。「避モテ」は「モテを敢えて避ける」というアクティブな存在だが、「非モテ」は「モテることができない」というパッシブな存在なのだ。

では、なぜ非モテは自画自賛しない・できないのか?

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Track02: イイコトイッタ featuring 非モテとか - Oct 31, 2005

Masao氏にブラボーと叫ばれてしまったので、ふと気になって、他に同じタグが付けられていたブックマークも見てみた。

萌えって結局自己愛を投影しているに過ぎないという話。全面的に同意するし、むしろ現実の恋愛にもそういうものを望もうとしてしまっているのではないかと毎日恐怖している僕がいる。拒否されるのも恐いけど、拒否されないのも恐い(それが重なると自分が調子に乗ってしまい、「萌え」感情と同じ要領で相手の人格を無視してしまうのではないか?と思うから)。

もう一件興味深い話があったけれども、非モテ話と絡めて語られると先方が不愉快だそうなので、リンクせずに語っておこう。その記事では、「格好悪くてもいいじゃん。無様でもいいから生きようよ。」といった類の励ましの言に対して、「いや、そもそも俺は格好良く生きたいのではなく、ただ堂々と生きたいのだ。格好悪く生きてもいいとあんたはいうが、あんたは格好悪く生きる俺を詰ったり嘲ったりしないと言いきれるのか? この社会は、格好悪く生きる俺を嘲笑わずに承認してくれるというのか?」と、常に不安に駆られている者たちの気持ちを代弁した上で、その不安は彼らが世間を「相当高いレベルの者でなければ即嘲る、血も涙もない競争社会」であると過度に悲観的に捉えているせいではないのか、「自分はもっと完璧超人でなければ社会から承認され得ない」と自己承認の最低基準を過度に高く見積もりすぎているのではないか、と論じていた。

僕自身、自己承認のハードルが異常に高いのを自覚してるところもある。メディアを通じて見せられる像が一様に「かっこよくて、受け入れられている」「かっこ悪くて、受け入れられていない」というものばかりだから(ドラマ等は顕著な例だろう。ドラマではモテキャラはほぼ間違いなく美男美女が演じている)、そういう物だと刷り込まれてしまっている、というところもあるような気がする。

……むしろ僕らの側が、モテキャラにかっこいい人物像を求めてしまっているのだろうか? そうあってほしいと願ってしまっているのだろうか? でないと、自分が「モテるために」かっこよくなろうと努力することの異義が失われてしまうから。あるいは、「モテない原因はルックスのせいだ、ルックスについて努力しさえすれば自分もモテるんだ、ただ、今はそれをしていない(don't)だけなんだ、可能性が無い(cannot)わけじゃないんだ」という言い訳ができなくなってしまうから。

Track02: イイコトイッタ featuring 非モテとか - Jan 01, 1970

Masao氏にブラボーと叫ばれてしまったので、ふと気になって、他に同じタグが付けられていたブックマークも見てみた。

萌えって結局自己愛を投影しているに過ぎないという話。全面的に同意するし、むしろ現実の恋愛にもそういうものを望もうとしてしまっているのではないかと毎日恐怖している僕がいる。拒否されるのも恐いけど、拒否されないのも恐い(それが重なると自分が調子に乗ってしまい、「萌え」感情と同じ要領で相手の人格を無視してしまうのではないか?と思うから)。

もう一件興味深い話があったけれども、非モテ話と絡めて語られると先方が不愉快だそうなので、リンクせずに語っておこう。その記事では、「格好悪くてもいいじゃん。無様でもいいから生きようよ。」といった類の励ましの言に対して、「いや、そもそも俺は格好良く生きたいのではなく、ただ堂々と生きたいのだ。格好悪く生きてもいいとあんたはいうが、あんたは格好悪く生きる俺を詰ったり嘲ったりしないと言いきれるのか? この社会は、格好悪く生きる俺を嘲笑わずに承認してくれるというのか?」と、常に不安に駆られている者たちの気持ちを代弁した上で、その不安は彼らが世間を「相当高いレベルの者でなければ即嘲る、血も涙もない競争社会」であると過度に悲観的に捉えているせいではないのか、「自分はもっと完璧超人でなければ社会から承認され得ない」と自己承認の最低基準を過度に高く見積もりすぎているのではないか、と論じていた。

僕自身、自己承認のハードルが異常に高いのを自覚してるところもある。メディアを通じて見せられる像が一様に「かっこよくて、受け入れられている」「かっこ悪くて、受け入れられていない」というものばかりだから(ドラマ等は顕著な例だろう。ドラマではモテキャラはほぼ間違いなく美男美女が演じている)、そういう物だと刷り込まれてしまっている、というところもあるような気がする。

……むしろ僕らの側が、モテキャラにかっこいい人物像を求めてしまっているのだろうか? そうあってほしいと願ってしまっているのだろうか? でないと、自分が「モテるために」かっこよくなろうと努力することの異義が失われてしまうから。あるいは、「モテない原因はルックスのせいだ、ルックスについて努力しさえすれば自分もモテるんだ、ただ、今はそれをしていない(don't)だけなんだ、可能性が無い(cannot)わけじゃないんだ」という言い訳ができなくなってしまうから。

Track02: イイコトイッタ featuring 非モテとか - Jan 01, 1970

Masao氏にブラボーと叫ばれてしまったので、ふと気になって、他に同じタグが付けられていたブックマークも見てみた。

萌えって結局自己愛を投影しているに過ぎないという話。全面的に同意するし、むしろ現実の恋愛にもそういうものを望もうとしてしまっているのではないかと毎日恐怖している僕がいる。拒否されるのも恐いけど、拒否されないのも恐い(それが重なると自分が調子に乗ってしまい、「萌え」感情と同じ要領で相手の人格を無視してしまうのではないか?と思うから)。

もう一件興味深い話があったけれども、非モテ話と絡めて語られると先方が不愉快だそうなので、リンクせずに語っておこう。その記事では、「格好悪くてもいいじゃん。無様でもいいから生きようよ。」といった類の励ましの言に対して、「いや、そもそも俺は格好良く生きたいのではなく、ただ堂々と生きたいのだ。格好悪く生きてもいいとあんたはいうが、あんたは格好悪く生きる俺を詰ったり嘲ったりしないと言いきれるのか? この社会は、格好悪く生きる俺を嘲笑わずに承認してくれるというのか?」と、常に不安に駆られている者たちの気持ちを代弁した上で、その不安は彼らが世間を「相当高いレベルの者でなければ即嘲る、血も涙もない競争社会」であると過度に悲観的に捉えているせいではないのか、「自分はもっと完璧超人でなければ社会から承認され得ない」と自己承認の最低基準を過度に高く見積もりすぎているのではないか、と論じていた。

僕自身、自己承認のハードルが異常に高いのを自覚してるところもある。メディアを通じて見せられる像が一様に「かっこよくて、受け入れられている」「かっこ悪くて、受け入れられていない」というものばかりだから(ドラマ等は顕著な例だろう。ドラマではモテキャラはほぼ間違いなく美男美女が演じている)、そういう物だと刷り込まれてしまっている、というところもあるような気がする。

……むしろ僕らの側が、モテキャラにかっこいい人物像を求めてしまっているのだろうか? そうあってほしいと願ってしまっているのだろうか? でないと、自分が「モテるために」かっこよくなろうと努力することの異義が失われてしまうから。あるいは、「モテない原因はルックスのせいだ、ルックスについて努力しさえすれば自分もモテるんだ、ただ、今はそれをしていない(don't)だけなんだ、可能性が無い(cannot)わけじゃないんだ」という言い訳ができなくなってしまうから。

Track02: イイコトイッタ featuring 非モテとか - Jan 01, 1970

Masao氏にブラボーと叫ばれてしまったので、ふと気になって、他に同じタグが付けられていたブックマークも見てみた。

萌えって結局自己愛を投影しているに過ぎないという話。全面的に同意するし、むしろ現実の恋愛にもそういうものを望もうとしてしまっているのではないかと毎日恐怖している僕がいる。拒否されるのも恐いけど、拒否されないのも恐い(それが重なると自分が調子に乗ってしまい、「萌え」感情と同じ要領で相手の人格を無視してしまうのではないか?と思うから)。

もう一件興味深い話があったけれども、非モテ話と絡めて語られると先方が不愉快だそうなので、リンクせずに語っておこう。その記事では、「格好悪くてもいいじゃん。無様でもいいから生きようよ。」といった類の励ましの言に対して、「いや、そもそも俺は格好良く生きたいのではなく、ただ堂々と生きたいのだ。格好悪く生きてもいいとあんたはいうが、あんたは格好悪く生きる俺を詰ったり嘲ったりしないと言いきれるのか? この社会は、格好悪く生きる俺を嘲笑わずに承認してくれるというのか?」と、常に不安に駆られている者たちの気持ちを代弁した上で、その不安は彼らが世間を「相当高いレベルの者でなければ即嘲る、血も涙もない競争社会」であると過度に悲観的に捉えているせいではないのか、「自分はもっと完璧超人でなければ社会から承認され得ない」と自己承認の最低基準を過度に高く見積もりすぎているのではないか、と論じていた。

僕自身、自己承認のハードルが異常に高いのを自覚してるところもある。メディアを通じて見せられる像が一様に「かっこよくて、受け入れられている」「かっこ悪くて、受け入れられていない」というものばかりだから(ドラマ等は顕著な例だろう。ドラマではモテキャラはほぼ間違いなく美男美女が演じている)、そういう物だと刷り込まれてしまっている、というところもあるような気がする。

……むしろ僕らの側が、モテキャラにかっこいい人物像を求めてしまっているのだろうか? そうあってほしいと願ってしまっているのだろうか? でないと、自分が「モテるために」かっこよくなろうと努力することの異義が失われてしまうから。あるいは、「モテない原因はルックスのせいだ、ルックスについて努力しさえすれば自分もモテるんだ、ただ、今はそれをしていない(don't)だけなんだ、可能性が無い(cannot)わけじゃないんだ」という言い訳ができなくなってしまうから。

Track02: イイコトイッタ featuring 非モテとか - Jan 01, 1970

Masao氏にブラボーと叫ばれてしまったので、ふと気になって、他に同じタグが付けられていたブックマークも見てみた。

萌えって結局自己愛を投影しているに過ぎないという話。全面的に同意するし、むしろ現実の恋愛にもそういうものを望もうとしてしまっているのではないかと毎日恐怖している僕がいる。拒否されるのも恐いけど、拒否されないのも恐い(それが重なると自分が調子に乗ってしまい、「萌え」感情と同じ要領で相手の人格を無視してしまうのではないか?と思うから)。

もう一件興味深い話があったけれども、非モテ話と絡めて語られると先方が不愉快だそうなので、リンクせずに語っておこう。その記事では、「格好悪くてもいいじゃん。無様でもいいから生きようよ。」といった類の励ましの言に対して、「いや、そもそも俺は格好良く生きたいのではなく、ただ堂々と生きたいのだ。格好悪く生きてもいいとあんたはいうが、あんたは格好悪く生きる俺を詰ったり嘲ったりしないと言いきれるのか? この社会は、格好悪く生きる俺を嘲笑わずに承認してくれるというのか?」と、常に不安に駆られている者たちの気持ちを代弁した上で、その不安は彼らが世間を「相当高いレベルの者でなければ即嘲る、血も涙もない競争社会」であると過度に悲観的に捉えているせいではないのか、「自分はもっと完璧超人でなければ社会から承認され得ない」と自己承認の最低基準を過度に高く見積もりすぎているのではないか、と論じていた。

僕自身、自己承認のハードルが異常に高いのを自覚してるところもある。メディアを通じて見せられる像が一様に「かっこよくて、受け入れられている」「かっこ悪くて、受け入れられていない」というものばかりだから(ドラマ等は顕著な例だろう。ドラマではモテキャラはほぼ間違いなく美男美女が演じている)、そういう物だと刷り込まれてしまっている、というところもあるような気がする。

……むしろ僕らの側が、モテキャラにかっこいい人物像を求めてしまっているのだろうか? そうあってほしいと願ってしまっているのだろうか? でないと、自分が「モテるために」かっこよくなろうと努力することの異義が失われてしまうから。あるいは、「モテない原因はルックスのせいだ、ルックスについて努力しさえすれば自分もモテるんだ、ただ、今はそれをしていない(don't)だけなんだ、可能性が無い(cannot)わけじゃないんだ」という言い訳ができなくなってしまうから。

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