MOON. 、 ONE 、 Kanon 、 AIR 。

勘違いされると困るので、あらかじめ述べておきます。僕は AIR という作品が大好きです。が、ギャルゲーだからあるいはエロゲーだからという理由ではありません。ひとつのドラマ作品として、好きなのです。

陳腐である。厚みがない。――何と言われようと、好きなものは好きなのです。これは、 AIR という作品に対しての賛辞と、そして key というブランドで活躍するクリエイターの方々への期待を述べた文章です。

AIR という作品の位置づけ

僕がよく使う「ジャンル分けの方法」に、「その要素を取り除いてゲームが成り立つか成り立たないか」という規準があります。例えばナムコの「鉄拳」とコナミの「ときめきメモリアル」にはどちらも女性キャラが登場しますが、前者は「格闘ゲーム」、後者は「ギャルゲー」と区別されます。「鉄拳」から女性キャラを差し引いても(絵面に潤いがなくなりはしますが)ゲーム性は何ら損なわれることはありません。だから「鉄拳」はギャルゲーではない。それに対し「ときめきメモリアル」は、女性キャラを差し引いてしまうとゲームそのものが成立しなくなります。だから「ギャルゲー」である、という具合です。

ゲームに限らずこの判断基準は何にでも使うことができるのですが、これを key の「 AIR 」に使ってみると、面白いことがわかってきます。

AIR からエロ要素を抜いたとしても、ゲームは十分成り立ちます。ですから、この作品はエロゲーではありません。では恋愛要素を抜くと? それでもゲームは成り立ちます。だから AIR は恋愛ゲームでもありません。じゃあ美少女キャラをなくしてしまうと? なんとこれでもゲームは成立し得ます。つまり AIR はギャルゲーでさえないということになってしまいます。

前作「 Kanon 」が恋愛要素が不可欠な「恋愛ゲーム」であったのに対し、 AIR はギャルゲーでさえない……では、 AIR は一体何なのか。僕は、強いて言うならストーリーを楽しむビジュアルノベル( (c)Leaf )だと思っています。

この「それを取り除いてもゲームが成立するかどうか」という判断法は、確か、だいぶ前にファミ通かなんかで見かけて感銘を受けて以来使い始めたものなので、僕オリジナルではない。なんかいかにも「俺が開発したぜ」みたいな書き方をしてしまったので、捕捉しておく。

MOON. から AIR へ

有名な話ですが、現 key のスタッフはほとんどが Tactics の主要スタッフだった人達です。特に麻枝 准氏は Tactics の「 MOON. 」「 ONE 」と key 移籍後の「 Kanon 」「 AIR 」全てにおいてシナリオライターを務めておられるため、これら4作品は一つの流れを持ったものとして捉えられることが多いです。

この4作に共通して言えることは、エロ要素がなくてもゲームが成り立ち得るということです(内容的に薄いからということではなく……例えば MOON. は比較的「濃い」シーンが目立つ作品ですが、主題とエロが無関係なためエロ要素がなくても作品は成り立つ、ということです)。18禁エロゲーという市場においてこういう性質を持っているのは、けっこう珍しいことです。(エロ以外の主題を持った作品というのは珍しくないのかも知れませんが、エロゲーというくくりの中にありながら「エロ」と「それ以外の主題」の比重が崩れ、主従関係が完全に逆転してしまっている AIR は、やはり異質な存在なのではないでしょうか)

MOON. と AIR では親子の愛、正確には「親から子へ」「次の世代へ」を主題としているのに対し、 ONE と Kanon は男女の恋愛を主題にしています。しかし ONE も Kanon も、より深く掘り下げれば、恋愛とは別の主題があります。それを考えると、この4作はいずれも 18 禁エロゲー市場という自由な表現の場で、表現したいものを表現する目的で作られたのではないか、と僕には思えるのです。

意外と自由な表現の場

こう言ってしまうとミもフタもないのですが、「表の市場」で表現したいことを表現するには相当な実力や運、資金力が必要です。ところが18禁パソコンエロゲーという市場だと、開発に必要な機材は安く手に入るわ必要なスタッフは少なくて済むわで、誰でも参入することができます。それこそ絵からプログラムから全て一人きりで開発しているメーカーも存在するくらいですから、いかに自由な市場であるかが量り知れると思います。

また、エロ市場というものは常に一定の利益を上げることのできる特殊な分野ですから、「まったく売れない」という事態をあまり心配しなくてもいい――極端な話、18禁パソコンエロゲーというのはエロ要素さえあれば最低限開発費は回収できる、そのためコンシューマ市場より自由なことを実験する機会に恵まれている場である、と考えることができます。

ONE ・ Kanon を AIR のための布石であると考えるなら、 AIR はまさにエロゲーの名を借りた大がかりな実験作と言えるのではないでしょうか。

AIR に垣間見る key の今後

AIR はエロゲーではない……しかし AIR がコンシューマ市場で発表されるべき作品かどうかは、疑問があります。各所で指摘されているようにこの作品には大衆ウケしにくい要素がいくつかあります。 AIR が認められ得るのは、まだ、そういった難点に寛大な……というより自由な表現の場としてのエロゲー市場に限られているのではないでしょうか。 key の方々には、 AIR の難点を克服し、次回作ではより洗練された作品を見せてもらいたいと期待しています。

NitroPlus の「 Phantom of Inferno 」でも感じたことですが、近年ただの「エロゲー」という枠には収まらない作品が増えてきているように思います。 SCE の「ネットやろうぜ」では SCE が全面バックアップすることで若い芽を育てようとしているようですが、そういった巨大なバックボーンを持たない人々にとってエロゲー市場という特殊な市場は、誰もがチャンスを掴む機会のある格好の舞台になり得ているのかもしれません。

エロゲーを下に見ているわけではありません(そういうところが全くないとも言い切れないですけど……)。ただ、「エロゲー市場」の中でエロゲーとはまったく異質なものが生まれ出て、育ちつつあるという状況に、不思議なものを感じたということです。

……てな事を AIR をやりながら考えていた次第。いや、まぁ、だからどうしたって感じですか(滅)

ところで。この文書を「 AIR 批判」と捉えてる馬鹿お人がいるようですが、なんつうか、ここで言わんとしてることが読めない人がいるということに驚いた。僕は「エロゲーでもギャルゲーでもない、純粋に面白いノベル作品」という賛辞のつもりでコレを書いたんですがねえ。

――まぁ、絵のコーナーとか見てもらえでもせんかぎり、そうとは読みとれないか。それが一般的な判断というやつなのですね。悲。そういうわけでページ内目次の前に序文を追加しておきました。