たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
Xに書いた事のまとめ・増補版。
「マイクロアグレッション」に関する香川県の啓発ポスターについての、労ったり褒めたりしてもダメとかどうしたらいいんだよ どうせ触れなかったら「配慮が足りない!」とか言うくせに
というコメントを見かけた。
マイクロアグレッションとは、発話者当人に差別の自覚はなく、ともすれば言われた側にも「差別された」といった明確な被害意識はなかったりすらするけれど、言われた側はなんとなく釈然とせずモヤる、という類の「日常の中にある、社会的・歴史的に見て差別性がうっすらある言い方や接し方」のことだ。という理解の仕方を僕はしている。
これまでも度々書いてると思うけど、僕はこの種の「誉め言葉と思って言ったのに、マイクロアグレッションだと言われる」類の指摘に「どないせえちゅうねん」と途方に暮れる側の一人だった。
正直に言えば、「こっちはこれだけ気をつけてるつもりなのに、これ以上を要求されるなんて、なんてめんどくさい!」という感覚はあったと思う。
先のコメントをした人が僕と同じ戸惑いを感じているのかどうかは分からないけど、僕は、「よかれと思って言った言葉で泣かれ、その相手との縁を絶対切られたくなかったので本気で反省する」というクソダサ経験をするまで、心の底では「よかれと思って言うたのに、何が悪いねん」という自己正当化の思いを捨てきれていなかったな、と今から当時を省みて思う。
反発心がなくならない間は、僕は、理屈では分かったつもりでも本心では腑に落ちてなかったのだと思う。
当時の僕に、人を泣かせずにその事を理解させ得ただろうか? なんとなく、無理そうな気がする。そのくらい、パラダイムの大きな転換を要する事だったように思う。
エッセイ漫画家さん、過去1番共感できない漫画を描いて炎上する【ぬこー様ちゃん】というまとめを見た。人から金を借りて、返す段になって「返したくねーなー」「うわっこいつ(※貸主)、何も言わず受け取るんかよ(※当然です)」と感じる、という件の作者に対して、 「クズ」「最低」等々非難の嵐となっている様子がまとめられたものだ。
まとめられた反応は散々だけど、自分はこの「作者の気持ち」が分かる方だ。
相手を舐めている、世界のすべては自分のためにあると思っている、自分をもてなさない相手に出会うと不機嫌になる……そういうタイプ。
言語化すると「なんて傲慢なんだろう」と思えるのだけど、自分自身ではそれを「当たり前」と思っているから、特段「悪意」があるわけでもない。
悪意も自覚もなしにこう考える人間がいるのだと、我が事として実感しているから、僕は今は他者の善意や返報性に期待しすぎずにいられてるんだと思う。
僕という人間は、ハードウェア的にはそういうクズで、ソフトウェアエミュレーションで社会性を保っている。という自己認識でいる。
むしろ、自分がそうだから「クズに見える人も、やりよう次第で社会的に振る舞えるようになれて、社会の中で問題を起こさず共存できるのだ」と信じられているのだと思う。
「まんがでわかるLinux シス管系女子」1巻と2巻前半にあたる部分を収録した増補改訂新装版の「ITエンジニア1年生のための まんがでわかるLinux」について、後書きでは少し触れてたんだけど、恐らく旧版読者だと思われる方の 「時勢に合わせた感じなのかなあ」というコメントを見かけたので、改めて書き記しておきます。
端的に言うと、これは作者の自分から改題を申し出ました。
「なぜ自発的にOSSやってるの?」という問いへの答えは十人十色だと思うけど、自分の場合は「ヴィジランティズム」が一番大きいんだと思う。
この「他人が言ってた悪口を本人に伝えない」「それを伝えてくる子を信頼しない」が良いとされるのがピンとこない方だった(悪意で不和をばら撒く人扱いされたくもないので、今はしないようにしてる)のだけど、反応の中に自分と同類と思しき人が何人かおられて、変な話だけどちょっとほっとしてる。 https://t.co/U6MRgCtASA
— Piro🎉"シス管系女子"シリーズ累計5万部突破!!🎉 (@piro_or) May 9, 2023
いわゆる告げ口について、受け取った側が取るべき態度・行動について僕は、
と考えてる。
世の中には嘘でも何でもついて相手(僕)の感情や行動をコントロールして自分(相手自身)の利益を最大化しようとする人がいるし、そういう利己的な動機でなく純粋に利他的な善意でなされた告げ口だったとしても、告げ口をした人の主観というフィルターを通したことで情報が変質してしまっている恐れがある。
全く同じ事がマスメディアを通じて届く情報にも言える。 僕への告げ口は、僕個人を狙って届けられる情報だけれど、マスメディアから届く情報も、「自媒体の読者・視聴者の傾向に合った、受け手に喜ばれる(そして自媒体の利益の最大化に繋がる)情報」という観点では、狙い撃ちで放たれた情報と言えるので。
いずれにしても、自分の元に向こうから飛び込んできた情報は(もっと言えば、自分が飛びつきそうな位置にぶら下げられていた情報や、自分がちょっと背伸びしたら届きそうな所に元からあった・アクセスしやすい情報というのも)、鵜呑みにするにはリスクがあると言える。 なるべく一次情報にあたるようにし、正確な事実関係を把握するまで態度を保留する我慢強さを持つ必要がある、と今は考えてる。
――というのは情報を受け取る側の話で、いま考えてるのは情報を送り出す側の話。 告げ口する側のことについてだ。
表現の自由と表現規制の話題の中でも、特に女性に関する表現の話題でよく出てくるキーワードに「性的に消費」という物があります。自分でも、何かと便利でこのフレーズを使いたくなってしまう場面は度々あるのですが、一方で、厳密な定義づけがないままで、解釈が人によって分かれるフワッとした言葉を自分に都合よく使う事への後ろめたさもありました。
そういうモヤりを抱えたままで、「月曜日のたわわ」の日経新聞全面広告の批判や擁護に関連した一連の発言の中でうっかりこのフレーズを使ったところ、「定義が曖昧な言葉を使う前にまず説明をするべきである」という趣旨の指摘を受けたため、本腰を入れて、このフレーズについての自分の認識を改めて整理し言語化してみようと思います。
「月曜日のたわわ」の日経新聞全面広告の批判や擁護に関連した一連の発言の中で、表現規制の一種であるレーティングやゾーニングを肯定する趣旨の事を書いたところ、「表現規制をすべきという根拠を示すべき」という趣旨の指摘を受けたため、自分の考えを整理するために、表現規制という物自体に対する自分のスタンスを振り返ってみました。
表現規制について改めて自分の考えを表明しますと、自分は、公権力で表現を規制するべしと強硬に主張はしないけれど、状況によっては一定の歯止めの必要性を支持する、というスタンスです。端的に言うと「表現規制を弱く肯定」(全否定ではない)です。
ですが、他の人が自分の言動を見た場合に、表現規制を強く全面的に支持する者と見なされても仕方の無い状況だということを、今更ですが改めて意識しました。
今後は、すでに他の人による批判・非難の言説を目にしたかどうかに関わらず、自分の信条的に批判するのが当然と思える言説に対しては、なるべく自分の言葉でも発言をするようにしようと思います。
(当初ここについてあまり触れてなかったけど、作品そのものについてあまり触れないまま枝葉のことばかりに言及するのもどうかと思ったので、ちゃんと書くことにしました)
「ルックバック」初見時の僕の感想は、「作品として面白く、感情を大きく揺さぶられ、印象深い」というものだった。
いわゆる漫符や流線といった漫画的表現の少ない抑え目な演出に、本作を読んでいて僕は、まるで個人の思い出の記憶を覗き見ているかのような印象を持った。そのためか、自分自身の思い出と藤野の視点を重ねてしまわずにはおれなかった。
僕自身は幼い頃、「漫画」という表現にはそこまで熱意は無かったけど、「絵」については「自分、上手い方じゃね?」という思いがあった。「絵を描きたいという衝動」よりも他者からの「上手いね」という承認目当てでやっていた部分が強かったので、もっと褒められたくて技術の向上を図ってみた事もありつつ、飽き性の面倒臭がりが災いして、技術的には高校生の頃くらいに成長が止まってしまったのだけど。(そうして、純粋に絵が好きでそちらの分野に進んだ人達からは置いてけぼりを食らい、さらには若手の絵描きの人に追い越されていく一方で、なのに何の因果か商業媒体でマンガの連載を持つことになり、劣等感と自尊心の狭間で、個人のこだわりと意地でみっともなく描き続けている自分は、藤野の超絶劣化版と言うのもおこがましい。)
藤野を見ていると、学校の中での自分の立ち位置も思い出された。小学校中頃くらいまではそれなりに一目置かれていた気がするけど、だんだんそれでは尊敬の対象にはならなくなっていって、そのうちに「ダサいオタクの趣味」と蔑みの視線を感じるようになって。高校で漫画やイラストレーションを愛好する人達の部活に所属して、Webという「学校外の世界」でも遠く離れた土地に住む人と友人関係ができたときの自分の気持ちは、帰り道で踊り出した時の藤野ほどではないにせよ、とても嬉しいものだった。
そんな風に社会のメインストリームからの微妙な疎外感を感じながら育ってきた僕は、「劇的な出会い、長年の切磋琢磨。その後、ライバルから尊敬されていたと知って、孤独が一転して歓喜となり、学校外でかけがえのないパートナーとして関係を築いていく」藤野と京本のあり方に、「自分もこういう青春がしたかった」と憧れてしまった。「こんな情熱を持って生きたかった」と思ってしまった。
その後の別れ、事件、そこからの立ち直り。ネタバレしたくないのであまり詳しくは書けないけど。
「人は、行動することで他者に影響を与える」
「その影響は、いいものかもしれないし、悪いものかもしれない。想定もしていなかった影響の与え方をして、自分の信念に迷うこともあるかもしれない」
「でも、そうして影響を与えて、与えられて、人は生きていくものだ」
「とにかく、やるんだよ」
表現をする者、何かをなして生きていきたい者、その過程で自分のしていることの意義に悩んでいる者・悩んだ事のある者にとって、「それでも、やるんだよ」と背中を蹴っ飛ばすようなメッセージが込められた作品だと感じた。
本作が発表された時、漫画家の人の絶讃の声を多く見かけたけれど、それは「漫画家の漫画だから」という事以上に、表現に関わる人に共通の思いに訴えかける物だったからなんじゃないかと思う。「本作が心に響く人と、まったく響かない人がいる」というのは、そういうことなんじゃないかと。
表現媒体を問わず、何かを作ることに関わっていて、人に与える影響(あるいは反響の無さ)に迷いを感じている人には、是非読んでもらいたい一作だと思う。
そのような感想を持ったと同時に、僕は後半の事件に関する、特に幻聴を示唆する描写を見て、統合失調症などの精神疾患への偏見や差別を助長しうる表現と感じて、その部分についてだけは眉をひそめたくなった。全体としては素晴らしい作品だと思えたのに、この一点だけがシーツに付いた染みのように感じられた。
まず、時系列に沿って、起こった事を書く。
僕は当初、事件の描写について、眉はひそめつつも言及はしなかったけれど、この点について批判的にクローズアップした記事や、それに言及する発言を観測し始めるにつれて、表現に関わる者の端くれとして忸怩たるものを感じた。この点の責任は作者ではなく、その表現の問題点をスルーした編集部にあると僕は考えていたので、その後起こった批判や、批判への批判を見ていて、こういうことが起こらないように、表現内容に危ない部分があればカバーして作者も読者も最大限守るのが編集部の役割だろうに、一体何をしていたんだ、組織として努力を怠っていたんじゃないのか、と憤りを感じた。
最近になってVTuber「兎田ぺこら」の配信アーカイブ視聴にはまってる、それはどうやら自分がそこに、平成期のバラエティ番組の体当たりノリを感じているからのようだ、という話。
以前からYouTuberもVTuberも認識はしてたんだけど、10分前後の長さに編集された企画動画のノリの合わなさや、美少女アバターな配信と近接している地下アイドル関係ビジネスそのものに持つネガティブなイメージから、ずいぶん長いこと、半分無意識的・半分意図的に距離を取ってた。やれ迷惑系YouTuberが逮捕されただの、やれ運営の都合でVTuberの「中の人」が増やされただの、やれ中国向け配信で台湾問題に触れて炎上しただのと、マスメディアを通じて間接的に入ってくるのはもっぱらネガティブなニュースだったし。
ただ、その一方で、YouTuberやVTuberをテーマにしたマンガが増えてきたり、知ってるITエンジニアがいつの間にかバ美肉してたり、自分も筋トレやヨガのトレーナーのYouTuberの動画を実用目的で見る機会ができたり(動画に合わせて筋トレをやる、みたいなジャンルがあると妻に教わった)、あるいは、Twitterのタイムライン上にVTuberを描いたイラストが度々流れてきたりして、自分の生活にも少しずつYouTuberやVTuberの存在は侵入してきていた。
僕がVTuber「兎田ぺこら」を認識したのは、そういうイラストを通じてだった。白を基調としつつ暖色の差し色もあるという、カラフルでファンシーな衣装デザインでありながら、実はコートの下は黒タイツのバニーガール(バニーガールというと正統派デザインは網タイツだけど、僕はこの組み合わせの方が好き)、というギャップが良くて、純粋にキャラクターデザインの好みだけで、流れてくるファンアートをありがたく眺めてた。
そんな折、その兎田ぺこらのfigma(Web業界で最近使われてるらしいデザインツールのFigmaではなく、可動フィギュアの方)が予約開始された、という告知が流れてきた。相変わらずキャラの詳細は把握してないけど、見た目が好みだし買ってみてもいいかな、と思って商品紹介を見ていると、ロケットランチャーとサングラスが「おなじみのアイテム」扱いで付属すると書かれていて、想像のつかなさに一気に混乱した。商品をカートに入れつつ、どうせならもっとちゃんとキャラを把握しておこうと思って、付属物の背景を知るために「兎田ぺこら ロケットランチャー」で動画を検索したのが、沼に足を踏み入れた発端だった。