民主的な政治と、投票の意義(に関する考察)

以下の文は全て非推奨です。読むことも、いかなる影響を受けることも、推奨しません。

2016年の今になって思う事

※このセクションのみ2016年に追記しています。以降のセクションの文章はすべて2000年から2001年に書けて書かれた物です。

2016年7月10日の参議院選挙前日の今になって、なぜか検索結果から参照されているようだったのでこのページを見返してみたのですが、いやあ若いですねぇ恥ずかしいですねぇ。当時18歳? 今33歳の目で見ると、恥ずかしくて顔から火が出ます。が、これも自分の一部だったものということで、当時書いた部分は手を加えずそのまま残しておきます。

代わりに、今の時点で思っている事を書いておこうと思います。当時の自分と同じ18歳の人も選挙に投票できるようになっているので、その頃の自分に聞かせるつもりで。

以下の文章では「選挙の後にガタガタぬかしても変わらない。選挙で物事が決まるんだ。だから選挙に行かなきゃいけないんだ。」という感じの事を語っていますが、これははっきり言って間違いです。実際には選挙がない時の方が大事です。選挙の直前になって急に誰かが一生懸命投票を呼びかけても意味ないです。趨勢は選挙の前に決まっていて、選挙はそれが可視化されるというひとつの区切りでしかありません。

だから、選挙の時に熱くならないで下さい。支持を集めたい一心で、我々には資金や組織力が無いからゲリラ戦を挑むしか無いのだ!みたいな自己正当化をして、法を犯したり他の人に迷惑をかけたりしないで下さい。自分は正しい事を広めようとしてるんだから少々の事は許されるのだ、みたいな思い上がりからルールを犯すような真似はしないで下さい。「協力してくれるなら味方だ」みたいな二元論でもって無限の同意や無償の全面協力を強いたりしないで下さい

そういう傲慢さや、見識の狭さや、頭の悪さは、見透かされます。そういう人を、まともな人は支持しませんし、好感も抱きません。また、本質的な人間性が変わらないままに、表面的にそういう行為だけ慎もうとしても、どうせできやしません。絶対にボロが出ます。人間性が変わらないうちは、何をやっても駄目です。諦めて下さい。そんな短期間で人は変われません。選挙の前だけ心を入れ替えて清廉にやろうなんて、虫が良すぎます。僕自身、このページの文章を書いてから16年も経って、その途中で色々自覚したり改めようと思ったりしてきましたが、結局できている気がしません。

そういう虫のいい考えは捨てて、地道にやって下さい。後ろ指を指される事の無いよう誠実にいきましょう。誠実にやったからといって、人に好かれる保証は無いし、支持される保証もありません。結局誰にも賛成してもらえないまま、というオチだって十分にあり得ます。でも、それでも誠実にいきましょう。それが最低条件です。

人に話を聞いてもらえないなら、聞きたくなるような話し方を考えましょう。無理矢理肩を引っ掴んで聞かせるような事はしないで下さい。話を聞いてもらえないのは、聞く気が無い相手が悪いのではなく、聞く気にさせられないあなたが無力なのでもなく、あなたと相手が違う人間だからです。そこが分からない限り、永遠に話は聞いてもらえませんし、聞いてもらえても、「分かってもらえた」と満足できる事は無いでしょう。

自分と違う人生を生きてきて、自分と違う考え方をしていて、自分とは相容れない考えを持っている、そういう人達を貶すでもなく取り込むでも無く、そのまま死ぬまでお互いに平行線を行き続けながら、同じ船に乗り続けるのが社会というものです。「自分と違う考えの人がいなくなればいいのに」とあなたが思うのなら、相手の側から見ても「自分と考えが違うこいつはいなくなればいいのに」と思われています。あなたは安全地帯にいるわけではありません。それを念頭に置いて、「何事もお互い様だ」という事を忘れないで紳士的にやって下さい。それが格好いい大人という物だと、今の自分は思っています。

2016年の現場からは、以上です。

この話をもうちょっと噛み砕いて書き直したエントリを書きましたので、もし良かったらそっちも見てみて下さい

何故「選挙」にこだわるのか

皆さん、「国会は議論の場、与党も野党もいろんな党の意見が議論され反映される場だ」なんて思ってはいませんか?

議会制民主主義の原則にのっとって考えれば、国会というのは「多数の議席をもつ(大多数の国民の賛成を得た)党が、政治を取り仕切る党すなわち『与党』となり、自分たちの考えを通す場」です。そして「国民の賛成を得られなかった党、すなわち政治に実際には参加させてもらえない『野党』は、永遠にその意見を反映されることはない」です。つまり、国政は国会での審議ではなく、選挙で決まるのです。

残念ながら今の国会は、「議論するための場」ではなく「議論させないための場」となっています。結局の所、いかに自分の党だけで過半数を押さえるか、いかに議論させずに自分たちの法案をゴリ押しできるか、それが全て――数の暴力でゴリ押しできないように「審議」「採決」をするのが国会の本来の機能のはずなのですが……

先ほどのなまっちょろい考えをわかりやすく言いなおすと、「今の自公保(連立与党)に任せればすべて安心、共産党(野党)なんかに国会を占拠されてたまるかッ!! でも野党の掲げるような(常識的な)意見は国会でも議論してほしいなぁ」といった感じでしょうか。しかし前述の通り、「野党」の意見は国会で議題にされることなどありませんので、この意見は矛盾しています。――こうして言い直せば、先ほどの考えがいかに支離滅裂な内容であるかがよくわかるでしょう。

選挙に積極的に関わっている人には上の意見の矛盾点は常識なのですが、選挙に無関心な人ほどこのような誤解をしてしまいがちです。自分の考えの矛盾にいつまでも気づかないために、平気で「口では野党支持、票では与党支持」などということをしてしまうわけです。選挙に興味のある人とない人の間でこれほど認識の格差があるのは、異常としか言いようがありません。

民主党の意見を国会で議論させたければ民主党に、共産党の意見を議論させたければ共産党に投票する……それが「常識」なのに、一般には誤解されたまま。こういう国民の馬鹿なところを、与党(自民党)はきちんと見抜いてるんですね……やっぱり賢いです、彼らは。だからこそ我々国民の側も、きちんとこういった「誤解されがちな当たり前」を理解し、選挙にのぞむ必要があるのです。

多数決でも民主的じゃないぞ!

さて。「多数決は民主的な決め方だ」我々は小さい頃から、そう教えられて育ってきました。でもよく考えると、それは間違い。正確に言うと、多数決だからといって民主的とは限らない、ということですね。まぁこんなのは当然ですけど。

「多数決」とは、一人でも賛成者の多い意見が有効になる採択方法のことです。そして同時に少数意見の切り捨てが行われるものです。「民主主義」とは、最も単純な意味では、権力者に対しての意味での「民」が政治の主役となれる制度のことです。

当然ですが、「多数決で決める」ということと「民主的である」ということは、全く別の次元の話なのです。

実際の政治では

最近、自自公(自公保)連立政権によって、ガイドライン法案や盗聴法・公選法改正(改悪)など、様々な政策が多数意見というだけで決定されてきました。反対意見が数多く存在していて、まだ十分な審議をしないままであったにも関わらず、ただ数が揃ったから可決された……これは疑いようのない事実ですね。

こういう批判をすると、まず出てくるのが「議員は国民の代表者、国民が選んだ人達。間接的とはいえ国民が選んだことなのだから民主的だ」という考えですね。しかし、よくよく考えればこんなもの民主的でもなんでもありません。昨今の投票率の低下は著しく、せいぜい50%前後というのが現状です。その中で過半数をとれば「与党」なのですから、全有権者の25%――たった1/4の支持があれば与党になれるということが分かります。全体の中でたった1/4、これは到底「総意」とは呼べません

また、公明がかつて選挙時に反自民をとなえていたのを憶えている人はいるでしょうか。そう、少なくとも比例代表において、有権者は連立を組まないと言った政党に投票したのであって、連立を組む政党には投票していないのです

以上のことを踏まえた上で、もう一度今の連立政権を見てみましょう。

自民党・自由党・公明党が選挙で議席を獲得した。これは民主的です。しかし、有権者の意思は即ちそのときの公約であって、「反自民」=「自民とは連立を組まない」と言っている党に投票したということは、民は連立を組んで欲しくなかったと言えます。にもかかわらず、この3党は連立を組みました。これは、有権者の意思ではありません。もっとはっきり言えば、この連立政権の成立は、民の代表者とはいえ議員という権力者達の間でだけの立案・決定であって、そこに有権者の意思は何ら反映されていません。保守党に到っては選挙後に生まれた政党で、国民の誰も「保守党」には投票していないのです。更に言えば、これらの党は全議席のせいぜい半数ちょっとしか確保しておらず、有権者の投票数に直せば有権者全体のたった1/4の支持でしかありません。これでどうして民主的であると言えるでしょうか。 まぁ、それでも「公約」を実行するのならまだ「意志が反映されている」と言えるでしょう。しかし公約が実行されない(例えば野党は議席数が少ないため、過半数の賛成を得られず、どう足掻いてもプランを実行できませんね)のはまだいいとして、公約と正反対のことをやってのけるなどというのは、有権者の無視以外の何ものでもありません。

以上より、大多数の有権者の意思を聞くこと無しに国会議員の間だけでの多数決で可決したということは明らかです。そして、繰り返しますが、これは日本国民全体のほんの数%でしかない人間の間だけで方針を決定づけてしまったということで、民主的どころか多数決でさえないというトンデモない事実を示しています。……本当にとんでもないことですね。私達は、どこの誰かも知らない、しかも考え方が一致しない人間に自分たちの国の政治を任せてしまっていたのです。

「コッカイギイン」幻想?

衆議院議員は「代議士」とも言うくらいで、国民の代表あるいは代理として政治に参加します。しかし議員だけが政治に参加するかというと、そうではありません。議員は国民によって選ばれなければならない……それはつまり、議員を選ぶことで自分も政治に参加しているということなのです。

政治なんて誰かに任せてしまえばいい、なんて考えてませんか? 誰かが勝手にうまいことやってくれるなんて思ってませんか? 政治家は賢いから、自分たちよりマシなことをしてくれると思ってませんか? それは大きな間違いです。

幼い頃―例えば小学校時代、上級生の子達は自分たちとは全く別種の人達だ、自分たちよりずっと大人なんだ、ずっと立派なんだ、と感じたことはないでしょうか。でも、その「上級生」になってみて、思ったはずです。「なんだ、上級生っていっても何も変わらないじゃないか」と。

卒業したとき、就職したとき、結婚したとき、子供を持ったとき、気づいたはずです。「なんだ、こんなもんなのか」と。それと同じです。国会議員だって、あなたと何も変わりません。政党も、基本的にサークル活動と何も変わりません(違うのは影響範囲が広いということくらいでしょう)国会にいる「コッカイギイン」という人種は人間として質が高い、なんてのはただの幻想です。「コッカイギイン」なんて超人は、どこにも存在しないのです

議員はあなたの代弁者でしかない……所詮、あなたの想像を越えるような「素晴らしい考え」なんて考えつくハズがないんです。逆に言えば、これは、自分も国会議員と同じなんだということです。あなたの一票が政治を動かすという決まり文句は、嘘でもなんでもない事実なんです。

「選挙」の役割

選挙は、国策を決定することではありません

代表民主制において、(選挙の段階での)候補者はただの意見カードに過ぎません。各候補者は国民の意見を代弁するため、意見を「公約」という形で掲げ、立候補します。これは、「政治」というカードゲームであなたに与えられた「手札」なのです。そしてこの時有権者ができるは、勝利(生活を良くしたい、世界平和を実現したい、 etc. )のために最も適したカードを手元から選び、それを勝負の場へ出すことだけです。

「勝利」が目的の場合、カードの材質の好き嫌いで選ぶなんてのはもってのほかでしょう。選ぶのは、カードではなくカードに書かれた意見なのです

別の例として、野球に例えて考えてみましょう。あなたは「政治」という試合に臨むにあたり、監督として何人もの選手を(こう言うと例えが悪いですが)手駒として使います。目標は「勝利」、即ち自分の望む社会を実現することです。

どの選手を使って試合に臨むか、それは全てあなたに決定権があります。能力で選ぶも良し、好き嫌いで選ぶも良し……しかし試合で勝つためには、自分にとって最も好都合(能力が高い)な選手を選ぶべきです。

お気づきでしょうか。選挙で選ぶのは、「コッカイギイン」という人間でなく、議員を通して議会へ運ばれるあなたの意見です。選挙とは、政治をしてもらう議員選びではなく、あなたの意見を国会という場へ運ぶ代弁者選びなのです。

「議員」と「国会」と「有権者」の関係

国会は、その名の通り「国の会議」です。

選挙とは、会議で「発言」することです。ただ「どうしたいか」「どこが不満なのか」を議題に持ち出させるのが、選挙の役目です。そして、それを「発言」した後、実際の世の中と照らし合わせてどう折り合いを付けていくかを審議するのは、我々国民の間ではなく議会で行うことです。

しかし、議員が議会に臨むにあたって、そこで発言する「意見」は、「あなたの意見」です、何度も繰り返しますが、国会議員はあなたの口です。あなたが送り出した「意見」が今、国会で審議されているのです。議員を選んでハイ終わりではなく、「自分の意見」が国会でどう扱われるのかを見守らなければならないのです。

「選挙」なんて無意味?

政治の実質が官僚によって取り仕切られている今、選挙などで民意を政治に反映させる事はできない、そう言う人もいるでしょう。

確かに実際のところ、「法案」は民意と関わりのない官僚によって作られ、国会はそれを承認するかしないかを決めるだけの場となっています。しかし、それをして「選挙などでは国政に民意を反映させる事などできない」と判断してしまうのは早計でしょう。

確かに選択肢(法案)を提示するのは官僚ですが、それを選択・決定するのは国会です。逆に言えば、今ある「国政へ干渉するチャンス」はもはやここだけと言っていいでしょう。「自分の思い通りの選択肢が作れない」からといって選択の権利まで放棄するのは、最後のチャンスを無駄にするという事なのです。最後のチャンスすら自分で放棄しておきながら「民意を反映させられない」などと嘆くのは勘違いもいいところでしょう。或いは、見識ぶって「選挙に意味など無いのだから、投票もしない」などと言っているのなら、それは自分で自分の首を絞めているに過ぎないでしょう。

「選択肢」即ち法案を作りたいのなら、官僚になり地位を築くしかありません。それができないのなら、せめて「法案の素通し」を避けるくらいはすべきです。

だから

投票しなかった人は、投票しましょう。適当に投票相手を決めていた人は、もっと考えて投票相手を決めましょう。

因果応報――自分がしたことは、自分に必ず返ってきます。いいことでも、悪いことでも。適当にやった「悪いこと」が返ってくるより、よく考えた「いいこと」が返ってきた方が嬉しいでしょう?

自分の身の回りの不満を変えるいい機会なのに、それを「どうでもいいや」なんて怠惰で無駄にするのは、どうかと思いますよ。

余談:投票相手の決め方

選挙直前になってから投票相手を決めるのでは遅いです。なぜなら、選挙直前はウソのつき放題公約なんてこれっぽっちも実現する気がない、なんて候補者が多いからです。政党も、あれだけ無茶苦茶やり続けた所でさえ、選挙直前になると突然「いい政党」ぶるでしょう? 選挙直前の発言ほどアテにならないものはありません (^^;)

投票する相手、あるいは政党を決めるなら、選挙のない時期――実際に政治が行われる時期の普段の行いを見て決めておきましょう。普段の行動にこそ、その候補者(あるいは政党)の本当の姿が出てきます。

これはちょうど、学校でいう「テスト」に似ていますね。試験直前は皆一夜漬けでどうにか急場をしのごうとしますが、普段のレポート作成や問題集の提出をサボっていれば、学力は身に付いていないのに変わりないですから、点数が良くなるわけなんかありません。これと同じで、普段アホなことばかりしている政党(議員)が急にいい政党(議員)になるなんてことはありえないのです

どの政党(連立政権)がどの法案を通したのか、どこの党の議員がヘマをやらかしたのか、どこの人がどんな問題発言をしたのか、それをちゃんと見ていれば、「どこに入れればいいかわからない」なんて間抜けな事にはならないでしょう。

更に余談ですが、今回の衆議院議員選で、自民党は「政権獲得の暁には森首相を続投させる」と発表しています。自公保連立が過半数を超えたら、あの森首相が再任するんですね。ああ、なんと恐ろしいことでしょう。

……というのが、選挙権も持っていないいち学生の思うところです。

尚、この文章は2000年6月に書かれたものを一部手直ししたものなので、当時の「実況」そのままの部分がいくつかありますが、ご容赦下さい。