人生を狂わす「電車男」

ヲタが目を背けたくなるもの

アルテイシア日記の仕込みに関する話とかを見て、思ったこと。

こういう話(真偽を追求することじゃなく、その話自体)を見てて何とも言えない暗澹たる気持ちになるのは、それが自分の抱いている、自分自身で最も嫌な妄想を、目の前に引きずり出されてしまったような気持ちになるからだと思った。すなわち、自分とは全く違う世界の住人でありながら、自分の(一般的には蔑まれるタイプの)趣味や考えに理解がある、そんなパートナーと出会い、関係を築き、自分個人としても、またそういう傾向を持つヲタの一人としても、幸せになるという、そんなオイシイ展開を望む卑しい妄想。そんな妄想を抱いている、捨てきれない、自分。まるで鏡を突きつけられたような。これ以上に嫌なことはない。

児童ポルノ撲滅のため、ヲタ向けのロリエロマンガも規制・廃絶するべきだ、という声を最近よく目にする気がする。それと同時に、ぼくとつで誠実な人が幸せになったり、オタクが普通の女と結ばれたり、そんな恋愛ドラマが最近もてはやされている。どうやら世間は、「現実には絶対にあり得ない妄想」ほど危険なもので、「現実にあり得そうな話」の方が望ましいものだという風に評価しているようだ。

だが僕は、「現実にあり得そうな話」の方が、より多くの人を虜にし、駄目にして、人生を狂わせ、不幸にするのではないかという考えを持っている。爆弾をばらまくという意味ではなく、社会を静かに腐らせていくという意味で、危険だと思う。何故そう考えるのかを、ここに記しておきたい。

「現実離れしている」ものと「リアリティがある」ものに対する、一般人とオタの意識のズレ

「ちょびっツ」よりも「ラブひな」が、「ラブひな」よりも「BOYS BE...」が、「BOYS BE...」よりも「電車男」「アルテイシア日記」が、僕にとっては目を背けたく感じられるのは、後者ほど(絵柄その他の表現において)その妄想がより強くリアルに具現化されているからだ。この感覚はおそらく「一般人」には理解しがたいものだろう。

一般的には後者の方がより受け入れられやすくて、前者、つまりディフォルメが進んだいわゆる美少女ものになっていくほど、嫌われる傾向にあると思う。「こんな目の大きい妄想バリバリの美少女絵は気にくわないし、こんなものを好むなんて異常で、危険だ。けど、こっちの、デッサンがきちんとしてて目も小さめで『本物』に近く描かれてるものだったら、まだ許容できるし、正常に近くて、安全だ。」みたいな。僕は、それはヲタの何たるかを全く理解していないから生まれる誤解だと思う。

リアリティ

ところで、ここで言っている「リアル」「リアリティ」というのは、心理面ではなく物理面での事だということを改めて強調したい。

「ベルセルク」でいくら人物の心理が真に迫っていたとしても、魔法があったり魔物がいたりというその物理的状況があり得ないのだから、これは僕は「リアルだ」とは思わない。それに対し、「BOYS BE...」で登場するヒロインがどんなに男にとって都合の良い言葉しか吐いていなくても、「普通っぽそうな(しかし、それなりにかわいいめの)外見の女の子が」「普通の学校に通っていて」「普通の男と恋愛している」という状況は物理的に充分あり得るのだから、「リアルだ」と思っている。そういう話だ。

じゃあ、ストーリーや心理面はさておくとしても、稚拙な文章だけで構成された「電車男」は、整った絵の「BOYS BE...」よりも「リアル」なのか? 僕は、元々の「電車男」が「文字だけの表現」であったことが「最高のリアリティ」に繋がっていると考えている。映画の画面上で主人公が耳に息を吹きかけられる映像を見るのと、「突然、彼の耳に生暖かい息が吹きかけられ、彼は背筋をこわばらせた」という文章を読んでその状況を想像するのと、どちらがより生々しくリアルに感じるだろうか。そういう話だ。

そもそも、物語というのは「状況」と「心理」のどちらかが「あり得ない」ものでなければ面白くない。状況も至って普通、心理的にも至ってありふれている、そんな風景を描いたとして、そんなものが面白いだろうか? 物理的にあり得ない状況を描いたマンガで心理描写がやたらに現実的だったり、物理的にはあり得そうなのに登場人物達がことごとく異常な行動をとっていたりというのは、エンターテインメントの作劇なら別におかしくも何ともない。

物理的あり得なさは覆せないが、精神的あり得なさは覆されうる

物理的あり得なさ、例えば魔法が使えるとか、魂をデジタル化してコンピュータの中に入り込むとか、そういう種類の「現実とのギャップ」は、絶対に覆せない。だが、「出会って一目でベタボレ」とか「相手が心変わりせずにずっと好いてくれている」とか、そういう精神的なあり得なさは、もしかしたら「あり得る」ものかもしれない。何らかの理由で心底惚れ込むようなことは、かなり確率は低いとはいえ、全くあり得ないとは言い切れない。あるいは、精神に障害を抱えているとそうなることがあるかもしれない。

このことを踏まえると、「物理的状況はあり得ないけど精神的にはあり得そう」な物語が現実になることは、依然として絶対にあり得ないのに対して、「物理的状況はあり得るが、精神的にはちょっとあり得なさげ」な物語が現実になることは、理屈の上では、もしかしたらあり得るのかも知れないのだ。それが落とし穴になる。

現実に近ければ近いほどはっきり見えてくる、決定的な「越えられない壁」

「認識している現状と、理想的な状態との間の隔たり」。問題解決の用語でいえば「問題」。理想と現実とのギャップは、それらの間が近ければ近いほど、且つ、その間に決定的な壁があればあるほど、「乗り越えられるはずなのに乗り越えられない」ということで、強く感じられる。

例えば、自分はどうしようもない駄目ヲタでひきこもりなのに、うり二つの兄弟はエリートで人生の成功者になっている、といった状況などはその典型だろう。「兄弟」という自分に非常に近い存在が、自分には決して手の届かないものを手に入れているという事が、この例では何よりもダメージが大きい。それはやがて歪んだ憎しみに変わっていく。「なんでこいつばっかり幸せで、俺は幸せじゃないんだ。こいつと俺との間にそんなに違いはないはずなのに。」

それに比べれば、剣と魔法のファンタジーの世界で勇者様がどっかの国のお姫様と結ばれるなんてのは、自分とはあまりに遠い世界の話すぎて、もはやギャップを感じることすらできない。「いやあ、やっぱヒーローは凄いよね、超人だもんね。まあ俺とは関係のないことだし。そっちの世界で勝手に幸せになってて下さい。」

現実に近いところに踏みとどまり続けることの危険

美少女関係のヲタは、達観して妄想を妄想と割り切れば割り切るほど、興味の対象がディフォルメされたものに推移していく(と思う)。

僕らは「モテない自分の目の前に理想の異性が現れて自分のことを好きになってくれる」なんてオイシイ状況が現実にはあり得ないと知っている。だから僕らは妄想と現実を切り離し、妄想は妄想として楽しむべく、「ある日突然女神様が現れる」とか「ある日突然コンピュータの画面の中から美少女が飛び出てくる」とか「ある日突然女しかいない異世界に迷い込んでしまう」といった、理論的に絶対にあり得ないシチュエーションを前提にして話を考える。

逆に、妄想と現実を混同し、「俺の人生にもいつか本当にこんなオイシイ展開があるはずだ……!」という期待をしていると、考えるシチュエーションはより現実的なものになる。確率が高いかどうかではなく、0%ではないかどうかという意味での「現実的」、先に述べたような物理的に「リアル」なものに。例えば、「いつもの通勤電車の中で痴漢を退治したら、隣にいた女に惚れられた」とか、そんな具合だ。

そこから犯罪に走ってしまったり自分で自分の人生を棒に振ってしまったりせずに、そういうものをあくまで「実際には期待できない、妄想の話」と割り切って楽しむのは、アリだろう。だがそれはとても高度なゲームだ。「もしかしたら実際に期待できるかも」と素直に信じる方に転んでしまわない自信が僕にはないし、というか実際転んでしまったし。中途半端にリアルな話は、そういう種を植え付けてしまう魔力があるんじゃあないか、と僕は思う。

圧倒的多数を占める「現実とそれなりに折り合いを付けて生きている」ヲタ

「いや、その理屈はおかしい。ディフォルメが強く、妄想度が高いほど危険なのだ。先日の、男が若い女を監禁して首輪を付けさせたりしていた事件を思い出せ。」そう言う向きもあるだろう。だが、それは大きな勘違いを孕んだ認識だ。

現実に、女をひっ捕まえてきて監禁したりなんかしたら、そりゃあ犯罪だ。その例の事件のように、結局は逮捕されるのは目に見えている。だが僕らはそんなに反社会的な人間じゃあない。なるべくなら長く平穏に暮らしたいのだ。そういうことを理解しているから、多くの比較的正常なヲタは、そういう「監禁調教」というシチュエーションを「あり得ないもの」と割り切って、ゲームなどの非現実のものとして楽しんでいる。

そこを「現実と妄想は違う、そんなことをしたら平穏な社会生活が送れなくなる」というところに思い至れない知的欠陥を抱えた者、あるいは、そうなっても構わないというような反社会的な人間が、犯罪を起こすのだ。そんな人間が「多数派」であるとは考えられない。そういう人間はあくまでごく少数で、圧倒的多数を占めているのはやはり、良識を持った「普通の人」なのだと考えるのが自然だ(そうでなければ、日本社会はとうの昔に崩壊しているだろう)。

ありふれた、詐欺師の手口

中途半端に現実的な話は、そういう「あり得ないこと・うまい話には期待しない」と考えている人達をも虜にしてしまう。「アラブの王族が油田で儲けてウッハウハ」みたいな遠い世界の出来事には心を動かされなくても、「向かいの山田さんが株で20万円儲けてちょっと幸せ」みたいな具体的で身近な話には、ついつい関心を持ってしまう。これはマスコミや詐欺師が人を煽るのにも使う手口だ。

詐欺の被害にあった人は決まってこう言う。「まさか自分が被害に遭うとは思わなかった」。そう思わせてしまうほど、「もっともらしい話」を詐欺師は持ちかけてくるのだ。

「電車男」も「アルテイシア日記」も、そうやって多くの「うまい話には騙されまい」と思っている人を虜にして売っている。ただの商売上の戦略と言えばそれまでのことだし、これに限った話でなく世の多くの物はそうやって「騙されて売りつけられて」いるし、そういう商品や宣伝によって植え付けられた幻想で社会が変えられてしまったりするのは良くあることだし、これらだけをとりあげてことさら非難するのも変な話だとも思う。……のだが、なんだか釈然としない。

人間を駄目にする……って、駄目になるのは僕だけか?!

話がそれた。

ともかくそういう風に、「ヘタに現実っぽいオイシイ話」は人間の心を捉えて駄目にしてしまう。「オイシイ話」と分かっていても、ついつい飛びついてしまう。そして、やがてはその居心地の良さ(もしかしたら自分も明日にもオイシイ状況に巡り会えるかも知れない、という甘い期待)に首までズッポリ嵌ってしまい、抜け出せなくなる。……僕も含め、そういう妄想にとりつかれてしまった人の末路は、悲しく寂しい物になるのではないだろうか。行き着く先は、パチンコ借金地獄かもしれないし、デート商法借金地獄かもしれない。

そして、そういうオイシイ話をもてはやしていると、そんな「被害者」を増やしてしまい、中〜長期的に社会を腐らせていってしまうのではないだろうか。それは、ごく少数の危険な爆弾(反社会的な行動をとる人間)を生み出して短期的な破壊を引き起こすことよりも、恐ろしいことなのではないだろうか。

何故なら、僕は既にそうやって人生を駄目にしてしまっているのだ。小さい頃からそんな薄甘い妄想にとりつかれてしまったせいで、過去の行いのすべてが「何かに一心に打ち込んでいれば、その姿に惹かれた人と出会って……」→「ヲタくさい趣味をどんなに頑張ったところで、惹かれずに退かれるだけ」 「貞操硬く、純情誠実ということで好感を……」→「現実の女を知らないから妄想ばかりでキモイ」という風に、人生を駄目にする方向に結実してしまっているのだ。僕のような被害者をこれ以上増やしてはっ……

……え? 「そんなことで人生を駄目にするのはお前くらいのものだ」? 「普通はもっとちゃんと割り切れるもんだろ」? はい、おっしゃるとおりです……ということで、長々と書いて結局は僕のルサンチマンと逆恨みとひがみ根性の発露に行き着くのでした、てなオチ。

リンク:関連する話題

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この件に関する興味深いコメントと、それを受けての、本文で欠けていた内容についての追記

舞台の「設定」がフィクションならフィクションだと分かりやすい。勘違いしやすいのは登場人物の「心理」がフィクションの場合。

ツボをついた要約。

「電車男」よりもっと残酷な現実

「(略)趣味や考えに理解がある、そんなパートナーと出会い、(略)幸せになるという、そんなオイシイ展開」という記述に対し、ヲタと非オタのカップルではないが、ヲタ同士のカップルは自分の身の回りにもたくさんいるぞ、だからあり得ない事じゃあないんじゃないのか、という指摘が寄せられた。

電車男を単なる恋愛物語と見れば、確かに、ヲタ男の恋愛自体はそうあり得ないものでもない。だが、僕が「あり得ない」「オイシイ展開」と言いたかったのは、もう一つ、オタが非オタに「承認される」というプロセスが含まれていることにもある。

オタクが人格面で普通の人より社会的地位が低いという前提に立てば、オタク同士で結ばれてもそれは「劣った者同士が傷をなめあっている」だけと言える。だがオタと非オタのカップルで「劣った者が優れた者に『認められ』、彼らの社会に溶けこめるようになる」というのは、単に恋愛が成就するという以上に、人間としての尊厳を勝ち取るという意味が含まれる。

尊厳を持たない・持てない我らオタが尊厳を勝ち取るという展開が、もう、「あり得ない」「オイシイ展開」なのだ。

6月日記2005(2005.6.14の記事)

オタクが、自分の人生にもオイシイ展開があるはずだという妄想に取り憑かれたところで、モテないことには変わりない。また、モテる人は妄想に取り憑かれることなくモテ続ける。結局何も変わらないのだから、何を恐れるというのか? という意見。

確かに、「モテるかモテないか」を結果としてみるなら、その点で変化はないだろう。だが、現実に対する失望・絶望をより強めることは間違いない。「どうせそういうこととは無縁なんだ」と諦めている状態で「やっぱりそういうのとは無縁だったんだ」と再認識するのと、「もしかしたら縁があるのかも知れない」と期待していて「やっぱりそういうのとは無縁だったんだ」と思い知らされるのとでは、そのショックは段違いだ。プッチ神父は「覚悟したものは幸福である」と言ったが、薄甘い幻想は、覚悟を鈍らせ、幸福を遠ざけるのだ。

なお、「幻想に取り憑かれ、デート商法に嵌るなりキャバクラ通いに嵌るなりして、モテない男が世の中に落とす金の量」は増えると予想できるが。この、恋愛対象に対して貢ぎ貢がれることで金が動く経済を、電波男著者の本田透氏は「恋愛資本主義経済」と呼んでいる。そして、そういう経済システムから自ら距離を取ろうとしている「モテない男」を、「電車男」や「アルテイシア日記」は無理矢理にでもそのシステムの中に取り込もうとしているのだ、と喝破している。

虚構っぽい現実、現実っぽい虚構

最近の広告業界のプロモーション手法はえげつなさをどんどん増してきているな。事実を脚色して美談に仕立て上げるだけでは飽きたらず、アリもしない事実をでっち上げるのだから。いや、そんなのは昔からいくらでもあって、単に、既に負け組であるヲタや負け犬が搾取のターゲットにされるようになってきただけのことなのか。

Rozen Maiden - とかくこの世は・・・

モテることよりも恋愛できることよりも、生活力があることの方が人としては大事だという指摘。

生活力は、一人前の人間を名乗るための、誰に憚ることなく生き続けるための最低条件だ。生活力のない子供や重度障害者やなんかは、言ってしまえば、他人のお情けやお目こぼしによって、あるいは利害のために、例外的に生かされているに過ぎない。それ故、ヲタの中でも特に生活力を持たない・持てない者は、この話題のような「まともな大人にとってはどうでもいいこと」でも不安をかき立てられてしまうのではないだろうか。と、思った。

鬱鬱鬱 - 僕はネガティヴ

電車男のような話は、ヲタに与える影響よりも、一般人に与える悪影響の方が大きいのではないか、という指摘。

読みふけったあとでおもむろに自分語りって…

非オタの前でオタクは人格を失うから。グサリと刺さる一言。

それにしても、人生を狂わす「電車男」や「耳をすませば」を観て自殺といった関連エントリのフィクションに対する無防備ぶりは怖いくらいです。 - 日々の覚え書き:2005年7月の覚え書き:12日

健全な人には、「電車男」に悶え「耳をすませば」に苦しむような現実と虚構の境目が曖昧な不健全な人間は、こう見える。

エントリ「人生を狂わす「電車男」」は 内容的にはいろいろな要素が詰め込まれた文章なのですが、突き詰めるとその冒頭の段落に要約できるように思います。:2005年7月の覚え書き:15日
自分のやりたいこと・やっていることにはプライドをもつべきです。プライドをもてないどころか、その趣味で卑屈になるくらいならやめた方がいい。:2005年7月の覚え書き:18日

日記にてコメント。