たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
卒業以来行ってなかったんだけど、母校であるところの大阪電気通信大学の大学祭に行ってきた。サークルのプチ同窓会的な趣旨。
それで、僕らが創設した後も今に至るまでずっと続いているサークル「コミックアート」の今を見たくて、サークルの展示に顔を出した。 落描きコーナーがあったので、しれっと描いてみたりもした。
連載とかでやると怒られそうなポーズ。 pic.twitter.com/ywLHEldXdb
— Piro/YUKI Hiroshi (@piro_or) 2014, 11月 1
もういちまい。厨二病爆発中のふぉくす子。 pic.twitter.com/WJjm6ZUWWc
— Piro/YUKI Hiroshi (@piro_or) 2014, 11月 1
それを渡す時に「実は初代なんすよ」と明かして、超かしこまってる現役生の皆様方に先輩風ビュンビュンに吹かせて、適当に思いつくままいろんな話をペラペラ喋ったんだけど、あまりに垂れ流しで喋りすぎて脈絡なさすぎたんで、帰りの道すがらちょっと自分の中で話を整理してみた。
展示の部屋に入って最初に思ったのは、「おお、ほんとに10年続いてるんだ……!」という感慨。
次に思ったのは、「でも、変わってない……っていうより、後退してるのかも……」という軽い落胆。
社会人感覚だと10年って意外とあっという間だし、人の入れ替わりがないことも結構あると思う。 自分がいるのが、毎年新卒をコンスタントに採用してますっていう事が無い小さい会社だからなのかもしれないけど。 そういう状況だと、こういう事は会社としてやりたくないとか、会社としてこういう風に進んでいきたいみたいなことは、一度合意した後はけっこうそのままブレずにいられる。 でも、そうして形成された文化を後から来る人達にどうやって伝えていけばいいのか?という問題はある。 人の入れ替わりが無いから伝える必要が無い、伝える必要が無いから問題も無い、というのでは、高齢化が進んで先細りしてしまうだけ。新陳代謝がない事自体も問題だし。 弊社の目下の課題は、そういう感じ。
大学(のサークル)だと、望むと望まざるとに関わらず、基本的には毎年人の入れ替わりが発生する。 だから新陳代謝という点では悩まなくてもいいんだけど、文化の継承の問題はやはりある。
今回、現役世代を見ていて思ったのは、ノウハウはある程度継承されているようなんだけど、その背景にあった思いはどこかで途絶えてしまったのかな……ということ。
僕らはサークルを創設した世代なんだけど、当時あった既存のオタク系サークルが「既存作品のファンの集い」的な性格が強くて(あと、漫画を専門としてやる感じでもなかったので)、それに絶望して「もっと真面目に絵を描くサークル活動がしたいんやー!!」って思って作ったサークル(会長達がサークルを立ち上げたところに、僕がその噂を聞きつけて後から参加した)で、自主的な活動だったから大学から下りてくる予算なんか当然無いし、伝統的に引き継がれてきたノウハウのような物も無かったし、ほとんどゼロから作り上げるしか無かった。 大学祭の時の展示をどうするか?とか、会誌はどうやって作ればいいのか?とか、そういう部分については僕が高校の漫研の時の文化を色々と持ち込んだんだけど、それ以外の部分、会則作りだったり、(作画技術やシナリオ制作技術などの)技能向上を目的とした「勉強会」の継続的な開催だったりとかは、ほんとに手探りだった。 とにかく、自分達がやらなきゃ誰もやってくれない、教えてもくれない、自分らがやらなかったら何にも進まない、そういう危機感が強かったと思う。 特に、当初の絶望の元だった「ああはなりたくない」「あそこには負けたくない」っていう思いが強かった。
世代を重ねて、10年が過ぎて。 僕が持ち込んだ「こうやれば展示の体裁は整う」「こうやれば本の体裁は整う」といったノウハウは引き継がれていたし、本の表紙がカラーになってたりしたし、アンケートも採ってたし、ノウハウが引き継がれているのは間違いなく感じた。 また、缶バッヂ作りのように、今まで無かったことにも手を広げているのも感心した。 メンバーも相当数に増えたらしいし、合宿はちゃんとした合宿所を借りてやっているという話も聞いたし、「すげえ! ちゃんとしてる!」って思った。
でも、熱は下がってるのかなって思った。 少なくとも、危機感的なものはあまりないのだろうなあと感じた。
というか、まあ、最初の世代の僕らの危機感が異常だったとも言えるんだろうけど。 最初の世代と、後の世代って、そういう物なのかもしれない。 僕らがあまりに「差し迫った危機感」ドリブンで色々やり過ぎたものだから、サークルの公認化やメンバーの増加などによって、差し迫った危機が去って危機感も薄れていったのかなあ。 だとしたら、差し迫った危機感の有無に頼らないで向上心を保ち続けるという文化を、僕達は作り、後の世代に託さなくてはならなかったのかもしれない。
あと、話していて、当時と今とでは色々状況も変わってるんだよなあっていう事は思った。 今はPixivなんていう便利なサービスもあるし、(今時流行らないかもだけど)いわゆる「公式サイト」を作るのにも、GitHub Pagesあたりを使えば、複数人でコミット権を持ってコラボレーションできる。 Circle.msを使えば同人イベント参加もオンラインで申し込めちゃう。 あの時これがあれば……っていうのは、改めて考えてみると、結構ある。
現役世代の人達もPixivは使っているとのことだったけど、それは多分「今のトレンドとしては、絵描きは当然のようにPixivを使うものだから」っていう事なんじゃないだろうか。 それはそれでいいんだけど、一般教養の授業で教わったアンケートの取り方の技術をアンケートの改善に活かしてみるとか、そういう「工夫」としての新しい技術の導入にも、取り組み続けていて欲しいなあ、と思う。
向上心といえば、僕ら世代が卒業する前くらいに、その(勝手に)ライバル視してたサークルの方でクーデターがあったとかで、それ以前に比べてすっごく真面目に取り組むようになったらしくて、最後の年にあっちが出してた制作物は、かなりレベルが高くなってたと記憶してる。 「あそこよりは勝ってるから大丈夫」みたいに思ってたらこりゃあアッという間に追い越されるぞ……!っていう思いで背筋がヒヤリとしたんだった。
僕らが一旦絶望した所でもそういう事が起こったくらいだし、自発的な改善が行われることは今後もあるだろう。 そのとき、そうして行われた改善を彼らがさらに後の世代に継承していけるかどうか、そこが重要なんだと思う。
色々偉そうなことを言ったんだけど、あんまり先輩世代がデカいツラするもんでもないよなあ、ってのは思う。
今回も、現役世代の人達があまりにかしこまってるのを目の当たりにして、逆にこっちが申し訳なく思ってしまったほどだった。 僕自身が上記のライバルサークルに仮入部した時の「先輩の意味の分からない横暴、体育会系的な上下関係」にウンザリした記憶を思い出してしまって、自分がああいう風になってしまってるのかなって思うと、すごく申し訳ない気持ちになる。
僕は「先輩がデカいツラして居座り続けること」による「現役世代の萎縮、負の文化の継承」をすごく恐れていて、だから一線を退いた者はさっさといなくなるべきと思ってる。 僕らの時は「上の世代」がいなかったから、そこら辺まったく気にしないで好き勝手できてたっていうのは、初代ならではの特権なんだよね。
この辺のこと、Mozillaがらみでも、後世代の人に言われたんだった。 後世代にしたら、「良い文化を継承しないまま居なくなられることの方が困る」って。 でも、「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉があるくらいに、良かれと思って焼いた世話がただの迷惑になってしまう事はあまりにありふれているし、何度か自分の知っていることを相手に伝えようとしてバーッとまくし立てて辟易させてきたことを思えば、僕自身が「できた先輩」になれるとは到底思えず、むしろ「よくいる駄目な先輩」の方としか思えず。 過干渉にならない程度の距離感って、難しい。
以前に初代会長が訪問したときに聞いた話だそうだけど、過去何人か、在籍者でプロの漫画家としてデビューした人はいるらしい。
いわゆるプロデビューを目指すようなレベルの意識・動機っていうのは、サークルの文化として育てていくような物でも無いんだと思う。 それはサークルに入ってくる時点で「持っている人」と「持っていない人」がいるという物で、その点についてサークルができる事は、動機を持っている人のやる気を削がないことくらいなんじゃないだろうか。
サークルとして積極的にできるのは、絵を描いたり話を考えたり漫画を描いたり本を作ったりっていう、ノウハウの伝達がせいぜいだと思う。 ノウハウを必要としている人がいた時に、伝達できるノウハウをサークルには維持していて欲しい、と僕は思う。 聞いた話では、今、勉強会の文化はあんまり引き継がれていないようだった。 技術向上を図るための勉強会を重視する、という事は僕らが拘っていたはずの部分なので、それが途絶えているのは悲しい。
現役生で、イラストレーターになりたいと思っていると言っていた人がいたと思うんだけど、今の画力がどうかっていうのと関係無く、それでやってくのは今は(これからは)すごい厳しいだろうなって思う。
今Pixivのトップページ見たら、美麗なイラストを描いてる人達が星の数ほど居るのが一目瞭然なわけで。 「今登録したら何々っていうレアカードが貰える!」ってCM打ってるようなオンラインカードゲーでイラスト描いてるような人達。 選手層はとんでもなく分厚い。 でも、そんなハイクオリティの絵でも(酷い会社には特に)安く買われてしまう。
僕が読んでるプロの小説家の人のブログで、小説教室の講師もされているそうなんだけど、その方は、教室の生徒さんで持ち込みとか営業とかを自主的にする人が少ないという事を書かれていたと記憶してる。 今回同行した初代会長も、イラストレーターで賞への応募や営業までしてくる人は全然いないという話をしていた。
Pixivで綺麗なイラストを上げているけれども自分からは応募したり営業したりはしない。 そういう人の中には、ゲーム制作会社や出版社でお金や権限を持ってる人に偶然見出されて評価されてデビューする、っていう流れに期待してる、待ちの姿勢の人が結構いるんじゃないだろうか。 そんな典型的な憧れ産業だから、搾取・買い叩きの対象にされてしまうんじゃないだろうか。
ちょっと話はズレるけど。 描いた絵はどんどん公開してフィードバック貰った方が上達するよ、だから学外に出てでもどんどん絵を人に見せていった方がいいよ、ということを現役当時の僕らは言っていたと思う。 「学外に出て行く」という事だけを見れば、Pixivに絵を公開している時点で、それはできていると言えなくもない。 でも、「人目にさらせてるか?」っていうと、疑問だと思う。 あれだけ美麗なイラストが溢れているPixivの片隅に絵をアップロードしたところで、一体どれだけの人の目に留まるだろうか。 トップページに並ぶようなクオリティの絵が膨大にある中で、自分の描いた絵は本当に人に「見てもらえている」だろうか。
僕の友人で、高校生当時はそれほど画力が高いわけでもなかったけれども、絵を専門に学び直して、その後プロの絵描きとしてゲーム業界で働いている人がいる。 彼は多分、学んだ成果の絵を持って回って就職活動したんだと思う。
本当の意味で仕事に繋げるためには、そういう自分からの効果的なアピールが重要なんじゃないだろうか。 運任せ、人任せにしないで、自分から主体的に掴み取りに行く。 Pixivに投稿して埋没したまま白馬の王子様が来るのを待ってても、チャンスはやってこない。 そういう事なんじゃないかと思う。
あと、待つにしても、見つけて貰いやすい待ち方というのもある。
Pixivのように既に大勢がいる中に、後からノコノコ参加したって、よっぽどの事が無い限りは埋没するだけだ。 ああいう場では、「絵が描けること」は「当たり前」でしかない。 その1次元の評価軸での激戦区に飛び込んで、既にプロで活躍している人達と張り合って目立つってのは、相当困難なことだと思う。
僕はPixivはロクに使えていなかったけど、「技術がそこそこ分かって」「漫画も描ける」という複数のキーワードに引っかかったことで、記者さんの目に留まったらしい。 連載が継続している今は、そこにもうひとつ「解説ができて」という評価も加わっているのかなと思う(というか、そうであって欲しい)。
絵の上手さや発表数の多さという評価軸では僕は上位にはいないけれども、他の評価軸も合わせることで、僕は浮かび上がって来れた。 1つのことだけやっていなかったということが、僕にとっての武器になったのだと思う。
僕みたいな半端者ではないちゃんとしたプロの漫画家として活動している別の友人も、メインの絵柄とは別の絵柄も練習していて、その毒気のない絵柄と、歴史関係に強い……というか、歴女というプロフィールの2つがあったことで、継続的な仕事に繋がったようだった。
既にみんながやってるのと同じ事をやるより、誰もやってないことをやる方が目立つ。 当たり前のことなんだけどね。
プロがどうとか色々描いたけど、当然だけど、誰もがプロを目指す必要は無いと思う。
スタンスとして、楽しく絵を描いていられればそれでいい、ってのは全然アリだと思う。 楽しく長く絵を描き続けていられれば、それに越した事はない。 辛くなってやめちゃうよりも、楽しく描き続けている方がいい。
というか僕自身、今まさに原稿料を頂いて漫画を描いているけれども、「プロの漫画家になろう」とは思っていなかったし。 それどころか、今こうしてやっている仕事も、どっちかっていうと「絵の比率が高い技術記事の執筆」だと思ってるくらいだし。 もえじら組の活動を細々とやれていればそれでいいかな、と、連載の仕事を貰う前は思ってた。
長く続けるためには、別に、メチャメチャ美麗で上手な絵を描ける必要ってのはないと思うんだよね。 ただ最低限、自分の絵に自信を持てるポイントがあった方がいいっていうか、自分の絵って絶望的にヘタクソだなって思わずにいられる程度にはなっていた方がいいっていうか、そういう風には思う。
描かれた物が何であるかが分かる程度の描写力。 右向きの顔を描くときに紙をいちいち裏返して確認しなくても大丈夫な程度のデッサン力。 何度も描いて消してを繰り返さなくても狙ったところに狙った線を引ける身体制御能力。 そういう地味な基礎画力があると、絵を描く事そのものを苦痛に感じる程度はだいぶ減じられると思う。 あと、そういうのができてない絵を見たときに「自分の方が基礎はできてる!」って思えるのも結構大きい。
僕自身は突き詰めると、自分が見たいけど他の誰も描いてくれない物を形にしたいっていうのと、「俺TUEEEEEEE」感を味わいたいっていう2点が、絵に関しての大きな動機だと思ってる。 自分の見たい物を形にするのなら、どうせやるなら、上手にできてた方が、観客としての自分が見てて嬉しいじゃないすか。 それでできれば「俺TUEEEEEEE」ってなりたいじゃないすか。 その方が楽しいじゃないすか。
苦手は克服した方が、より「俺TUEEEEEEEE」って思えるようになると思う。 何と言っても、「克服した俺SUGEEEEEEE」って思えるわけだし。その事実は揺らがないわけだし。 右向き描けないから左向きしか描かない、とか、背景描けないから背景描かない、とか、凝った構図は描けないから必ずバストアップしか描かない、とか。 自分で後から見てて、つまんないし情けないじゃないすか。 っていうかそんなの、自分自身が見たかった物じゃないでしょう? 自分が見たい物を手に入れるには、自分で描くしかない。 自分が上手くならなきゃ、自分が見たい物は見れない。 自分が上手くなれば、自分が見たい物を見れるようになる。
だからやっぱり、画力はあるに越した事はないと思うんだよね。 そういう喜びに繋がるためにも、勉強会の文化はあって欲しいなあって思う。
これは当日話した内容ではなく、後から「ああ、こういう話をしておけば良かったかなあ」と思った話題。
主に会誌を見てて、「読者を楽しませる努力はもっともっとしていいんじゃないか?」って事を思った。 僕らの世代がそれをできていたのかっていうのは完全に棚に上げて言っちゃうんだけど。
「大同人物語」で平野耕太氏が書かれていたんだったと思うけど、学校の部活やサークルの出す本、いわゆる「学漫」は、クソだと。 自分達が作りたいから作ってるだけで中身がない、読者がまったく楽しめない、お金を出して他の人に買って貰うには値しない、そういうジャンルだ、と。
前段で書いた事と矛盾してるんじゃないか、自分が楽しくなるようにすればいいんじゃないのか、っていう風に思われるかもしれないんだけど、そうじゃないんだよね。 独り善がりでただ作りたいから作るっていう事をしなさいって話じゃないんですよ。 作る事そのものが楽しいっていうのは、そんなもん当たり前なんですよ。 でもそれでは「作る人の視点」だけしかない。 そこに「読者の視点」も加えて、「自分が読んでも楽しめるような物、自分が欲しくなるような物を」作るのって楽しいでしょ、「読者を楽しませられる俺SUGEEEEEEE」ってなったら楽しいでしょ、って話なんですよ。
そういう風に思うのは、僕自身が大阪で育って、両親からの影響はなかったけど学校の同級生だったりテレビだったりから事あるごとに、「おもろいモンが正義。おもろくないモンはあかん。笑かしたら勝ち。スルーされたら負け。」という感覚を刷り込まれてしまってるからなのかもしれないんだけど。 その通りに実践できる・成功できる確率が低くても仕方ないとは思うけど、そうしようっていう思いは持ってて欲しいなあって思うんですよね。
あと、これも前段の話の繰り返しだけど、「今の自分で描ける物を描こうとする」んじゃなくて、「今自分が見たい(読みたい)物を描こうとする」って事は、ほんとに大事だと思う。
今自分ができる範囲でやろうとすると、何もスキルが身に付いてない段階だったら、表現の引き出しなんてそんなに無いじゃないすか。 斜め45°のバストアップの美少女しか描いたことありませんって人が、自分にできる範囲で物を作ったら、そんなもん、エロゲーの立ち絵が並んでるようなコマにしかならんくてあたりまえですよね。 そんな物を自分は見たかったのか? って話ですよ。 そうじゃないでしょ。好きな漫画みたいに、ダイナミックな構図だとかいろんなアングルだとかいろんなキャラだとかいろんな表情だとかを見たいに決まってるでしょ。
そういう「素直に自分が見たい物」を描けんのか? って話ですよ。 できないんだったら、描けるようになるしかないじゃないすか。 ……っていうのが、技術の上達に繋がるんじゃないかと僕は結構思ってる。
実際、僕も今でも、ラフ段階で微妙に今まで描いたこと無い物・やった事ない事が要求されるようなネーム切っちゃって、四苦八苦してうんうん言いながらそれを完成原稿まで仕上げて、って事を結構やってますし。
まったく目標や課題を定めずにただただ「画力を上げるんじゃ―――!!」って闇雲に努力するよりは、「今これを描けないけど描きたい・描かなきゃいけない」っていう状況を作ってしまった方が、頑張るための力を注ぐ方向を間違えにくく済むんじゃないだろうか。 というのが僕の思うところです。
オープンソースカンファレンス2014東京の一コマとして3月1日に行われた「チャンネルはオープンソースでっ!(ちゃんおぷ)」の「応援キャラクター大集合!」という企画に、ふぉくす子のプレゼンターとして出てきました。
1年くらい前に日本OSS奨励賞を頂いた場所で、今度はふぉくす子のプレゼンをするだなんて、誰が想像できようか。とか、実はフォクすけを最初に書いたのも僕なんですよねとか、その辺の話を面白おかしく盛り込めれば良かったのですが、当日はめちゃめちゃ緊張してて頭真っ白でそれどころじゃなかった。っていうか自己紹介の一言があるという事自体を僕は本番が始まってから知った(ふつうにクラウディアさんが自己紹介して、さくらインターネットの人が「さくらインターネットのだれそれです」と言って……という流れができていた)ので、もえじら組のPiroですだなんて名乗るわけにもいかず、3分の制限時間があるということもあって、普通に「プレゼンターの結城です」とつまらない自己紹介をしてしまいました。
しかも、焦ってそのままの流れでプレゼン資料に画面を切り替えてもらってしまったので、現場にいたふぉくす子さんは全然画面に映らないということになってしまいました。「この衣装はうんぬん」とうまく話題を持っていくようなこともできず、わざわざ朝も早くから山の中まで来てもらったのに申し訳ない限りです。
あとフィギュアの話に触れる時に実物を「コレです」って出そうと思ってて会場にも持って行ってたんですが、そろそろリハーサルだからということで荷物置いて軽装で現場まで行ったらそのまま本番までそこにいることになってしまったため、写真だけの紹介になってしまった、というのも心残りな点です。
そんな感じでグダグダのうちに3分を使い切ってしまったのですが、当日のニコ生のタイムシフト視聴(41分頃からふぉくす子の紹介)やTogetterとか見た感じでは叩かれてるとかそんな事は特になかったようで、ほっとしました。
イベント後の撮影会でもふぉくす子を撮ってる人が結構いてくれて良かったです。ただ、撮影会の場所となっていたのが自然光の入らない薄暗い場所、しかも掲示板の前という酷いロケーションだったので、記念撮影以上のことはできない感じだったのは残念でした。2Fの受付近辺は吹き抜けで自然光もいっぱい入ってたので、ああいう所を選んでやれば屋内でももうちょっとマシだったんじゃないかなあ。あんなところでやるのはモデルさんに失礼だと思いますよ、ほんとに……
ふぉくす子が表舞台にこうして出てくるというのは、僕としては結構画期的なことであったと思っています。
僕がMozilla Japanに半常駐してた時には既にふぉくす子ももえじら組もあって、当時色々やってたちょっと変わった広報活動の方針決めなどにも口出しさせて頂いていたので、ふぉくす子を表舞台に出そうと思えば出せる状況ではありましたが、当時僕はそれは絶対にやらないつもりでした。それどころか、僕という人間がMozilla Japanの広報活動に関与している事自体もなるべく公言しないでおくべきだと思っていました。
秋葉原でCD-ROMを配布した時(そういえば、この時のCD-ROMを作るためにProtable Firefoxのことを調べたのが、後のFx Meta Installerの開発に繋がったのでした)に、事前も事後も色々と批判があって、Mozilla Japanの組織として「今後はこういうのは無しの方向で」的な空気がなんとなくあったのは事実です。
でも、そういう分かりやすい「失敗」が無かったとしても、当時まだ知名度自体がそんなに無かったFirefoxに必要以上にオタクなイメージがまとわりついてはいけない、エロ同人なんかやってる人間が関わってるということが悪意ある人間に知れてしまったらそれを叩きの口実にされてしまう、という恐怖感というか危機感が僕にはありました。だから、フォクすけの作者が僕だという事も公言していなかったのでした。
それから月日が経って、今ではフォクすけもFirefox自体もそれなりの知名度があるようになりました。しっかりとしたブランド価値が築き上げられた今であれば、この程度の事でそのブランドが崩れ去るようなことは無いだろう。そう思えるようになってきたので、僕は最近になってようやくこのあたりのことをおおっぴらに言えるようになりました(周囲に咎められていたのではなく、本当に、自分から「これは言っちゃいけない」とタブー視していたのです)。
また、クラウディア窓辺のように他の所も萌えキャラを使ったプロモーションをオフィシャルにやるようになってきた、という社会情勢の変化もあります。要するに、他の所がこうして大々的にやってるんだからふぉくす子も大丈夫やろ、と。そういう話です。
どうでもいいんですが、クラウディアさんは1985年生まれという設定になっているので、もうあと数年でさんじゅっさいになってしまうわけですけれども、大丈夫なんですかねこれ。(そこらへんを気にしてか、だいたいのキャラは誕生月と日は決まってても誕生年は不明ということになっているので……)
今回の企画についても、「ヲタが公の場でオナニーしてんじゃねえよ」「おっさんが綺麗な女の子集めて持て囃してんじゃねえよ」的な批判の声はいくつか見かけました。以下はそのひとつ。
まず思うのは、モデルとして参加していた彼女らは基本的にオファーがあって業務としてあの場に居合わせただけ(ふぉくす子はノーギャラですが……)なのであって、媚びるな云々は筋違いということです。ドワンゴの女子マネージャー弁当手渡しもそうですが、こういったことの責はすべて依頼者側にあるというのが僕の認識です。
で、それ以外の話ですが、実際にイベントの裏側を現場で多少見ていて、確かに、内輪ノリとかホモソーシャルなイベントという空気があったのは否めないと思います。おっさんが若い女の子にデレデレして鼻の下伸ばしてるのは、まずそれ自体がみっともないし、そういうみっともなさを許容する空気があるということ自体が女性参加者を余計に遠ざけることになる、という批判は、まあ、あってもしょうがないなと思います。レースクィーンとか、モーターショーやアニメイベント等のコンパニオンとか、そういうのと同じ物を求める下心というかなんというか。(と、話題に出した所でふと思ったのですが、レースクィーンとかモーターショーやアニメイベント等のコンパニオンとかは実際の所どのくらい女性参加者を遠ざけるものなのでしょうか? そういうイベントに行った事がコミケ以外で全然ないので自分にはよく分かりません。)
ただ、OSCが参加者の人達の善意やボランティアに支えられているイベントであるのなら、支えている人達の「俺はこれがやりたい」という思いが結果的にOSCの方向性を定めていくのであって、「これこれこういう壮大な目的のためにお前らは自分のやりたいことを我慢して我々の指示に従え」なんて事を主催者側が言いだしたら、成立しなくなるのでしょう。だから、これはこうあるほかに無いのだと思います。
というか、OSCがホモソーシャルではいかんという指摘自体がもう的外れなのかもしれない、とすら僕は思っている部分があります。
ここ数年は僕自身、今回のように特別な用事が無ければOSCには積極的に顔を出そうという動機がありません。それは開催場所が遠いから(そもそも、イベント会場が都心からだと電車を一時間も二時間も乗り継いでいかなければいけない場所にあるという時点で、外の人を相手にする気が薄い内輪のためのイベントという性格がかなり前面に出ていると思いますが、まあそれはさておきます)というのもありますが、OSSが自分や自分の周囲の人にとってはもはや当たり前のこと・当然の選択肢の1つになっているからというのが最大の理由です。今自分が仕事でお付き合いさせて頂いている企業さんはどこも「どうしても秘密にしないといけないクリティカルな部分以外は成果物をオープンにして全く構わない」というスタンスですし、クックパッドなどの「金を稼ぎ出している部分はきちんと他にあった上で当然のように技術をオープンにしている」会社はいくつもあって、少なくともオープンソースは「非常に、非常に珍しい物」ではなくなっているというのが今の僕の認識です。成果の技術をオープンにする事には一定の合理性があるという認識がある程度広まっていて、様々な企業や個人が自然な行為としてそれをやっているのであれば、その流れは勝手に広まっていくわけで。
そういう社会情勢の中で敢えて「オープンソース」だけをかけ声にして集まろうというのだから、濃い人が集まるのは仕方がない。その上でさらに各自のボランティアなのだから、そりゃもう濃縮されて余計に濃いことになっちゃうわけです。でも、「オープンソース」の中心がOSCやそこに集う人達だけの間ではなく、普通に回っている経済の中の方に既に移っちゃってるんだったら、もうOSCはそういうものってことでいいじゃん、と。オープンソースというものに全く理解がない社会の中で孤軍奮闘して頑張ってきた人達の同窓会になっちゃっててもいいじゃん、と。そんな事すら僕は思っています。
という僕の認識もまたずいぶん偏っていて、実際にはそんな事は全然なくてオープンソースはまだまだエヴァンジェリストが引っ張っていかないといけない感じなんですかね? だとしたら僕は今ものすごく恵まれた環境にいるんだなあ……
技術系コミュニティ一般の話に広げると、技術やっててヲタ文化に関心が無い人が居られる場所がないのは良くないなあ、とは思ってます。流行りの漫画のジャーゴンまみれにしなくても話を面白くすることは多分できるはずで、そこでジャーゴンに走ってしまうのは、人の関心を引く発表内容や資料を考える手間の省略、手抜きでしかない。無自覚な内輪向け感覚は、こういう事に限らず、なくしていった方がいいと思います。自分がどっかのお料理教室に行くことにしたとして、先生が料理業界の常識だとか流行りの話題だとかを知ってることを前提にして僕のようなよそ者完全置いてけぼりで喋ってたら、嫌だし多分行きたくなくなりますしね。「同質な者同士が馴れ合うための場所」と「広く様々な人を迎え入れて交流するための場所」とはキッチリ分けて考える、分別のある人でありたいものです。
前に書いたエントリに言及されたのだけれども、ピントのずれたことをおっしゃっているなあと思った。商売は生活の糧を得るための手段だけれども、同人活動(趣味)はそれ自体が目的なのだから、商売の理屈で同人活動の良い悪いを語っても意味がない。
極端な話をすれば、頒布価格は0円でも構わないし、あるいは「金を払うから見てくれ」といういわばマイナスの頒布価格だってアリっちゃアリだ。
実際、同人誌即売会の会場に行けば無料頒布のコピー誌がよくある。今回のもえじら組の頒布物だって、頒布価格は200円にしてたけど今計算してみたら1冊あたり金銭的には208円かかってて、作る手間を加えれば赤字どころの問題じゃない。それでも僕は「これに200円より高い値段は付けられないなあ」「200円でだったら人に見てもらえるなあ」と思ったのでこの頒布価格にした。
商売でだって無料の物をばらまくだろ、って言うかもだけど、それは将来の金銭的利益のための投資でしょ。同人は「消費」だから。
そういえば以前に詐欺まがいの自費出版ビジネスに言及した時にも、似たようなことを書いた覚えがある。
言ってみれば、同人は究極的には「金持ちの道楽」だ。それを金持ちじゃない僕のような普通の人間がやるから、なるべく長く楽しく続けるために赤字を少なくすることを考える必要が出てくるだけであって。金持ちがやるんだったら、そんな事気にする必要も無い。
前のエントリで言及した「3部しか売れなかった」の人も、作る部数を10部とかそれくらいのごく少部数にとどめて(=印刷製本のコストが跳ね上がるので1冊当たりの原価が数百円、下手したら1000円を超える)、且つ、赤字が出ることを厭わずに「買い手が見た時の、内容から判断される適正価格」で頒布していれば、「96冊(コミケット準備会に提出する見本誌1冊を除いた残り)の在庫を目の当たりにする精神的なダメージ」を被ることを避けられたんじゃないのか? そして次の作品作りへ繋げられたんじゃないのか? ということを僕は思うわけですよ。
さとうメメ子氏のコメントにはこうあった。
同人において「売れない」辛さっていうのは金銭面のものじゃなく、自分や自分の作品が受け入れられなかったっていう、自己承認欲求が満たされない辛さだから商いの辛さとは似て非なると思うよ。
10冊作って適正価格で頒布して全部捌けたら、赤字であってもそれは9人から承認されたって事。でも、100冊作って3冊しか売れなかったら、それは96人から拒絶された(相手にされなかった)って事。「そんな内容じゃ買う気しないな」なのか「その値段は分不相応に高すぎるわ」なのかは分からないけれども、とにかく、在庫の山とは可視化された拒絶そのものだ。僕はそういう風に拒絶が可視化されるのが辛い。その辛さを味わわなくて済むようにすることが、同人活動を長続きさせるひとつのコツだと僕は思ってる。ということを前のエントリで僕は言いたかったんだと思うよ。うん。(←後付けもいいとこだ)
幸いにも今はネットで無料に限りなく近いコストで作品を発表できる。ブクマや拍手を集めることができれば、商業的価値のない作品しか作れない人間でも、自己承認欲求を満たせる。pixivなんかはまさにそういうシステムを備えてる。そんなこの時代にそんな人が敢えてカネと手間をかけて同人誌を作るというのは、同人誌を作る事・本という形になった物を人に届ける事・同人誌即売会に参加する事自体が目的なのでない限り、全然オススメできない。逆に言うと、商業的価値のない作家がこの時代に敢えて「同人誌」を作るというのは、「同人誌を作る事」「同人誌即売会でそれを頒布する事」自体が目的であり採算なんかハナから度外視であるとでも考えてなきゃとてもやってらんない、贅沢な道楽なわけです。
もえじらブログの方のコミケアフターレポートに書いた通り、今回は持ち込み分を完売することができた(といっても既刊新刊合わせて200部くらいだけど)。でもその一方で、こういう話もあったようだ。
夏コミでたけど3部しか売れなかったんだぜ……。 - ゴールデンタイムズ(; ・`д・´)<
見てみたけど、まあ、さもありなんという感じではある。ただでさえ非エロは売れないのに、絵がそう上手いわけでもなく……いやはっきり言えば下手だし。
こういうケースで何が辛いかというと、売れ残った在庫の山を見ることが一番辛いんだよね。今回hknさんの写真集を委託扱いで本人手売りで売ってもらってたけど、半分以上売れて本当によかったと思う。ほとんど売れ残ってたら、きっと気まずかっただろう。
辛さが楽しさを上回るようでは、長く続けるなんて事はできない。やめてしまうことが嫌で、どんな形ででも続けていたいなら、辛くなるようなことはとことん避けるのが、同人活動を楽しむコツなんじゃないかと思う。楽しいことだけやるのが、同人活動を楽しむコツなんじゃないかと思う。楽しくて、後が辛くなる可能性がないことだけをやる、そういう事なんじゃないだろうか。
向上心がないのはけしからん、と言う人もいそうだけどね。
もえじら組ブログの方にも書いたけど、こっちでも宣伝しとく。
コミックマーケット76に参加します。参加日とスペースは、日曜日(2009.8.16) 東地区1ホール “K”ブロック 01b 「もえじら組」です。
新刊コピー本「LoveConnect3」(前回までの話の一応の完結編)、鋭意制作中です。宣伝も兼ねてオマケ用に描いた4コマ漫画を貼っておきます。
あと、以前売り子を手伝ってもらったhknさんが個人的に制作中の写真集(CD-R媒体ではなくフルカラー印刷の冊子)の中にふぉくす子コスの写真が含まれるということで、もえじら組スペースにて委託販売というかhknさん自ら直々に手売りしてもらう予定です。
Mozillaにまつわるグッズを見かけた人に「あれ、これってMozillaじゃね?」と反応されてそこから話が広がった経験というと、もえじら組のスペースを訪れた外国人旅行客に「ワオ! Firefox?!」みたいな反応をされた事くらいしかないです。
いやもえじら組はMozillaともFirefoxとも一切関係ありませんけどね! 関係ないったらないんですからね!
以前の申込書セットとか無駄に置いてあったのを捨てたり、段ボール2箱に別れてた物を1箱にまとめたり。
展示用のサンプルも含めて在庫が完全になくなったと思ってた奴が、2冊だけ出てきた。1冊は資料として保存しておくとして、もう1冊は展示用サンプルに回せそう。
過去に買った同人誌をチェックしたら、やっぱり2冊買っちゃってた奴があった。仕方ないので布教として誰かにあげよう(迷惑)。
過去のPOPとか見てると、その時の事が思い出されて感慨深い。2005年からだから、もえじら組としてはたったの3年なんだけど、色々あった。
ようやく原稿が仕上がったので、印刷してきた。
コピー本を作る時は、僕は両面コピーができる店に行くようにしてる。片面コピーしかできない所だと袋綴じ本になるんだけど、これは紙がもったいないし、重量も体積も単純計算で2倍になるので、家から自分で持って行く時に困る。何より、美しくない。
両面コピーでやる場合には中綴じと平綴じのどちらかになるけど、僕は中綴じで作ってる。中綴じにはそれ用のホチキス(ちゃんとした文具店に行くと置いてある)が必要になるけど、ページを重ねて2カ所ほどを留めるだけで本の形になるというのがお手軽でよい。この製本方法は高校の漫研の部誌を作る時に教わった。
高校の漫研の時には生徒会室の印刷機を使ってた。この印刷機はいわゆる「コピー機」ではなく「リソグラフ」というやつで、最初に「製版」してから、後はその版を使って大量に印刷する、という物だ。一度版を作れば後は大量に高速に刷れる。その代わり、同じ内容の印刷を何百枚→印刷済みの用紙を裏返してセットして裏面を印刷→次の原稿 というフローでしか印刷できないので、印刷が終わった後に手作業で各ページを組み合わせてやらないといけない。
ということで今までずっとこれと同じやり方でコピー本を作ってた。8円コピーかオフィスデポのセルフコピーで両面印刷して、終わった物を持ち帰り、ひたすら折り曲げ→各ページを組み合わせ→ホチキス留め→完成 という感じ。
でも「コピー機」って実はもっと便利な物だったんですね。今日初めて知った。リソグラフでは「製版」しないと印刷できないから上記のような作業フローにならざるを得ないんだけど、コピー機ではこの制限が実はなかった。リソグラフで言えば1枚印刷するごとに製版をやり直してるような物。なので、複数の原稿の図柄をメモリ上に蓄積させておき、それらを順番に出力するようにさえしておけば、「印刷が終わった段階でもう各用紙はページの順番通りに並んでいて、後はホチキスで留めるだけ」な状態にすることができる。上の作業フローのうち「各ページを組み合わせる」工程を省略できる。全然知らなかった。時代に取り残されすぎてた。
あと必要なのは「折り曲げ」と「ホチキス留め」の工程なんだけど、印刷中の待ち時間を使って「折り曲げ」まで済ませることができたので、後はもう「ホチキス留め」するだけで製本完了!という状態にまで持って行くことができた。コピー機すごい。今まで半日がかりで一生懸命手作業してたのは何だったんだと。
自分が行ける範囲には、オフィスデポが1件、個人経営っぽい小さなコピー屋が2件、Fedex Kinko'sが1件ある。コピー屋のうち1件はまだ1度も利用したことが無く、事前に聞いた話では27日から冬休みに入るということだったので、残念ながらここは使えない。もう1件の方も個人経営だし年末だし閉まってるんだろうなあ、と予想して、オフィスデポ→駄目なら(他の人がすでにコピー機を使ってるなら(そういえば前回はオフィスデポで印刷したけど、印刷中にどうやら同人の人っぽい女性二人組がやってきて、僕がコピー機使ってるのを見て帰って行った。2台あって1台は空いてたから使っていけば良かったのにね。隣で印刷してる人がBLでも僕は全然気にならんのですが。笑。))Kinko'sにしよう、でも一応コピー屋も見ておこう、という感じで最初にコピー屋に行ったら予想に反して開いてたのでここで印刷することにした。
このコピー屋はモノクロ片面あたり8円。オフィスデポだと確か9.45円、Kinko'sだと11円とかなので、ちょっとだけ安い。でもこの「ちょっとだけ」が地味に効いてくる。今回は20ページの本で、紙の両面使うから印刷面数は10面、部数は200部、だから仮に1枚あたりの値段が10円だったら全部で2万円かかる。これが、8円だったら16000円になる。その差4000円。プリンタのインクをCMYK4色買える値段だと思うと、なかなかすごい額だ。
この店は過去にも2度ほど利用したことがあったんだけど、印刷する本の内容が内容なので恥ずかしくて、あんまり店の人(おばちゃん)と話さなかった。3度目(多分)となるとさすがに慣れたので、今日はちょっとだけ気さくに話せた。ここのおばちゃんはエロ漫画の原稿を見ても「あらまあ(笑)」てな感じで動じない事が分かっていた(前に来た時に、同じような本を印刷してく人が他にもいるといっていたので、まあ、慣れてるんだろうねえ)ので、面付けまで終わった状態の原稿を見せて「こういう事がしたいんです」と。そしたら「こういうやり方があるよ」と教えてくれたのが、このエントリの前半に書いた「コピー機を使って中綴じ本の製本作業を圧倒的に楽にする方法」だった。オフィスデポだと恥ずかしくてとても「こういう事がしたいんです」とは言えないんだけど、この店はこぢんまりとしてるから気負わずに話しかけられた、それが功を奏した。多分オフィスデポの機械でも同じ事ができるとは思うんだけど、やり方を教えてもらわなければ気付けないままだっただろうなあ。
この店主さんにはコーヒーまでごちそうになってしまった。元々、この店は近くに大学があってそこの学生さんの利用が多いらしく、なじみの客が来たので「コーヒーでもどう? ついでにお兄ちゃん(僕)も」とついでに勧められただけなんだけど。
僕が店に行った時には近所のお婆ちゃんらしき人が雑談をしに来ていて、その横で僕はコピーが終わった物をひたすら折り曲げていたんだけど、その雑談に混ざる形で少しだけ話した。曰く、男は90になっても性欲が衰えないもんだねえ、あたしなんかもう全然興味もないよ、とか。プロになるの? いえいえあくまで趣味でやってるだけです……とか。大学のアニメ研究会の人も来るけどこんなに上手くないわよ、僕も大学の頃に漫研みたいな所にいましたけどみんながみんな上手いわけではなかったですね、とか。(本にすることを前提に漫画や絵を)描き始めたのは高校の頃からだから結構長いですね、とか。
そんな感じで、財布にも優しく、後の作業も大いに楽になるという、お得な買い物だった。でもそれに加えて、普通に雑談できたことが何より「お得」だったのかもと思う。剥き出しの悪意を向けられずに好意的に話せる、たったそれだけの事でとても気分が良くなった。こういうものもまた「金では買えない価値」なんだろうな。