議事進行テクニックとWebと公益

これはインラインフレームを用いた無断転載に端を発する盗用問題についての徳保氏の記事から考えたこと。世間の人にとっては常識だろうから、齢21に達してようやくこの程度のことに気付いたのかこの愚図は、と鼻でせせら嗤ってやって下さい。壮大な勘違いであったら、この阿呆はどこをどう誤読すりゃあそういう結論になるんだ、と哀れんでやって下さい。

反論を引き出してダシにする戦術

自身は結論(「いずれは原則論にたどり着かなければならない」ということ)にたどり着いていても、その結論に至るまでの理屈を全て一気出しすることは敢えてせず、誤読(「インラインフレームはただの参照リンクなので、全てのケースにおいて盗用ではあり得ない。よって松永氏の主張に正当性はない。」という偽の結論)を誘うような段階でわざと手を止め、感情を逆撫でする文章にしておいて、釣られた人間の記事をネタにして真の持論(先述の「結論」)を補強し、私は一言、先を見通す視点を示しておきたかったとまとめる。それが徳保氏の戦術パターンなのだと僕は考えている。深読みできずに「釣られた人間」にしかなれないうちは、あるいは、そういう深い考えがあるとまで徳保氏を「信頼」できていないうちは、僕は徳保氏の記事にはツッコまない方向でいようと思った。僕は自分のちっぽけな見栄の方が大事な矮小な人間なので、「いいようにダシにされる」ことには到底耐えられないのだ。

徳保氏のこのような言動が「行き当たりばったりの苦しい言い訳」にまみれたただの煽りではなく、戦術であると気付かせてくれたのは、jintrick氏(そふぃあ氏)だ。徳保氏が「インラインフレームは参照なので無断転載・盗用にはあたらない」という偽の結論を導き出すのに参照している記事の著者であるjintrick氏は、自身のサイトのリンクポリシーにおいて、インラインフレームでの参照について 問題となるのは、あたかも自サイトのリソースの一部であるかのように見せかける行為です 、つまり、インラインフレームであるかどうかではなく、行為の結果を社会が盗用・無断転載であると見なすかどうかがポイントだと言及している。

つまり、僕やその他の人間がしたり顔で揚げ足を取るまでもなく、当の徳保氏もこのような考え方が「常識」であることは認識済みの筈なのだ。ならば、その常識にケンカを売るには理由があるはずだ。そう考え至って初めて、僕は徳保氏のそれが戦術であることに気が付いた。

僕の目には徳保氏は、ただ議論のためだけに議論をふっかける人、いたずらに常識を否定しその「常識」にしがみついている人の愚かさをあざ笑うことが目的の人、だから、最初に暴論をぶち上げて、「結論」をコロコロ変えて、あらゆる「反論」を手を変え品を変え屁理屈・詭弁で切り捨てていくのだ、という風に映っていた。しかし、よくよく考えてみれば、そんな行き当たりばったりのやり方が長続きするわけがない。となると、これはもう発想を逆転してみてみるしかない。つまり、暴論を最初に立ててそれを補っているのではなく、あらかじめ用意していた結論に誘導するために敢えて「見当違いの暴論」を装った切り出し方をしているのではないか、と。

このような手法で周囲を自分のペースに巻き込むのは、議事進行テクニックの一種である。

ただ釣られるだけの人と、敢えて釣られてみる人と

「偽の結論」「見当違いの暴論」に反応するとは、つまり釣られるということだ。この釣られる人には二種類ある。一つは、僕のように素直にそれをその人の結論であると信じ込んで、本気で反論するタイプ、「本気で釣られる人」。もう一つは、全て見抜いた上で、知的ゲームとして議論を楽しむために、あるいは議論を展開させる役を自ら担うために、ダシにされることを望んで反論するタイプ、「敢えて釣られてみる人」。

僕は今まで、「敢えて釣られてみる」とは、一段高みから見下ろして自ら隙を見せ相手のミスを誘い嗤いのネタにすることだと思っていた。しかし、そうではなく紳士的に「釣られてみる」スタンスもあるのだということに今やっと気付いた。

そのことに気付くきっかけになったのは、圏外からのひとことにおけるコメントで示された情報から展開された記事「釣られてみる」に至ったessa氏の思考についての記事だ。こちらのケースでは結局はessa氏の勘違いであったが、僕はここから、賢い人達の間ではそのような「会話」が成立し得るのだということを知った。

そうしてやっと分かったことは、世間とは単なる足の引っ張り合いではなく、そう見せかけた高度な知的コミュニケーションによっても溢れているのだということ。無論、本当に単純な足の引っ張り合いも溢れているのだけれど、そうでないケースまた溢れているのだ、ということ。

当然、ここに自分が参戦して利益を引き出すためには、「本気で釣られる」のではなく「敢えて釣られてみる」レベルで議論に挑まなければ行けない。そうでなければ、ただ彼の論を補強するいいダシにされて赤っ恥をかかされ、自分で自分の地位をどんどん貶めていくだけだ。短気は損気。僕のような直情型の人間はゆめゆめ注意しなければならない。特に、「参戦」するつもりなど無く単に「暴論をやりこめて自分の見栄を満足させる」というだけの動機で動こうとしてしまう時は。

Webでこの議事進行テクニックを使う上での問題

ところで、このような戦術には、Webのような公開討論場のような場ではデメリットが生じる。誰でも好きな時に好きなペースで「参戦」できて、議事録を辿る必要もないから、議論があちらこちらに飛び火して分散してしまうのである。

一つの会議室で特定小数を相手に持論を展開し説得を試みるのなら、先のテクニックは有効だ。しかしWebでは「議論の場」に上がる資格のない僕のような愚図でも参戦できる。このような場では、議論の展開のための手段に過ぎなかった暴論が、本来の目的とはかけ離れた利用法をされ、「誤読」する人を増やし、結果として不利益を拡大させることになりかねない。

そうなる一番の原因は、元の議論を議論として維持しようとする努力の欠如だと僕は思う。「敢えて釣られる」人はあくまで議論の継続が目的だから、トラックバックなりリンクなりで「元記事」も参照するよう紳士的に促すだろう。そうしないズボラな人、議論の継続をハナから目的としていない・自分の見栄を満足させることしか考えていない=議論の資格が無い者が問題だ。況や「本気で釣られる人」をや。僕のように、一方的な悪口を書いて「勝利宣言」して終わるのがオチであろう。そこにそれ以上の展開はない。第三者にとっては、阿呆が叩きのめされる様を観察して楽しむエンターテインメントとして以上の意味はない。

そういう「切り離された」記事(この文書なんかもその一つといえるかもしれない)だけを見て、はたして全ての人が「元記事の著者」「元の議論」の真意をくみ取れるであろうか? そういう事態がWebでは発生するということの危険性を、無視してはいないだろうか? ――「そんなの知るか。誤読する愚図が悪いのだ。真意が分かる奴だけ分かればいい。愚図など相手にする必要なし。」そう言われてしまうと、僕には返す言葉はまるで無いのだけれども。

「分かる人だけ分かればいい」というスタンスを取ることには、人類への絶望に基づくケースと、希望に基づくケースがある。希望に基づくとは、「きっと圧倒的多数の人は分かってくれる知性があるだろう、だからそのような心配は杞憂だ」と考える楽観論。絶望に基づくとは、「どうせ圧倒的多数の阿呆には分かるまい、分かるのは小数の知的エリートだけだ」と考える悲観論。後者は更に、「だから自分たちだけ勝手に栄えていくよ」というものと「だから自分たちが導いていくよ」というもの、二つのサブケースに分けられる。僕が今見ているものがそのいずれなのか、僕にはまだよく分からない。

補記

考え過ぎでは……と徳保氏御本人がそうおっしゃるのなら、考え過ぎなのだろう。どちらにしても、僕はこのような人達を相手に自己主張するにはまだまだ幼すぎるのだ。