言葉遣いと対象読者層と論争と煽りとウォッチャーと大人になるということ

ジャーゴンだというだけで眉をひそめる活動家という指摘を受けて、最後の方に加筆した。

今になって分かったこと

けんたろ氏の文や過去に自分が見てきたもの、自分がしてきたことを踏まえた上で、考えたこと。

何故僕は、かつて「(謎)」や「(誰)」といったフレーズが出てくる文章を毛嫌いしていたのだろうか。何故、今では気にならなくなってしまったのだろうか。当時僕は、相手がふざけた言葉で僕を小馬鹿にしているから僕は腹が立ったのだ、と考えていた。だが、今になって、話はそう単純ではなかったのだということに気付いた。相手は僕を小馬鹿にしていたのではなく、そもそも僕のことをコミュニケーション相手として認知していなかったのだ。

誰の方向を向いて発せられた言葉なのか?

人が文章を書く以上、そこには想定読者というのが必ず存在している。それは自分自身かもしれないし、いわゆる読者かもしれないし、ウォッチャーかもしれないし、論争相手かもしれない。ともかく、誰に向けて言葉を発するのかという前提条件によって、書く文章の完成形は大きく変わってくる。

対象読者が誰であるかを考えると、自然と文体というか文の雰囲気が決まってくる。上司に向けて書く文であれば、かしこまった文になるだろう。友人に向けてであれば、フランクなものになるだろう。そうした「にじみ出てくる雰囲気」のひとつに、ジャーゴンという要素がある。

ジャーゴンとは、特定集団の中でのみ通用する俗語、隠語のことだ。「キター」や「キボン」、「マターリ」といった「2ちゃんねる語」はまさにそうだし、先に挙げた「(謎)」や「(誰)」も、けんたろ氏が属するコミュニティのジャーゴンと言える。

文の中でジャーゴンを多用するということは、その文は身内に向けて書かれたものだということの表明でもある。ジャーゴンを理解できなければ文の意味を読み取れないのであれば、その文全体がジャーゴンを理解できる人向けに書かれた文であるというのは、自明のことだ。

僕がかつて違和感を感じた理由はおそらくここにある。

論争と独り相撲

一般的に、Web上での論戦とか罵りあいとかいったものは、このような構図で行われる。AとBそれぞれの人物に取り巻きが付いており、さらに、その対立そのものを観察しているウォッチャーがいる、という構図だ。(図)主役の二人は互いに少しでも味方を増やそうとしながら、同時に、相手に反論を返す。これはケンカではあるが、一種の相互コミュニケーションだとも言える。そしてそのコミュニケーションのツールとして、互いの「共通語」が利用されるわけだ。

ところが、僕の遭遇したケースはそうではなかった。AとBそれぞれの人物に取り巻きが付いており、さらに、その対立そのものを観察しているウォッチャーがいる、というのは先と同じであるが、今度は、主役の片一方が相手の方を向いていない。(図)こちらはコミュニケーションを取ろうとしているのに、相手はそれにまともに取り合っていなかったのだ。何故そうであると言えるかというと、こちらは共通語で言葉を発しているのにもかかわらず、相手の発する言葉にはジャーゴンが数多く含まれていたからだ。(先ほど書いた、ジャーゴンを多用しているということは、身内に向けて発した言葉であることの意思表明だ、という話を踏まえて。)しかもタチの悪いことに、言葉の目線は相手の身内の方を向いている(ジャーゴンを多用していて、コミュニティ外の人間には理解しがたい)のに、言葉の矛先はこちらを向いている(こちらの落ち度をチクチクと指摘してくる、といった具合)のだ。

僕は、このような態度を取ることは失礼なことだと思うが、しかし同時に、そのような態度を取ることはやむを得ないとも思う。共通語で罵り合うというのは、相手と同じ土俵に立つということだ。そうやって自分も相手も疲弊してしまうよりは、早々に相互コミュニケーションを放棄するのが得策だ。

その上で、もう関わり合いを持たないようにするといういわゆる「大人の判断」を取る人もいるだろうし、何の動機からか、今度は相手の土俵に上がらずに安全地帯からのみ発言して手玉に取る(先の図のような構図)という選択を取る人もいるだろう。僕が遭遇したのは、その後者の場合だったのだ。

2ちゃんねるで吊し上げられるというのも、まさにこういった構図の例だろう。吊し上げられた人がどれだけ共通語で語っても、2ちゃんねらーやスラドの住人達は多くの場合、彼らの言葉でだけ表現し、共通語で話そうとはしない(ごく希に、ねらーの中にも共通語で諭す人がいるが)。

この状況に陥った場合、独り相撲を取らされることになるので、やり玉に挙げられた方は心身共に消耗しきってしまう。

理想と現実と妥協点

ということで、こういう件に関わる立場それぞれについて、各人がよりハッピーに生きられるように、以下のように提案をしてみたい。

共通語で必死に話しかけていた人

僕のような馬鹿正直なタイプの人はこれだ。

最も有効な対策は、相手がこちらと相互コミュニケーションを取るつもりが無いのだと分かったら、その時点で、こちらもコミュニケーションの継続を放棄する、ただそれだけである。つまり、無視・無反応を貫くということだ。自ら傷口を広げ、心身共に消耗してしまうよりは、ボロを出さないうちにとっとと切り上げてしまう。これが正解なのだ。

それができるようになるということが、「大人になる」ということの一つの要素なのだと、僕は今では思っている。そうならなければ、この世の中はあまりに諍いに満ちあふれすぎていて、一つ一ついちいち真摯につきあっていては、社会人では身が持たないのだ。つまり一種の妥協でもある。

理想的には、どんな場合にも真摯に相手と向き合える、スケールの大きな人間になりたいものなのだが……

なお、無反応を貫くにしても、相手がこちらに向けてくる言葉については、完全無視せずにある程度参考にしてみるのもよいだろう。ジャーゴンの部分を無視しさえすれば、その言葉は意外にもまっとうなものかもしれないからだ。

肝要なのは、相手からのコミュニケーションは受信しても、こちらからのコミュニケーションは徹底して絶つということだ。自分からコミュニケートしようとすることは、多大な労力を伴う。だから疲れてボロが出る。相手が勝手に自分の時間を費やして色々伝えてきてくれているのなら、こちらから敢えて動く必要はない。動くのは、相手が教えてくれたことを反映して自分を改善するときだけでいい。省エネでいこうじゃないか。

それから、もう一つの方法として、相手のコミュニティに自ら入ってしまうというのも挙げられるかもしれない。僕は「(謎)」「(誰)」といったジャーゴンを理解できなかった頃、そういう言葉の入った文で非難されれば、「非難文の対象読者層である仲間内に対して、僕のことをネタとして晒して楽しんでいるだけ」と感じたろう。しかし今では、僕自身もその対象読者層すなわちジャーゴンを理解できる側にいるので、そういった表現で非難されたとしても、無視された・相手にされなかったとは感じなくてすむようになった。根本的な解決とも言えるかもしれない。

ジャーゴンを使っている人

僕がこのページに書いたような意図で(=相手と同じ土俵に立っていないということの表明、仲間内に向けた文章を書くため、として)ジャーゴンを使っている限りにおいては、何も言うことはない。

しかし、そういった意図無しで――本当は相互コミュニケーションを取りたいのに、なんとなくジャーゴンを使ってしまっている人には、できればもう少し「共通語」を使って欲しいところだ。ジャーゴンを多用していることに悪意はないのに、結果的にそう取られてしまうのなら、それはとても勿体ないことだろう。本人の気付かないところでだんだんと語彙を浸食してくる、それがジャーゴンの恐ろしいところなのだ。

双方の取り巻きの人達

まあ、その、なんだ。あんまり深入りしないのがいいだろう。どっちについても大していいこと無い。

ウォッチャー

今までどおり遠巻きにウォッチするのがよい。下手に近づくとヤケドする。