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Nyaxt氏に対する嫉妬、劣等感、卑屈な感情がわき上がる理由を考えてみた。このあたりはちゃんと掘り下げて納得いくまで分析しておきたい。
先のエントリに書いた内容には上記2点への言及があったので、まずはそこから見てみる。
まず、レイヤの違い。
以前、スポーツとか音楽とかをやってる人は一瞬の煌めきがあるからとかなんとか書いたけど、その点では、僕も彼もやってることは同じプログラミングだ。ただ、携わっているレイヤが違う。もちろん知識・技能・経験にも差はあるけど。
僕が見たいくつかの記事では、氏は3DCGのレンダラを開発しているという事が書かれていた。1000人スピーカでの発表内容もそれに関連した技術、分散コンピューティングとかマルチスレッドプログラミングとかに関する物だった。僕はこれらの技術は、色々な人が利用する物の基礎になる技術だと思ったので、氏が活躍すればするほど、例えば大都市の大深度地下開発のように、町、そこに暮らす人達全体が、幸せになると思う。コンピュータ世界の原理原則に関わり、不変の真理(=法則)を扱うものだと思っている。
対して、僕がやっているのは、Firefoxの拡張機能だ。CPUの上で動く、OSの上で動く、Mozillaのバーチャルマシンの上で動く、XULとJavaScriptの上で動く、インターフェースを改変するというオンメモリパッチ。色々なものの世話になった上でやっと成り立っている、ごくごく表面の部分の「改善」に過ぎない。氏のしていることを大深度地下開発に例えたけど、その例で言うなら、僕のやってることは水道の蛇口にホースを付けて、湯沸かし器からこっちの部屋まで温かいお湯を持ってこれるようにしましたよ、という程度のことでしかないと思う。
TBEのことを評価してくれる人はいるし、僕自身もそれに依存しきってたせいで長らくFirefox 1.5から離れられなかったくらいだけど、でも、TBEから何か派生的に他に価値を持つものが生まれてきたか? 具体的には、TBEの機能をさらに活用する追加の拡張機能は開発されたか? TBEのAPIを使った他のアドオンが他にあったか? っていうと、そういうものは僕の知る限りでは無かった。Tab Mix Plusのように「TBEのコンセプトによく似た、TBEに代わるもの」は出てきたけど。今僕の作ってる拡張機能も、その点ではあんまり代わってない気がする。Firefoxの「拡張機能」は普通にやってる限りは、技術の発展とか人の繋がりとかの袋小路になってしまうんではないかと思う。その物の価値以上の価値、幸福、富は生み出せない。でも基礎になる物は、そうはならない。Rubyという言語を作ったまつもと氏も、Railsを作った人も、本人が作った物以上の価値を、幸福を、富を、ユーザも含めたエコシステム全体が生み出している。
そういえば、「ブラックジャックによろしく」の初期の方の話で、臨床医療でお前が一生かけて救える人数よりもはるかに多くの人数を、私は研究室の中での研究の成果(新薬、新しい治療法、etc.)で救っている、という風なことを大学病院の教授先生が言って、臨床医の主人公は黙り込むというシークエンスがあったと思う。それと同じことを僕は感じたんだと思う。
次に、成長曲線の違い。
僕は先のエントリで年齢に言及したけど、もっと根源的には、氏と僕との成長曲線の違いに嫉妬したのではないかと思う。
氏のことを知らない人はまずIT PLUSのインタビューやIT Proの記事を見るといいと思うけど、小学生のうちからプログラミングに興味を持って、留学して、飛び級して、という風に物凄い急角度で成長して氏は今に至っている。その角度を維持したまま成長が続くと、この人は一体どこまで行くんだろう、という感じだ。
ちなみに、amachangについても似たようなことが言えると思う。Biz.IDのインタビューあたりを見れば分かるけど、amachangは比較的最近になって急激に伸びてきた人だ。某マンガのセリフを借りると、「超音速で成長中」という感じ。これもやはり、グラフの先は一体どこまで伸びるんだろう、という風に感じている。
一転して僕はというと、まあスタート自体は中学校からということになるけれども、彼らのように急加速で伸びていったりなんてことはなく、ずっとのんびりダラダラやってきた。中三から高校の間なんて、プログラミングからほとんど完全に離れて絵のことばっかりやってたし。新しい技術をマスターするために文献をガツガツ読む、なんてことは、面倒だからずっと避けてきた。寄り道が多くて、成長のグラフは鈍角も鈍角、全然上に伸びていかない感じだ。今の時点だけ見れば「結構いい所にいるんじゃん」って見える人もいるかもだけど、数年後、数十年後になって見てみたら「え、あんたまだそんな所にいるの?」って思われることは間違いないと思う。
「現時点で持っている物」にも大きな差があるし、「これから先為すであろう事」にも大きな差がある。そう感じたから、僕は負の感情を覚えたのではないかと思う。
それはそうと、いろんな人に迷惑かけたり不快な思いさせたりしといてあれだけど(特にこんな絡み方をされたNyaxt氏にとっては災難もいいとこだ)、当人はというと、先のエントリの内容を一気に吐き出した時点で賢者タイムに突入してたりするんですよね。
ぎゅうくえさんとこから辿って、Lock-free Queueについてというプレゼンを見てみたんだけど、この発表者のNyaxt氏って、最近どっかの記事で見かけたモノホンの天才プログラマの人か! まさかここ(1000人スピーカ)で見るとは思わなかった。
あー。本当に本当の最先端で何にも依って立たずにガンガン活躍してるこういう人を見てると、たかが一プロダクトの環境の上ですでにある物をいじくってるだけで得意げになれて自意識を満たせてしまってる自分がとてもスケールが小さくて滑稽でみすぼらしく思える。これ言っちゃうと関係者全員敵に回してしまうだろうけど、こんなレベルの低い僕程度の人間が「第一人者」とか言われちゃうんだからこの界隈(以下検閲削除) 所詮有象無象のボンクラがどんだけルサンチマン募らせた所で(以下検閲削除) っていうか自分もう今年で20代後半ですよ四捨五入して30ですよそれなのにこの人の業績の何百分の一も(以下検閲削除)
と、久しぶりにドロドロした卑屈な感情で胸がいっぱいになったのでした。
なんかねー。だめだわ。近づいちゃいけない。ニアミスしただけでこれだもの。実際にこの会場に行ってたら、実際に生で見てたら、発狂してたかも知れない。遠くにいる雲の上の人であるうちは、「はー、すごい人もいるもんやなあ」て感じでピンと来ないから何とも思わずにいられるけど、近づくと駄目。ていうか正直、近づいてこられるのが怖い。
なんだろうな。狭いコミュニティでCSSオンリーのレイアウトであーだこーだやってた所に、世界レベルのデザインセンスをひっさげてMovableTypeが来た! CSS Zen Gardenが来た! 黒船来港じゃー! ってなった時のような感覚だ。こういうことを言うとまーた友達なくすだろうなーと思いながら書いちゃうけど、レベル低い人間達が、競合相手がいないのをいいことに「俺たちゃトップランナーだぜ!」みたいな感じで徒党を組んで自意識を満たしてたのに、そこに「本物」がやってきて全部かっさらって行っちゃうんだ、みたいな。「もうやめて!おれのライフは0よ!」みたいな。「おれたちの戦いはまだまだこれからだぜ……え、全部終わっちゃった? あれれ?」みたいな。
いや、そんな風に考えてるのは多分僕みたいな人間だけなんでしょう。他の皆さんは、特にamachangとかは、素直に「すげー!」と称賛して「俺もそうなる!」って燃えて、どんどん上に駆け上っていくんだろうと思うし、今の位置なんてのもそんな中での通過点でしかないんだと思う。すごい人達ってのはホントにいるもんだな、と感心せずにはおれない。
そういう人達と知り合えて交流を持てたことは、幸せに思う。(←ここだけポジティブにがんばってみた)
絵柄が古いだのなんだのって、本質ではないんだよね。……ということを、プロのマンガを見ていて改めて思った。
加野瀬氏にもえじら組の本を見てもらった時に「古臭い表現」と指摘された「均一なカケアミ」「肉感的ライン」とかは、今でも第一線で普通に使ってる人はいるわけで。「そういう古臭い表現だから僕の絵は駄目なのだ」ということではなく、「そういう表現が『古臭い』ということ以外の何の印象も残さない物にしかなっていないから僕の絵は駄目なのだ」ということなんだったんだと、今、急に気がついた。例え僕が流行の表現を色々取り入れたとしても、それはそれで「流行を追いかけてるだけで薄っぺらいよね」と言われておしまいになるんだろうと思う。
「古臭い絵柄だね」も「今の流行りの絵だね」も、どっちも言ってることの本質は同じだ。「時代の平均的な絵の範囲からちっとも逸脱してなくて、個性がなくて、君の絵じゃなきゃいけないんだと思わせるような魅力が全然無いよね。その絵は他の人の絵と交換しても全然問題ないよね。っていうかむしろ、より上手に同系統の絵を描ける人がいるのなら、その人と積極的に交換するべきだよね。」ということだ。技術者は1円の金も稼がないという話で言えば、「『君の絵』は、君の『絵を描く技能』は、全然『かけがえなく』ないよね。」ということだ。
そうそう。プロといえば、今プロとして絵を描いている人の中で、確固たる地位を築いている人は、みんな「かけがえのない」絵を描ける人達なんじゃないかなーと思う。「かけがえなくない」絵しか描けない人は、それを買う人・編集して売る人の指示に従って、作品的には「どーでもいい」物を安く買い叩かれ納品させられているんじゃないかなー、と。「ONE PIECE」ソックリの漫画とか「DEATH NOTE」ソックリの漫画とか、少年マガジンの一部作品なんかもそうなんじゃないかという気がする。「技術者は1円の金も稼がない」という話は「技術者」に限らず「クリエイター」と呼ばれるような人達全般に言える事なんじゃないだろうか。
閑話休題。だから、僕の絵が充分に個性的で魅力的であったなら、「古臭いね」という風なことはそもそも言われなかったのだろうと思う。取り立てて魅力のない絵を見せられて、個性と呼べる物を見出すことができなくて、苦慮した果てに、僕の絵を「古臭い」と言った人達はそうコメントせざるを得なかったのではないかと思う。
僕は小さい頃から空気を吸うように絵を描いてきていて、「自分は絵を描く人間なんだ。自分という人間のアイデンティティにおいて、絵を描くということは欠かせないんだ。これは僕の誇りなんだ。」とずっと思ってきていた。でもこうして色々な事を考えてみれば考えてみるほど、結局僕はどこまで行っても、他人にとっては、「絵を描くことがアイデンティティの人」なのではなく単なる「絵が描けるという技能を持っているだけのただの人」であって、僕が自分の事を「絵を描く人」と言えば言うほど、チェーン店のファミレスの厨房でマニュアル通りに商品を作るだけの人間が「俺、そのうち自分の店を持つつもりなんだぜ!」と言っているのと同じような滑稽さを演出するだけだったんだな……
自分が本当に欲している事が何なのかということをよく考えることが、自己防衛や他人にかける迷惑を最小化することにつながるのではないか、ついでに言えば自己満足を得るためのコストを最小化することにもつながるのではないかと、僕は思っています。
なぜ自己防衛になると考えるのか。
僕がなによりダメージを受けるのは、自分ですら気付いていない本音を他人に看破された時です。「ああ、なんかいいこと言ったかも」といい気分になっている時に「お前のそれは一見もっともな批判に見えるが、出発点はただの嫉妬じゃないか」「お前のそれは自分を責めているのではなく、自虐を装って他人からの攻撃をガードしているだけじゃないか」という風に指摘され、それが事実だった時の恥ずかしさといったら、他に比べられる物はありません。
でも自分の本当の本音がちゃんと分かっていれば、「気付いていないことを指摘される」ダメージを避けられます。これが自己防衛ということです。
なぜ他人にかける迷惑を最小化できると考えるのか。
自分の気付いていない本音を看破された時、僕はファビョります。「自分は他人にそんな指摘を受けるようなみっともない人間ではありたくない」→「そうであるはずがない」→「そうだつまり相手の指摘の方が間違っているのだ」という風に現実をねじ曲げて自分に都合の良いように解釈し、自分の優越感を維持するためにありとあらゆる卑怯な手を使います。自虐で逃げますし、関係ない話を持ち出しますし、「いや、僕の言いたかった事はそういうことではない」とのらりくらり言い逃れしますし、人に泣きつきますし、「ボクたんかわいそうでしゅウワァァァァァン」アピールだってします。そうして被害を拡大させます。関係ない人まで何時間でも何日間でも巻き込み続けます。見栄を張りつづけるためだったらどんな犠牲も厭いません。
でも最初からそれが自分の本音だと分かっていれば、それ以上ファビョらずに済みます。「そうですね、まったくあなたの言う通りです。困った物ですね。」これだけで終わることができます。これが、迷惑を最小化するということです。
なぜ自己満足を得るためのコストを最小化できると思うのか。
実体の掴めないモヤモヤした欲求を持っていると、それを満足させるために余計なコストを支払わなくてはなりません。なんかこの机は気に入らない……こっちの机も何だかピンとこない……この机もダメ……ああでもこっちはちょっといいかもしれない……そんな風に、店の中にある机をかたっぱしから試してみても結局決断を下せない。時間的コストの浪費ですし、人を付き合わせているならその人にだって迷惑をかけます。
でも、どうしても譲れない一点が明らかになっているなら、あるいは求める事項の優先順位がはっきり分かっているなら、妥協もできれば諦めもつきます。この机は棚が付いていて形がすっきりしているからこれを買おう。引き出しが付いていないのは重要度が低いから諦めよう。この店には最低限の要求事項を満たす品物が無かったから何も買わずに帰ろう。目的は買い物ではなく商品を見ることだから、商品を見ることだけに専念しよう。そういう風に、到達するべき目標が明確になればなるほど、それを解決するための最短距離を突っ走れるようになりますし、目標との間に横たわっている解決すべき問題も明らかになってきます。余計な試行や手探りのトライ&エラーを繰り返さなくても済みます。これが、自己満足のためのコストの最小化ということです。
その裏返しだと思いますが、僕は、自分が本当にしたいことは何なのか・どうしてそういう行動に自分が出たのかということを深く考えてみない人、自分の気づいていない本音に嘘をつき続ける人があまり好きではないようです。なぜなら、前述したことの全く逆の事が行われる、すなわち、無駄に勝手に傷つき、無駄に僕に迷惑をかけ、お金や資源を無駄にすると思うからです。それでは本人も他人も誰も幸せになれないと思います。自分をいじめて他人を幸せにするか、他人に迷惑かけて自分を幸せにするか、自分も他人も両方幸せにするか、とにかく少しでも生産的な方が僕には「マシ」だと思えます。
前のエントリのようなキモイ自虐エントリを書くことで僕は、自分の考えを整理して、前述のような諸々のコストを最小化することができます。だから、僕にとってはこれはただの不合理な演技やストリップショーやプロレスではなく、合理的な選択の一つだと思えるのです。もっとも、それが自分以外の人にとっては不愉快な文の垂れ流しにしかなっていないということは否定できませんが。その点において僕は、他人に迷惑をかけてでも自分を最も低コストで幸せにすることを選んだ、と言えると思います。
この結論に辿り着くにあたってきっかけになったかもしれない最近読んだ関係ありそうな話:「本当の本当のところは『嫌ンなるのに理屈なんざねェ』わな」
最近思ったというかやっと自覚したこと。
まあすでに気付いてる人も相当数いそうな気もするんですけど、どうやら僕は、自分よりも自信ありそうげに見える人を見るとそれだけで不快感を感じ、どうにかしてその自信をへし折ってその人が自信喪失して凹んでいる様子を見たくてたまらない、という人間のようです。
自分に絶対的な自信をなかなか持てず、自信たっぷりげな発言をした5秒後には「でもやっぱり間違ってたのかも」と自信喪失してオロオロし、周囲の人に「間違ってないよね? 合ってるよね? ね? ね?」と確認して回らずにはいられない。そんな脆弱な、他人任せのフラフラしたものが価値判断の基準であるということが僕の劣等感の源泉の一つであるようです。だからなのか、自信たっぷりに「これが正しい」と言いきったり、自信たっぷりに他人を非難する人を見たりすると、嫉妬に駆られてしまうようなのです。何でお前らは僕にできないことをそうも平然とやってのけるのか。羨ましい、妬ましい、憎たらしい。
だからなのか僕はしばしば、それが客観的に正しそうではない場合でも、突っ掛かったり口を挟んだり野次ったりする。僕の目に「自信たっぷり」そうに見えるその人が、自信を喪失して意気消沈したり、自信の拠り所を失って混乱したり、そういう風に僕と同じレベルにまで堕ちてくるまで足を一生懸命引っ張って引きずり下ろそうとする。自分のしていることの意味がそんな風に思えます。
今僕がそういう人を目にしても突っかかっていってないとしたら、それは単に、僕ごときがその人に噛み付いたところで引きずり下ろすどころか返り討ちに遭うだけだと、その人と自分との間の(自信の確かさ、口の上手さ、知識の豊富さなどの)厳然たる差が分かっているからです。ただ単に噛み付いてないだけです。勝負から逃げているだけです。
非難したり否定したりすることが許されないような物を持っている人も妬ましいです。例えば虐待問題を語る虐待被害者とか、セクハラ問題を語る女性とか。僕の持っていない特権を持って、他の誰より優位な立場で、何を話しても「うんうんそうだよね」と頷いてもらえたり「それは違うと思う、でもそう思う気持ちは良く分かる」と慮ってもらえたりする、そういう人が羨ましいです。
もはや立ち位置が揺るぎないほどの自己承認を得られている人が妬ましいです。しっかりした価値観の根っこを築いてどっしり構えていられる人が、羨ましくてたまりません。そういう人がいると、そういう人が根っこを失ってオロオロする姿を見たいと思ってしまいます。僕と同じレベルにまで引きずり下ろして、自分の方が優位に立ちたい、それが無理でもせめてその人が自分と同じような自分自身がフラフラする状態に陥って不安に苛まれるような状態にしたい、そう思います。
すでに勝ってる人、そんな勝ち負けに意味なんか無いと思ってる人から見たら、滑稽の極みだと思いますが、僕は優越感ゲームの勝者になりたいですし、ずっと勝者でいられるならそうでありたいです。一度昇進したらその後どんなに負け続けても絶対に降格されることのない「横綱」のような、盤石な地位が欲しいです。
デスクトップ百景 第四十五景:カスタマイズしなきゃ気がすまない? 超・自分本位のデスクトップ……ということでBBWatchでデスクトップ晒してます。ハテナオヤ氏とか 碇シンジでおなじみの緒方恵美さんとかのビッグネームが並んでる中にぽつんとただのヲタが紛れ込んでて「だれやねん」という感じですが、石は投げないでください。
なお、LR-Menuのスクリーンショットでフォルダのショートカットがメニューにたくさん表示されていますが、これは、特定のフォルダをルートにしてエクスプローラを起動するようにしたショートカット群です。explorer.exeへのショートカットを作成して explorer.exe /e,/root,"C:\Documents and Settings\username\Application Data\Mozilla\Firefox\Profiles"
のようにリンク先を指定するだけで作れます。オプションの詳しい解説はMSのナレッジベースを参照してください。
Mozilla Labsで行われているアドオンコンテストに乾坤一擲のエントリーを!!と思って人の手も借りながら超気合い入れて説明文を書いてツリー型タブあたりを投稿しようと思って送信ボタンを押したら説明文が最初の1/4くらいでゴッソリ切られてしまって激しく脱力した 字数制限があるなら最初から言ってくれよと……
しょうがないからヤケクソで小物を連投してみた。以下、実際に投稿した説明文。
あー……もしかしてinstall.rdfに書いた「homepageURL」のページに詳しい説明を書いとけということだったんだろうか?
元々はね。手持ちの弾を全部出し尽くして、説明もし尽くして、エントリーそれ自体に全力尽くすつもりだったんですよ。今までこういうコンテストからはずっと逃げてきてたから。実力を冷静に判断される機会をずっと避けてきてたから。
拡張機能について言えば、唯一参加したもじら組の拡張機能コンテストは参加者少なすぎてまともな体裁だったとは言えなかったようだし、こないだのMozilla 24のSOI Asia主催のコンテストは審査員だったから参加はハナからできなかったし。前回のコンテストの時はまだ英語の読み書きに今よりずっと抵抗が強かったこともあって参加しなかったけど、それは今から振り返ってみたらただの言い訳だったのかもしれない。CSSについてだって、2chのカスイケスレに晒すのが関の山で、ホントにハイレベルな連中が集まってたCSS Zen Gardenにはついぞ一歩も踏み入れられなかった。絵のことなんて言わずもがな。
僕のことを褒めてくれる人とかはいるけど、でもそれって客観的に見てどうなんだ、技能とか発想とか作り込みとか、ちゃんと冷静に比べたらどのくらいなんだ、ってことを評価される機会に今までちゃんと向き合ったことがなかった。だから、天狗になって「僕チンはすごいんだぞ! 日本で拡張機能作ってた人間の中では最古参の一人なんだぞ! タブブラウザ拡張では世界中から注目されたんだぞ!」なんて勘違いも甚だしい大言壮語の自慢話を、酒に酔った勢いでグチグチと垂れ流したりするわけですよ。
そんな自分にけじめを付ける機会にしたかったんです。いい結果が出たのなら、それを自信として、歪んだ自尊心なんかこれ以上膨らまさないようにしよう。応募作の中で最終的に箸にも棒にもかからないような物でしかなかったという結果が出たのなら、あるいは、何とも言えない微妙な結果だったのなら、自分の程度という物をきちんと自覚して、分をわきまえるようにしよう。
という風に物凄く強い思い入れがあってエントリーを考えていただけに、説明文の字数オーバーでアウトというのはなんとも言えずもにょってしまうのです。
……とまあ、こんな極東の島国で少数民族の使う言葉で愚痴っていたところで疑問が向こうに伝わる訳はないので、フォーラムで質問してみた。……他にまだ一件もコンテスト関係の書き込みがないから、空気の読みようがなくてガクガクブルブルだ。
amachangさんのエントリを見て思ったこと。
人の考え方というのは、環境によって左右され得る。その人が使う道具も、その人を取り囲む環境の一部だ。だから、その人がどんな道具を使うかということもまた、その人の考え方を左右し得る。
viのようなモーダルなツールは、非人間的だ。
「モード」が存在するツールでは、何かするためには必ず、「何をするか」をあらかじめ決めておき、その上で、然るべき「モード」に切り替えなくてはならない。よって、操作の順番を間違えたら使えない。ファイルアイコンをドラッグし始めてから「あ、これを移動したい先のフォルダのウィンドウを開くのを忘れてた」と気がついても、手遅れだ。ドラッグを中断して目的のフォルダを開き、もう一度、操作を最初からやり直さないといけない。
このような「順番を間違える」というヒューマン・エラーはありふれている。気をつけていても「うっかり」「間違って」やってしまうもので、完全になくすなんてことはできない。だからこそ、ユーザーインターフェースを設計する時はヒューマン・エラーが起こる可能性を視野に入れて、エラーが起こった時の被害・損失を最小化するように、そしてできればエラーが起こる前の状態に戻すことができるように、設計しなくてはならない。
MacにあってWindowsやLinuxに欠けているのは、そういう思想だと思う。MacのFinderには、ファイルアイコンをドラッグ中にフォルダの上に載せたら、そのフォルダを自動的に開くという機能があったと思う。Vistaはどうだか今は確認できないけど、少なくともWindows XPにはそういう機能はないし、Ubuntu 7.10上のGNOME環境にもそういう機能はなかった。「どんな人が、誰のために、それを作っているのか」ということが如実に表れている部分だと思う。
Firefoxも人間的なツールになるようにずいぶん努力をしているようだけれども、まだまだ足りない。「検索語句を入力した後で、検索エンジンが別のエンジンに切り替わっていた事に気がついた」「語句を検索バーにドラッグ&ドロップした後で、その事に気がついた」そんなヒューマン・エラーに対する配慮が欠けていたから、僕はセカンドサーチを作った。
非人間的なツールに慣れ親しんで、ツールに合わせて行動するようになるということは、人間的な考え方から離れ行くということだ。もし仮に僕がFirefoxというツールに合わせて自分を変えていたら、セカンドサーチを開発することはなかっただろう。
いや、でも、amachangのように技術を極めてどんどん高みへと昇っていくことは、それはそれでとても素晴らしいことだと思うんだ。例えその過程で人間的な考え方と決別してしまったとしても(amachangがそうだというわけではないけど)、その先で何か価値あるものを見つけ出して、それがみんなの生活をより良い物にするんだったら、それはとても素晴らしいことだ。極力自分を変えないように変えないようにと今の自分の立っている場所にしがみついている僕のような人間には、絶対に成し遂げられないことだと思う。とても羨ましいし嫉ましい。
そんな僕でもできそうなことって何なんだろう。
「人間的でないものを人間的にする」「人間とそうでないものとの間をとりもつ」「違う世界同士をつなぐ架け橋になる」
夢と言えるような夢が無い僕には、俗世を捨てて高みに昇り超人になるだけの器も無いし、かといって、one of themとして完全に埋没してなお自分を保ち続けられる自信もない。目立ちたいけど目立てない、どっちつかずの中途半端な状態で、何者にもなれずに境界線上をフラフラとさまよっている。そんな僕が何か意義あることを成し遂げられるとしたら、そういうことでしか無理なんじゃないだろうかと思っている。
生み出せる価値はそう大きくないだろうと思う。でもこれ以外にちょっとでも価値を生み出せそうな道が僕にあるとは思えない。ここが僕の居場所、落ち着く所なんだと思う。
アッコにおまかせで初音ミクがとりあげられたけど酷い内容だったという話のトラックバック一覧から辿った先にあった、映像中でキモヲタの代表という感じで映されていた人の発言のまとめを見て思ったこと。(ちなみに「事件」のあらましはGIGAZINEのまとめがほどよくまとまっていて読みやすい。)
でぶこんだのMozilla 24だのにプレゼンテーターとして参加していながらもえじら組の活動を性懲りもなく続けていたりする僕なんかは、こういう話を見ると戦々恐々とせずにはおれません。いつ僕のせいでFirefoxユーザ全体がキモヲタ扱いされてもおかしくない状況。とかいいつつもえじら組を捨てる気はさらさらなかったりするんですけどね! ロリフォックスという前例もあるしね! いつかふぉくす子テーマを配布することが夢です!(そのまま夢で終わらせるべき)
しかしこのtaskという人のグダグダぶりもまた他人事とは思えないなと思った。というか同じ状況に置かれたら十中八九同じことをする自信がある。多分僕とこの人は似たようなタイプの人間なんじゃないかなあと思う。どうしてそういう風にしてしまうのか我が事のように心情を推測できてしまう。この人は明日の僕かもしれないのだ。
「スタッフが置いていった台本」について「アップしろアップしろ」と散々言われてもグズグズと出し渋ったのは、テレビで自分のキモいヲタっぷりを晒してしまったという「大失態」にビビってしまって、これ以上「罪」を重ねることを恐れたからだろう。その「罪」が誰に対しての物で、その「罪」の重さと「出さないことの罪」の重さとを正しく比較することもできなくなっていたんだろう。
「僕が『抗議』をしないことによって迷惑を被る人」は存在しないでしょ。
そうではなく「僕がいたことによって被害を被った人」が存在するのは認識してるけど。
こういう論理の破綻した言い訳を延々続けるのも、つまりは「自分自身はこれ以上何のアクションも起こしたくない」という風に心底ブルってビビってしまってるからこそだろう。あらゆる現実を「自分が動かなくても良い方向」に向けてねじ曲げて解釈している。動かなければこれ以上罪を重ねることはない。自分一人が叩かれ続けることが罪の償いである。そういう、自己満足の考え。
そうして亀のようにひたすら耐える。そのうち脳内麻薬が出てきて神経が麻痺してきてハイになってくる。だから
>>207 VIPで・・・・マジメ・・・・・・?
こんな開き直りもしてしまう。
そもそもこんな「大失態」を演じてしまったのも、褒められておだてられて調子に乗ってしまったからだ。僕自身がそうだから分かる。僕らはいつも鬱屈した感情を心に秘めている。自分がやっていることが世間から何ら評価されないことに苛立ちを感じている。ショボい「ナンチャッテ自己表現」しかしていないくせにいっぱしの表現者を気取っていやがる。卑屈なことを言うフリをして内心では「俺様はもっと賞賛されるべきだ」とおこがましくも考えている。不健全な状態。膨れあがる自尊心と欲望で高まる内圧を、「現実は冷たいんだよ」という理屈で無理矢理フタをして押さえ込んでいる状態。そこにかけられる甘いセリフ。高まりきった自尊心がピーと音を立てて一気に吹き出す。
そう。たった一カ所だけ認められた、ほんのそれだけで、ああこの人は俺のすべてを認めてくれるんだ、だなんて勘違いをしてしまう。今まで全然認められていなかった反動がそこに吹き出す。
その結果がああいう醜態に繋がる。
要は、アレだよ。普段無口でロクに会話に乗ってこないくせに、ヲタな話題が少しでもふられると、いや、場の誰かが話題に出しただけでも、途端に元気になって饒舌になって、頼まれてもいないのにベラベラベラベラといつまでも知識自慢を垂れ流す。あれの程度が酷くなっただけで、質としては同じ物だ。
起こるべくして起こった悲劇。避け得なかった悲劇。そんな風に思うよ。
そんな風に歪んだ内圧を高めなくて済む、自尊心を満たしたい時に満たしたいだけ満たせるって事。それが、「非モテ」の文脈で言うところの「モテ」の一側面なのかもしれない。そういう意味において、ある程度の「モテ」を体験できた(ている)お陰で、僕はまだバランスをギリギリ保っていられてるんじゃないかと思う。それらが失われればたちまち僕も「あちら側」に転げ落ちていくことだろう。かつていた場所に戻ってしまうだろう。今ですら、水を向けられれば調子ぶっこいていらんことまで喋る性質は、これっぽっちも直っていないのだから。