たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
Apple(英語サイト)のダウンロードページから入手できる。malaさんの解説にある方法で全部のフォントをとりあえずMS UI Gothicに置き換えれば、日本語も表示できるようになる。あと、ブックマークを開こうとすると必ず落ちる問題も回避できるみたい。
というわけでご期待に応えて、Firefoxオワタ!
いや実際試した感じではまだ早いんだけどね。このページも文字が変な事になってるし……まあ正式版リリースまでにはきっちり直してくれることでしょう。多分。
まあ見どころは色々あると思うけど、僕にとって一番ショッキングだったのは、text-shadowをWebページ上で気軽に使える時代がやっときてしまうんだなあということ、そして、それをやったのはやっぱりGeckoではなくWebKitだったということ。僕の中でのGeckoの「終わってる」感がますます強くなった、そんな一つのエピソードなのでした。だってtext-shadowってもう10年近く前に策定された仕様なのによ? この段落にドロップシャドウが付いて見えないのが許されるのは小学生までよねー! キャハハハ!! キモーイ!! て感じですか。
Firefox Developers Conference Summer 2007に向けてまた手を入れている。
ていうかプレゼンツール作ってないでプレゼン資料の方をとっとと作れよと。
背中で語れとか言われたので思いついた端から送ってみたよ。
発想が貧困でごめんなさい。
「都内で」というのが多いのは実現可能性を考えてのことであって、他の地域を無視してるワケじゃありませんことよ?
なんとなーくずっともやもや感じてはいたんだけど、それをうまいこと言語化してくれてるなあと思った。基本的にMozillaのしてることって、地に足が着いてないっていうか。everyoneに向けて話そうとして、結局no oneに向けてしか喋れてないっていうか。あくまで理念先行っていうか。そんな気はずっとしている。
いや、正直なところを言えば実際には、ちゃんと地に足が着きまくってるんだけどね。ギークとナードにとっての「地」には。Firefoxを含むMozilla製品のコアユーザにとって、Mozillaが今のようなMozillaであるのは必然だし、そうでないと困る。僕自身、あの手この手で自分の思いどおりにいじれる情報収集プラットフォームであるFirefoxにドップリ依存していて、これがなくなるというのは、手錠をかけられ足枷をはめられ猿轡をかまされるようなものだ。
そんなニッチもニッチな層だけを相手にしてるだけでは満足できんからってんで、より広い層を相手にしたいんだろうけど、元が浮世離れしてるもんだから、「世間」との関わりが(それ自体、あるいは「世間」と関わりたいという意欲、「世間」と関わらないといけないという義務感なり恐怖感なりが)希薄だから、「自分と地域社会」や「自分と家族」といった中間の対人関係が思い浮かばなくて、それらをすっとばして「自分と世界」を直に結びつけてしまう発想になっちゃってるんじゃないだろうか。という気が僕にはする。
つまりMozillaはセカイ系だったんだよ!! な、なんだってー(AA略
意味が分からなかったので訳そうとしてみたけど余計に意味が分からなくなった。誰か正しい訳を教えてください。
You can be my Firefox 僕のFirefoxになって ※ I was so afraid 僕はとても恐れていた to come out of the dark 暗闇から出て行くことを where the light from my LCD LCD(液晶ディスプレイ)からの光が Kept me safe and warm 僕を護って、暖めてくれていた、その場所から But a big screen movie でも映画の映像が made me creep into the light 僕を光の中にゆっくりと導いた And that is when I saw you それが僕と君との出会いだった and I felt alright そして僕はイイ感じになった ※※ My heart went Yahoo! 僕はYahoo!の事しか見えてなかった When I Stumbled Upon you 僕が君と偶然出会った時 I couldn't help to Google 僕はググらずにはいられなかった Your beautiful face 君の美しい顔 So please don't be Froogle だから、お願いだから金の亡者にならないで with your love for this nerd このオタクへの愛をもって You can be my Firefox 僕のFirefoxになってくれ and I will be your Thunderbird 僕は君のThunderbirdになるから I am blogging your name 僕は君の名をブロギる to the whole of the world 世界中に向けて I created a web site 僕はWebサイトを作った so that I can proclaim そして僕は宣言しよう that my love is not a virus 僕の愛がウィルスなんかじゃないことを or spyware to you 君へのスパイウェアでもないことを So please let down your firewall ファイアウォールを取り去ってくれ And be my CPU そして僕のCPUになってくれ All I want to be is your MP3 僕は君のMP3になってしまいたい that is close to your heart in your iPod 君のiPodの中で、君のハートの近くにいられるから And when I'm missing you そして君が恋しくなった時は I want to lay my head on your laptop 君に膝枕をしてほしい ※※くりかえし ※くりかえし ※※くりかえし ※※くりかえし
追記。一カ所、誤訳を修正した。
勉強会の二次会三次会でZINさんとかと話したこと。
Firefox(Mozilla Foundation/Corporation/Japan)って、広めたいの? それとも、広めたくないの? という根本的な問い。目的のために手段を選ばない、という割り切りを何故Mozillaは持とうとしないのか。Mozilla Manifestoのような綺麗事に何故いつまでも拘泥するのか。
思うに、きっと今Firefoxの開発力なりプロモーション力なりを支えている人達にとっての「報酬」は、「Mozillaがそういう綺麗事にいつまでもこだわり続けている」ということそのものなんじゃないだろうか。金のためならなんでもする、目的のためなら手段を選ばないことが美徳とされる資本主義の世の中だから、「それに対するNO」であるMozillaがこうして立派に存在し続けている、ということが、「金のためならなんでもする」価値観の社会からこぼれ落ちてしまう人にとっての、希望になっていたりするんじゃないだろうか。その希望を糧にして、MozillaやFirefoxの支持者は、少なくない時間と労力を投じているのではないだろうか。……という見方は極端すぎるだろうか?
フォクすけブログの英語版ができた件を採り上げているニュースで、日本発のキャラクターらしく(?)若干"萌え"の要素を含んでおり
と書かれていて、「えぇぇぇぇぇぇぇ???」と思ってしまった。
もえじら組の立場が無いYO!
森奈津子風に言えば、「こんなんじゃ俺の萌えチンポは勃たねえ!」「こんなんじゃ私の萌えマンコは濡れねえ!」といったところでしょうか。
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最後の「イエーイ」で吹いた。何度見ても効くわこれは……
ふと思ったんだけど。
Mozilla Developer Centerで、元が英語の記事しかなかったものを日本語に翻訳するときに、分かりにくい箇所に訳注で技術的な補足説明を入れることってあるじゃないすか。じゃないすか、って同意求めるのもアレなんだけど、そういう場合がたまにあるし、他の人がそうしてるのもたまに見掛ける。
アレって、まあ英語独特の表現に対する説明であるとか、相当する語が無い場合の補足とかならまだわかるんすよ。でも、技術的な追加の説明が必要になるような原文って、そもそも原文見た人がちゃんと意味分かるの? って、ふと思った。
そもそもMDCってwiki形式で、誰でもどのページでも基本的には編集できるんですよね。だったら、英語の原文を日本語に翻訳するときに技術的な補足説明を付け加えた箇所は、積極的に英語の原文にも反映するべきなんじゃないの? と、思った。
なんか原文至上主義というか英語至上主義というか原典は触れてはならない聖域というかそんな空気がMDCの可能性を狭めてしまっているのなら、積極的に踏み越えていかないといけないんじゃないのかなあ。
とかなんとか思ってしまう僕はもしかしたらMDCにおける単なる秩序破壊者でしかないのかなあ。
Mozilla Europeの中の人による関連エントリの和訳シリーズも併せて。
池添さんは、「建設的な事もせずにグダグダ言うだけの周辺の人間を切り捨てれば開発はもっとスムーズに進む」「内輪ノリのコンテンツなんかを手作りするのに無駄な時間を割くくらいなら、プロモーションはプロに任せて、プロモーションの素人であるMozillaの中の人はもっと別の事に時間を使うべき」と言っていた。効率を重視して、最終目標を「良いプロダクトを作ること」「そのプロダクトを広めてより良い世の中にすること」と考えるのなら、それが一番だと僕も思う。