宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
思ったことを文章化するという行為は、その思いを素直に感じることを阻害する効果があるのかも知れない。
僕はある大切な人の過去の大変な体験談を聞いて、驚き、にもかかわらず今その人が元気でそこに存在しているという事実に、感謝したい気持ちで一杯になった。そしてそのベタな感情を文章にしてみた。
でもそれを自分で読み返してみた瞬間に、それが陳腐な物に思えてきた。「他人の過去の不幸話に何勝手に感動してるの?」「人の人生を自分のオモチャにして娯楽として楽しんでるわけ?」そんな声が頭の中で聞こえてきた。
その声が聞こえてきた瞬間に僕は、僕が抱いた感謝の念と歓びと認識していた感情を、自分の自尊心を満たすために自ら取った「ポーズ」に過ぎない、と認識するようになる。
そう認識した瞬間に僕の中での「ベタな感情」の存在が否定され、人間味溢れる感情豊かな存在に自分はなれないのだという意識が、強くなってくる。
文章化しない場合、「ベタな感情」は「ベタな感情」のままで自分の中で忘れ去られていき、「ベタな感情を抱いた」という記憶が残る。しかし画面上にしろ脳内にしろそれを文章化した瞬間から、「ベタな感情」は「メタな視点から見た、ただのポーズ」と化してしまう。
もっと刹那的に生きれば良かったのだろうか……
「本当のことを言うときは死ぬときだ」という大江健三郎の言葉を送ります。
そのベタな感情をジャンピングボードにして「作品」を生み出すことができる、その結果にためらいを感じる余地がないぐらいの確信犯にならないと、ということかな。
の末尾に2020年11月30日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2006-08-21_textize.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。
writeback message: Ready to post a comment.