Nov 21, 2023

理解の不可能性と断絶について

Xに垂れ流したことの再編集。

エッセイ漫画家さん、過去1番共感できない漫画を描いて炎上する【ぬこー様ちゃん】というまとめを見た。人から金を借りて、返す段になって「返したくねーなー」「うわっこいつ(※貸主)、何も言わず受け取るんかよ(※当然です)」と感じる、という件の作者に対して、 「クズ」「最低」等々非難の嵐となっている様子がまとめられたものだ。

まとめられた反応は散々だけど、自分はこの「作者の気持ち」が分かる方だ。
相手を舐めている、世界のすべては自分のためにあると思っている、自分をもてなさない相手に出会うと不機嫌になる……そういうタイプ。
言語化すると「なんて傲慢なんだろう」と思えるのだけど、自分自身ではそれを「当たり前」と思っているから、特段「悪意」があるわけでもない。 悪意も自覚もなしにこう考える人間がいるのだと、我が事として実感しているから、僕は今は他者の善意や返報性に期待しすぎずにいられてるんだと思う。

僕という人間は、ハードウェア的にはそういうクズで、ソフトウェアエミュレーションで社会性を保っている。という自己認識でいる。
むしろ、自分がそうだから「クズに見える人も、やりよう次第で社会的に振る舞えるようになれて、社会の中で問題を起こさず共存できるのだ」と信じられているのだと思う。

 

先のまとめで「クズ」「最低」等々の非難を浴びせる人々の様子と、最近目にした、アニメ版で「断頭台のアウラ」のエピソードが放映された前後の「葬送のフリーレン」視聴者の盛り上がり方には、類似性があるように僕は感じてしまう。
にこやかな態度で人類に「対話」「交渉」を持ちかけてくる魔族だけど、実際には、親子の情も家族の概念も無いのに「あなたは魔族との戦いで父を失ったが、私も人類との戦いで父を失った」とか「お母さん……」とかの言葉を人を騙すために発しているだけの猛獣で、対話が成立しているわけではない、だから魔族は交渉の余地なく殲滅するしかない。
という一連の話に「そうだそうだ!」「現実にも話が通じない連中はいるんだ」と大盛り上がりの人々を見ていると、それらと重なり合っていそうな印象のある人々が「ポリコレポリコレうるさいリベラルの連中との対話は不可能だ」「ピーチクパーチクうるさいフェミ共はただのクレーマーだから、耳を貸す必要はなく無視一択だ」といった趣旨の発言をしていた様子や、近年の在日クルド人を標的としたヘイト言説、あるいは何年か前の「嫌韓」が激しかった頃に見かけた「あいつらは人間じゃなくてチョウセンヒトモドキだから話が通じない」みたいな言説を、僕は想起してしまう。

 

「葬送のフリーレン」というコンテンツの「いなくなった人の痕跡を辿りながら、その人の為したことの意味を噛みしめる旅」という部分に魅力を感じて楽しんでいる僕だけれど。
本作における対魔族の「言葉は通じても相互理解は無い、だから殲滅するしかない、という描写」が、(かつて称揚する人が多かった「対話・融和」至上主義的な頭お花畑言説の揺り戻しの)現代の断絶の世相の反映だとする解釈を見かけ、さらにそれへ多数の同意が寄せられている様子を見かけて。
現実の生活に心を磨り減らされフラストレーションを抱え込んだ「弱者マジョリティ」な人々に「発見」されてしまった本作は、これからは単純に「抗議してくる少数派を排除するためのプロパガンダ」として消費されていくのだろうか、と暗い気持ちになっている。

長命種のフリーレンと短命種のヒンメルとの間での時間差での「対話」が描かれていることを思うと、本作では対話と相互理解の不可能性だけが描かれているわけではない、と思うのだけど。
それとも、それは僕が自分に都合よく読んでいただけで、本当は単純に「我ら人間におもねることのできる他者(エルフやドワーフ)は良い他者で友達、そうでない他者(魔族)は悪い他者で殲滅」という物語に過ぎないのだろうか? 読解力がない僕にはそれが分からない。

ともかく、実際どう描かれてるかや、作者がどう考えてるかにはあまり関係なく、読者サイドから「あの大ヒットした名作でもこう言ってた!(※言ってない) だから正しいんだ!(※正しくない)」と妙な持ち上げが発生して、プロパガンダ的に消費されそう(もうそうなってるのか?)に感じて、それが僕には憂鬱だ。

 

作中で黄金郷のマハトに支配の石環をはめさせた人間達は、「悪意という概念を持たない」魔族への無理解から、「悪意を持ったら死ぬ」という無意味な縛りを与え、悲惨な結果を招いたわけだけれど。
そこで「我々と違うから制御不可能だ」と諦めるのではなく、「ちゃんと魔族の事を正確に把握して、魔族の認知の範囲で有効に機能する縛りを用意する」のが「理解」ということなのではないか。そして現実の社会でもそういうことは日々行われていて、なんとか有効に機能するように工夫して作られる縛りが「制度」とか「法」とかそういうものなのではないか。そのために必要なのが、異質な他者と対話し続けるという事なのではないか、と僕は思ってる。

いま葬送のフリーレンの感想で見かける見解は、「理解なんて不可能だし、無駄どころか害悪だから、最初から排除一択。現実の社会にいる"アイツら"に対しても、対話は不要なのだ」というのが多いように僕には感じられて、そこが残念でいる。

先の黄金郷のマハトの例えだと「縛られるのは社会の中で少数派」ということになるけど、現実社会では、多数派の方が縛られないといけない場面もある。
……と言うと「あーポリコレね」と短絡されそうだけど、それだけでなく、食品衛生法とかもその一種だと僕は思ってる。
自然状態で衛生意識の高い人も食中毒に弱い人も少数派で、「(不衛生なものを)食って腹壊して回復して免疫を付けるのが人間ってもんだろ。あたって死んだらそれまでよ」が昔の当たり前だった。多分今でもほとんどの人は、賞味期限を多少過ぎた程度の物を食べても腹を壊しはせず、あるいは腹を下してもその程度で済んで、重篤な症状に苦しむようなことはないのだろうけど。
それで致命的な被害を受ける「弱い」人がいて、弱い側に合わせて縛るようにして社会を回すことを我々は選んでるんじゃないのか。そうして作られたのが、食品衛生法みたいな「お節介」の類の法律なんじゃないのか、と。

 

文化的な背景も、価値観も、身体的な頑健さも、もしかしたら精神構造自体も違うかもしれない、異質な他者。
「そんな相互理解困難な相手と、コストかけて妥協点探って仕組みづくりまでして、なんで共存せんならんのや」というと……端的には僕は、その方が富の総量と可能性が増えると期待してるんだと思う。
例えば、異文化の美味しい食べ物、異文化の芸術作品、そういったものを楽しむことも一種の「富」で、文化の垣根を越えての交流が生じれば「富」の総量が増える。侵略・制圧によってもそれらを得ることはできるかもしれないけど、失われる物が大きい。なるべく損失を減らして交流するには対話が必要。そんな風に考えている。
理解不能な相手と理解不能なままなんとか対話し付き合っていく様を描いた漫画「ヘテロゲニア リンギスティコ」を読んでいるから、僕はなおさらそう思うのかもしれない。)

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