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閉塞的幸福論からの続き。
非モテ論は本質的に排他的なものではないかと思う。「現在進行形で非モテな者」以外は語ることを許されないような雰囲気を感じる。特に「脱非モテ」した人間は、このことに触れるどころか一切の発言を許されないような雰囲気すら感じる。
非モテ界(?)では一般的に、非モテを脱したらモテになるという風に考えられているように、僕には思えるのだが、それは脱非モテした人に対してあまりに厳しすぎる考え方だと思う。実際には、「モテ」とはさらに上のステップだろう。だから多くの「脱非モテ」人は「モテ」にはなれず宙ぶらりんの状態で居続けることになるのではないかと思う。
僕は「モテ化」ではなく敢えて「脱非モテ」という言葉を使いたい。モテと非モテの間に、宙ぶらりんな「ナチュラルな状態」があると僕は考えていて、「ナチュラル」と「モテ」はまた違ったものであると考えている。そして、モテ陣営からは、ナチュラルと非モテは一緒くたに見られていると思う。
Masao氏のようなモテにもなれず、かといって誰からも相手にされない非モテにも戻れず、宙ぶらりんの状態にいる人間に対し、非モテ陣営の態度はあまりに頑なであるように思う。何を言っても「でもモテの言うことだから」と言われてしまっては、ナチュラルは浮かばれない。
僕の幸福論について、益田ラヂヲ氏がこの人が非モテだった頃なら納得したかも知れない
とコメントされているのだけれども……僕はこういう事を急に言い出したわけではなく、ずっと前から思い続けて、言い続けてきたことだ。無意識的には5~6年以上前から、意識的になったのはここ数年、だろうか。
むしろ今僕は、いかにすればこの閉塞的な幸福論から一般的幸福論に思考をシフトできるのかで悩んでいる。この幸福論は、僕が独りで生きていく限りには唯一無二の道だと今でも確信しているけれども、他者の人生をそれに巻き込んだ場合の危険性も認識していて、独りでないのならこの幸福論は封印するべきだと思っている。
一歩退いてこの件を見てみると、この幸福論に納得できてしまう人は独りで生きていくことができ、納得できない人は普通の幸せを掴まずにはおれない人なのではないか、と思う。
発言者のモテ非モテの話に続く。
恋愛できるかどうかというのは、努力と運の両方が必要だと思う。運が足りない部分はある程度まで努力で補えると思う。でも、どちらか一方だけでどうにかなるものとは思えない。僕はここまでの所、非常な幸運に恵まれていたと思う。
いくら自分の側が努力しても、相手が見つからなければどうしようもない。相手を見つけられるかどうかは、運だろう。ただ、努力して顔を広くすると、人との出会いの機会は増える。その結果として、相手が見つかる可能性が高まるかも知れない。僕は、Webサイトの運営を続けていなければ出会えなかったろうし、今失えば、これから先どれだけ努力しようとも、こういう出会いはきっともう一生無いだろうとも思う。
ルックスは、努力ではどうにもならないものと努力次第でどうにかなるものの両方があると思う。両親共に美男美女であるとかいうのは、完全に運だ。ただ、極端な話、整形手術という手段はある。僕は小さい頃に歯列矯正を受けたけれども、これだって立派な整形だ。ファッションセンス抜群な両親の元に生まれ育つとか、そういうのは幸運だけれども、そうでなければセンスは手に入らないというものではない、努力で後からでも身につけられるものだと思う。
努力と運とは複雑に絡み合っている。そんなに世界はシンプルではない。
全盲の人は、一人だけでどれだけ努力したって、色の組み合わせのセンスを身につけることはできないと思う。けれども、色を教えてくれる晴眼者のパートナーを見つけられれば、それも可能になるかも知れない。パートナーを見つけられるかどうかは、運かも知れない。けれども、話し上手になって人脈を広げる等の努力がそれを見つけられる確率を高めるために全く無意味であるとは思えない。
幸せの話に続く。
要約:
喪男NにYという女性がアプローチしているが、Nからは「妹みたいな感覚」と言われて本気にされていないようである。これは単にキープされているのか?
予想:
ていうか「Nさん」は喪男じゃないんじゃなかろうか。
明治セックル維新 新政府御性文録→ルサンチマンは個性ではなく…. - Kammy+'s spaceブログ版→A男さん・B男さんの話とその続きを見て。
タイトルに要約されてしまうんだけど。なんも見えてないより、下手に見えてる方が、地雷を踏んでしまうって事なんだろうなと思った。相手に対して真摯に接しているつもりでいて、A男のように「絶対」とか軽々しく言えるのは、計算高さをフル動員しているモテ男か、夢中になってて頭回ってない普通の男(盲目)かのどちらかだろう。
いわゆる喪男は他に情熱を注げる対象がないからか、とにかく自分の事だけは深く考察してる(それ以外に時間つぶしのネタがないから。これは実体験)。しかしあくまで自分という閉じた殻の中で頭を働かせているだけだから、考える材料に乏しく、偏った結論に辿り着きがちだ。故に小賢しい。
益田ラヂヲさんが 男と女の「喪」感の違いが何となく分かる
、とピックアップされていた、妄想くらいsasetekure。確かにその根底にあるものは大きく異なるようだ。
喪男と喪女の違いについて、僕の主観的な印象を表形式にまとめてみた。
from 夏の葬列
61 名前:('A`) 本日のレス 投稿日:2005/08/23(火) 01:06:28 0
ヲタクが恋愛に縁遠いそもそもの原因、それは顔や趣味がどうこう以前に、
ヲタクは「ホレにくい」タチというか、「自分にホレる女」が好みだからなのだ。
たぶん断絶の根っこは、「コミュニケーション弱者」に対する「軽蔑の視線」を許容するのか、しないのか?ってことを見て。
軽蔑・差別をおおっぴらに許容はしたくないけど、根絶は無理かなーと思う。なぜなら自分自身、コミュニケーション能力・スペックが低い自分の事を軽蔑してしまうから。自分の中で消せないものを他人にまで求められない。
昔、小林よしのりが部落差別関係の話で「差別は喜怒哀楽と同じ、人からなくすことのできない感情だ」みたいなことを言っていた気がする。そういうものなのかなと僕も思う。
人間は(例外はあるだろうけれども、概ねは)群を作って暮らす動物だ。「群の掟に従わない者は追い出す」のも「群の中で序列を付ける」のも、群を作る動物の特徴だと言えるのではないだろうか。
人類は、ヒトという種の限界を越えられるのだろうか。そういう壮大な試みのように僕には思えてきた。
脱オタの『脱』は、『脱出』じゃなくて『脱臭』の『脱』という人がいるけれども、単に「オタク」という言葉がいくつかの文脈において「キモイ容姿、キモイ性格、あるいはキモイ行動の人」という意味になるようになった(広辞苑で項目を分けていくつも意味が並べられるような感じで)だけなんじゃないかと思った。
単純に「根暗」の言い換え語とか「対人スキルが低い人」の意としても「オタク」が使われている気がする。という話。脱ヲタって、広義においては、性格改善とか対人スキル(容姿も含めて)向上とかそういう意味かもしんない。
ろばQさんは、しかし「「なにがしかの趣味的分野に深い愛着や拘りを持つ」と言うのは外せない」、とおっしゃっているけれども、そう考えるのは「旧来の意味でのオタクに分類されるような人間」や「不本意にもオタクと呼ばれてしまっている本人」だけで、「そうじゃない」世間一般では、拘りがあろうとなかろうととにかくキモければオタクなのではないだろうか。という話。
http://d.hatena.ne.jp/republic1963/20050809#p2
結果は、「趣味重視派・スクールカースト否定タカ派」らしい。いじめられっこで恋愛から逃避して趣味に没頭してた僕らしい結果だね……