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の動向はもえじら組ブログで。
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まあこれ見て思ったのは、「天然の勝ち組」には絶対敵わんわ……ということですね。劣等感に苛まれも、優越感に浸ることもなく、ただひたすら自然に自らの置かれた境遇を受け入れ肯定し、生きる、「天然」という生き方。「天然」になれば怖いものはない。そこに「勝ち組」という属性が結びついたら、もう、そりゃあなた、最強に決まってるじゃないすか。
天然の何が恐ろしいって、無理して頑張って努力して頂点に立って他人を見下すようになったわけでなく、ただありのまま生きてたら何か知らんけど真ん中より上にプカッと浮かんじゃいました、という所。憎めないんですよ。そういう人は。羨むことはできても憎むことができない。
自分を悪意を持って見下してくる人ならまだいい。こっちも憎み返すことができる。向こうは全然気にしないかもしれんけど、こっちの気は少しは晴れる。でもこういう人は違う。向こうは悪意を持って見下してるわけじゃないから、こっちが悪意を持って憎んだら、その憎しみだけが際立つ。「ああ、こんな素直な人相手にドロドロした事を考えて、自分はなんてダメで歪んだ人間なんだ」という風に、憎しみ攻撃が自分に跳ね返ってくる。
これは、あれですよ。江古田ちゃん的に言う、「猛禽」ですよ。
ひと昔前に生息していた「ぶりっこ」は
時がたつにつれ男共にことごとく本性を見抜かれぜつめつしたそして試行錯誤の末新たに誕生した「猛禽」は
我々の予想をはるかにこえる完成度をほこっている聞き上手で
下ネタにも寛容
ほっとかれてもふくれず
ブサイクにもやさしいつまり言葉では非のうちどころがない
(……これじゃただのひがみじゃないか? いやちがう 何か!何か責めるべきところが)←敵を自己嫌悪におとしいれる技をもあわせもつ
「猛禽」は対男の恋愛における天然勝ち組(またはそれを装う人々)だが、冒頭で示したリンク先のような生き方は、全方位での天然勝ち組的生き方と言えよう。
そんな「人生の猛禽」を地でいくような生き方。
以前にも似たような事を書いている気がしますが。
「脱オタ」の政治的解釈において、republic1963さんは「脱オタク」という言葉の意味として、以下の2つがあるということをさらっと書いておられます。
しかし、ここから単純に「脱」という漢字とその意味を外して考えれば、そもそも「オタク」という言葉自体が
という2つの意味を持っている(持つようになってきている)という事実が、自明の理として浮かびあがってきます。
成功や欲望を「たいしたことねーな」と実感できるようになることにこそ、成功体験の意味はあるのかもしれないと、Masao氏は言う。
確かに僕自身も含めて非モテ層のうちある程度の部分の人は、勝利や成功に乏しい人生から脱出したくて、人一倍勝ちや成功に固執していて、平たく言えば何事に対してもがっついていて、だから、その逆に「どうせあんなの酸っぱいブドウに決まってる」とか「そういう価値観に異を唱えたい」とかわざわざ言う人も、そのうち何割かの人は間違いなく、それが成せないと知ったからひがんで言っているだけだったりして、結局この苦しみから解放されるためには、成功を渇望する感情をいかにして捨て去るか、欲をいかにして捨てるか、ということが鍵になるのだと思う。
そしてそれを実現する一番の正攻法が、実際に成功体験を得るというプロセスなのだけれども、残念ながら、誰もがそれを実践できるわけではない。本人の資質、物事のタイミング、努力では補いきれない要素が関わることだから。
そして正攻法以外の方法もあるけれども、それは多分もっと難しい。正攻法で行った場合、「飽きる」という人間の生理的性質によって、欲を捨てるという目的の達成に近づくことができるけれども、それ以外の方法では、例えば悟りを開いて無我の境地に達するなんていうのは、甘い考えを捨てきれないボンクラにはとてもとても無理な相談だろう。
どうすれば、がっつかないでいられるんだろう?
僕ら非モテは、女性とコミュニケーションを取る機会が非常に少ない。男だらけの職場であるとか、その趣味のオフ会に行って喪男しか集まらないとか。にもかかわらず、いっちょ前に恋愛への渇望だけはある。そのため、女性と接する機会がない現状に強い不満を感じ、飢餓状態にある。心のスポンジがカラッカラの乾燥状態にある。
だから何の偶然か女性と接する機会を得ると、その女性を求める感情が「単なる飢餓感からのもの」なのかそれとも「社会的にそうあるべきとされている恋愛感情」なのかを吟味する間もなく、その女性に飛びついてしまう。心のスポンジの奥底までその女性のことを染み渡らせていいのかどうかを考える余地もなく、毛細管現象で心のスポンジの奥底まで自動的にその女性のことが染み渡っていく。
つまり一言で言えば、非モテは惚れっぽい。
そして非モテの中には、自身がそういう性質を持っているということをはっきりと自覚している、言うなれば過剰自己分析型の人が少なからずいる。僕自身もそういう人間だと思う。
そういう人間は、ある女性に対してときめいた時に「これは、恋……? いや違う、単に飢えてるから誰にでも反応してるだけなんだ、その人個人のことを想ってドキドキしてるわけじゃないんだ。これは、その人のことを好きだからドキドキしてるんじゃないんだ。」と自分で自分の感情を分析して、「そんな下らない感情で他人に迷惑をかけてはいけない」と自分にブレーキをかける。その結果として、誰に対しても一定のライン以上好きになることはなく、誰か女性個人を好きになることができず、にもかかわらず渇きと飢えはなくなることはない。そうして、「あの人を彼女にしたい」ではなく「誰でもいいから彼女が欲しい」という考えだけが継続して存在し続けることになる。
この事に対して、「本当に好きかどうか」なんかを気にする事に意味があるのか?と、シロクマ氏は問うている。そこでここでは、「本当に好きかどうか」を気にすることの無意味さを検証してみようと想う。
非モテ(の中のある種の人達)の特徴(優しい男は損ですかより抜粋)→それってアスペルガー症候群?
まあ即アスペルガー症候群だと言い切ってしまうのは短絡的すぎるしこれは冗談なのだと思うけれども、社会生活を送ることが著しく困難なレベルとまでは言えないけれども軽度のそれであることが疑われる、とか、その傾向がある、とかいうことは言える場合もあるんだろうな。と思う。
これを「全くのデタラメでありこじつけだ」と断言してしまうというのは、「そんなの努力が足らんだけだ」「根性が足りんのだ」と竹刀持ってケツをひっぱたいて無理矢理走らせるような人がしてることと同じことのようにも思う。
でも「それでいいんだ」と言ってて世界が回るのかな?という疑問もある。ビジネスの現場ではやっぱり非モテは求められてなくてモテの人の方が必要とされているようだということは、つまり、非モテは社会不適合者。非モテなんか世界にイラネーヨ、ということなのだろうし。
大抵のことには価値を見出すことは多分可能で、非モテにも価値を見出すことはできるのかも知れない。でもそうして自分達で見出した価値に社会が価値を認めない限りは結局、価値が無いことに変わりない。
回されたけど、回答していいんかな。顰蹙買いそうだ。
※ここでの「モテたい」とは、複数の異性にちやほやされることではなく、誰か一人でいいから異性として相手にしてくれる人が現れ得る状況にありたい、という意味ですよ。
「電車男」という単語自体がもう懐かしの物となっている今日この頃だけれども。
天馬唯氏は「『変わる』事を過剰に賛美する風潮が気にくわない、世間の価値観に迎合することを自ら選んだ『電車<ruby><rb>宦官</rb><rp>(</rp><rt class="読み">かんがん</rt><rp>)</rp></ruby>』連中は軽蔑の対象でしかない。自分の持って生まれた特性を引き立てて魅力にすることにこそ励むべきだ」、という風なことをよく書いておられる(た)。
確かに「電車男」と同じ道を歩むことにした人というのは、「世間の価値観に迎合」して魂を売り渡した人である、と、言うこともできる。しかし、それは特定の価値観だけに基づいて述べた一方的な見方であるように思う。
バハムートラグーンやったことないんだけど。
学ラン萌えの女性は結構いるらしいが、結局のところ、学ランを着たイケメン萌えってことなんじゃあないんですか?
学ランってブレザー+ネクタイに比べてデザインが極めてシンプルな分、素材の良い悪いがものすごく強調される気がする。上手に着こなしてアクセサリとかも組み合わせて髪とか眉とか鬚とかガッツリ手入れしてると、スーツを着こなすビジネスマンにも似た魅力が出てくるような気がする。でも、ボサボサ頭で繋がり眉毛でテカテカ油ギッシュのでかメガネだったりなんかしたら、「つまんねー奴」感がとんでもない勢いで強調されると思う。ええ僕の事なんですけどね。
同性愛者のコミュニティでは異性愛者のコミュニティに比べて恋愛対象として選ぶ相手の許容範囲が広い傾向にある、という話。リンク先ではその原因を、商業的圧力の有無によるものではないかと述べている。この指摘を読むと、自分がいかに無意識下の部分で「洗脳」されきってしまっているのかを改めて認識させられる。
ただ、だからといって、そんな現在の自分や他の人の考えを「偽りのもの、騙されているだけのものであって、自然状態ではもっと違うものになっていたはず」と否定するのは、何か違うと思う。そうして後天的に植え付けられたものまで含めて、その人の「アイデンティティ」なのではないかと僕は思っている。
……という風に呑気に思えるのは、現在の自分がその価値観の中で「完全な敗者」ではないからに過ぎないのだろうか。