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非モテメンタリティから脱して幸せに生きるためには、彼女を作るとか結婚するとか童貞を捨てるとか子供をつくるとかそういうのは対処療法でしかなくて結局の所、己の内面化された恋愛至上主義を捨て去り価値観の転換を図るしかないのではないだろうか、と思う。人生初の彼女ができても月1しか会えずさらに1年と経たずにリアル遠距離となり電話は常にNG連絡はメールのみという状況で、僕は非モテメンタリティから完全に決別して毎日を幸せ一杯に生きているとは、主観的には、なかなか思えない。
その苦しみを与えているのは他ならぬ内面化された恋愛至上主義、あるいは「理想的恋愛像」だ。恋愛関係なら電話で話して当然、恋愛関係なら悩みを相談しあって当然、恋愛関係なら記念日を祝いあって当然、恋愛関係なら○○して当然……そんなどうでもいい「ルール」を内面化してしまっているせいで、そんなことは達成される方が珍しいというのに、達成されないことで勝手に苦悩している。
下手をすると、今の方がその苦しみをより強く感じている可能性もある。「絶対に手の届かないもの」に対してなら諦めもできようものが、「もしかしたら手の届きそうなもの」となるとついつい勝手な期待を膨らませてしまい、それで勝手に落ち込んで、落差の大きさに苦悩することになる。
恋愛に類することのプライオリティを高く設定しすぎているからそうなる。プライオリティを下げればよいのに。「彼女の(彼氏の)ことなんて後回しだ」そう迷い無く言ってしまえるよう、考え方を改めればよいのに。それをやせ我慢でなく完全に内面化された本音として語れるようになればよいのに。
僕の場合、それに気付いていてもなお妄想を捨てられないのが、輪をかけて酷い点なのだけれども。
アメリカで行われたアニメ・エキスポで電車男(映画版)が上映されたらしい。
電車男の映画を見終わった後で高校生の一人が「こんなのやっぱり夢物語。ギークに恋人はできないんだ」とつぶやいた
というエピソードに全米が泣いた。
よっぽどの幸運を除き、待ってるだけじゃあ機会は訪れない、ということは言えそうな気がする……特にこの業界(何処?)みたいに男ばっかりの所では。
やっとネタバレ聞いてしまったとこまで話が進んだ……(そんな僕の事情なんてどうでもいい)
いやはや何というか、完璧にナメられてますね田西君。見くびられまくってますね。あらゆる人から。被害者であるはずの人からすらも。こいつならホイホイ応じてくれるだろう、困ったときにゃあ助けてくれるだろう、そんな打算が聞こえてきます。男にもプライドってもんがある、けどこの男にはプライドはない、それが分かってるんだな。さすがだな。
彼はこれから何処へ向かうんだろう……
もう一つ思ったこと。
勝ち組の人というのはそうでない人のことを嫌ってなんかいないようだ、と以前書いたけれども、それだけではない可能性も考えさせられた。つまり、「嫌う」だなんて対等な関係であるとはハナから思っていない、ただ見下しているだけだ、という可能性を。僕が接したその人がそうであるかどうかは知らないし分からないけれども、可能性として。相手より優位に立ってる人というのはみんな余裕綽々だから、余裕綽々な人というのはつまり相手より優位に立っているんではないか、と。
かつてチャラチャラやってて今技術者、という勝ち組な人から見たら、僕のように非モテ的精神が耳から目から鼻から尻から滲み出てるような卑屈で嫉妬深くて嫌みったらしい負け組人間は嫌悪の対象でしかないはずだ、毛虫のように嫌われているに違いない、と思っていたら、案外そうでもなかったらしい(先方からは、話してみたいと思われていた)という話について、友人が一言。
「会ったこともないような人を嫌えるような人だったら、多くの人に好感を持たれるチャラ男なんて、やってられないでしょ」
さもありなん。
会ったこともないような人を毛虫のように嫌うことのできる歪んだ精神性、そもそも自分の勘違いも知れないかもとか、今後変わってくれるかも知れないとか、そういう前向きな考え方ができないところ、そして、そうやって事前事前に自ら防衛戦を張り巡らしてコミュニケーションを取る機会を避けようとすることが、キモイのであって非モテ性の根源の一つなのであって、そういう人は救いようがないね。という話なのでした。
モテの数値化 「モテ係数」の算出方法で挙げられている式に基づいて計算してみました。式の説明と例題とを見比べてみて文言に曖昧なところがあったので、以下のように勝手に翻訳しました。
以下、「自分」を「甲」、「現在の交際相手/配偶者」を「乙」とする。
モテ係数 X = ((A × aD) × (B × bD) × 100) / ((C × cD) × (E - 14) × (F - 14))
自分の場合の計算結果:モテ係数 X = 0
現在交際相手がいない人は、B・C・cD・Fが存在しないので計算不可能。今の交際相手が初めての交際相手であるという人、自分が今の交際相手にとって初めての交際相手であるという人――二人以上と交際していない人が絡んだ時点で、式の後半を計算するまでもなく、モテ係数は0になる。ということが確定してるわけですね。
「男も女も交際相手くらいいて当たり前でしょ? お互い二人以上と交際してて当たり前でしょ?」と言われてるみたいでなんだか憂鬱になった。
一般人=全員オシャレで恋愛至上主義という考えを捨てないと脱オタは永遠の苦しみでしかないのコメント欄での不毛な応酬を見てて思ったこと。そして自分の内面を分析して思ったこと。
僕の考える「脱オタ」とは、「オシャレの対極にありキモイ状態」「女性から好感どころか嫌悪感を持たれる状態」を脱して「万人に受け入れられる最低レベルのオシャレ」「女性を虜にすることはできなくても、嫌悪感は持たれず好感を持たれ得る無難な状態」にまで這い上がる行為だ。よって、その第一の目標は「一般人の中に溶け込めるようになること」「悪目立ちしなくなること」だと言える。
これを見れば分かるとおり、僕にとって「無難」とは「オシャレの出発点」なのだ。
だがオシャレの専門家である(と敢えて判断する)天馬氏は、頑なにこの考えを否定する。「万人受けする格好なんてあり得ない、あるとしてもそれは地がイケメンでないと成立しない極めてハイレベルなものだ」と繰り返し、「それよりも自分の地を活かせる個性的な容姿を目指すべき。その方が、容姿としては無難でなくても戦略として無難である」と説く。
想像してみるに、氏の中でオシャレとはこの図のような構造になっているのではないだろうか? 「無難」は「出発点」ではなく「到達点の一つ」であるとして、個性ごとのオシャレの傾向の分岐はもっと初期の段階から始まっているというイメージなのではないだろうか?
この図を作るにあたって「男のファッションの系統」にどういうものがあるのか調べてみようとして男性ファッションの分類&解説というエントリに行き当たり、そこで「きれいめ系・無難」が「一つの系統」として挙げられていた。この事からも、僕はこの予想がある程度は的を射ているのではないかと考えている。
もし仮にそれが真だとするなら、確かに脱オタしたいと願う人間は、重大な考え違いをしていることになる。「脱オタの最初の目標地点にして、それ以上のステップを望むための出発点、誰にでも比較的簡単に到達できるであろう練習課題」と思っていた「無難」が、実はそれだけで既に一つの系統として成立するような奥深いものであるのなら、「無難」を目指すことはすなわち何の装備も成しに底なし沼に無謀にも突っ込んでいくのと同じことになる。
「オタクがキモイのは、普通じゃないから」というのが、件の質問の本質的な答えになるのだと思う。「倒錯者である」ことは、「普通じゃない」ことの一つの証左であろう。
おそらく一般社会には、「普通」の範囲を決定づけるルールがいくつもある。そのルールの中には、多少の逸脱を許される物もあれば、一切の逸脱を許されない物もある。「倒錯者でないこと」は、その中でも適合を比較的強く求められるルールなのだろう。表出する人間性100のうち2〜3程度までは倒錯しても許されるけれども、10も20も倒錯しだしたら異常で、50を越えればもはや「人間」としては扱えない、という程度に。
「非モテ性」も、「普通」の範囲から逸脱する性質なのではないだろうか。
益田さんのはてブでちょうどクリップされてた好意の返報性の話が、先のエントリに関係しているのではないかと妄想してみた。
普通の人は、返報性がない相手との関係性を早めに断ち切れる(相手が自分に対して関心が全く無いと分かったら、自分の方からさっさと手を引ける)のではないだろうか。切り捨てても次がある、多くの人とコミュニケーションの機会を持てるという予想が成り立つから、潔くなれるのだろうか。だから結果的に相手からの好意の返報の確率が適度に高くなって、「好意を示したら大抵は好意で返してもらえる」という考え・経験則を得るに至るのではないだろうか。
対する非モテは、返報性がない相手との関係性を断ち切ることができない(相手が自分に対して関心が全く無いと分かってもなおアプローチを続けずにはいられない)のではないだろうか。「脈有り」の相手と「脈無し」の相手とを見分けられない、相手の心理を見抜く力に欠けているのではないだろうか。もしくは、自分にコミュニケーションのチャンネルを開いてくれる稀有な存在であるからそんな相手であっても切り捨てられないのだろうか。だから結果的に相手からの好意の返報の確率が一般人のそれよりも低くなり、「好意を示しても好意を返してもらえない」という考えを強くすることになるのではないだろうか。
つまりは対人コミュニケーションスキルの欠如が全ての原因という話?
愛に見返りを求めてはいけない、ただ与えることに歓びを感じよ、と言う人は多い。しかし僕は思う。そう言う人は、見返りを得ていることに無自覚なだけなのではないのだろうか? ひょっとして、本当に見返りがなくただ与えるだけの愛を実践することで、その人自身が却って不幸せになりはしないだろうか? 考えようによっては、僕の非モテ性はまさにそのことによって養われたかも知れないのだ。
僕は心情的には非モテの性質を持っていると思うけれども、顔が醜いことを理由に見ず知らずの女性に罵られた経験は記憶の限りでは無いし、奥手で告白なんてしたことがないから当然「玉砕」「フラれた」経験もない、全く友人がいないわけでもない、そんな感じで、汁だくの非モテな人に比べると明らかに当事者性に欠けている。モテと非モテを数直線上に置いたなら、プラスの方ではないだろうけれども、かといってマイナスでもない、初期値ではゼロに近い位置だったのではないだろうか。
しかし僕はいつの間にかそこからマイナスの方に移行してしまっていたようである。何故、当事者性がないのに僕は非モテの性質を持ち、非モテの心理状態に(近いところに)あるのだろうか。もしかしたら、対異性の経験・恋愛に関する社会的言説以外の理由で、僕は非モテ性を得てしまったのではないか。そんな風に考えてみた。