たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。
以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
今住んでる物件、メインの居室は日当たりが良くて昼間は明るいんだけど、窓がない脱衣所は昼でも真っ暗になってしまって、「夜中の入浴中とかに停電になるとヤベーな」ということは前々から思っていました。それでも対策らしい対策は取らないまま放ったらかしていたのですが、今夏は電力需要に電力供給が追いつかない恐れがある、みたいなことになって、いよいよ何か手を打った方がいい気がしてきまして。
実のところ、今の物件に入居した時から、廊下のコンセント部分には「暗くなったら明るさの変化を検知して自動で点灯し、停電自にも電源断を検知して内蔵バッテリーでしばらく点灯する」非常用の足元灯が設置されていました。なので、同様の物を追加購入して他の部屋にも設置することにしました。
要求仕様は以下の通りです。
こういう条件で検索してみたところ、wasser 64という製品が要件を満たすようだったので、さっそく購入しました。3個もまとめ買いで。
で、届いた物を実際に設置してみたのですが、「ちょっと思ってたんと違う……」という感想で。
要するに、要求仕様は満たしてたんだけど、余計な機能がウザイのと、過剰な性能が常用時に辛い。でも3個も買っちゃったし……
というわけでハードウェアを物理的にハックして解決する事にしました。回路を加工するみたいな高度なやつじゃなく、もっと原始的なやり方ですが。
表現の自由と表現規制の話題の中でも、特に女性に関する表現の話題でよく出てくるキーワードに「性的に消費」という物があります。自分でも、何かと便利でこのフレーズを使いたくなってしまう場面は度々あるのですが、一方で、厳密な定義づけがないままで、解釈が人によって分かれるフワッとした言葉を自分に都合よく使う事への後ろめたさもありました。
そういうモヤりを抱えたままで、「月曜日のたわわ」の日経新聞全面広告の批判や擁護に関連した一連の発言の中でうっかりこのフレーズを使ったところ、「定義が曖昧な言葉を使う前にまず説明をするべきである」という趣旨の指摘を受けたため、本腰を入れて、このフレーズについての自分の認識を改めて整理し言語化してみようと思います。
「月曜日のたわわ」の日経新聞全面広告の批判や擁護に関連した一連の発言の中で、表現規制の一種であるレーティングやゾーニングを肯定する趣旨の事を書いたところ、「表現規制をすべきという根拠を示すべき」という趣旨の指摘を受けたため、自分の考えを整理するために、表現規制という物自体に対する自分のスタンスを振り返ってみました。
表現規制について改めて自分の考えを表明しますと、自分は、公権力で表現を規制するべしと強硬に主張はしないけれど、状況によっては一定の歯止めの必要性を支持する、というスタンスです。端的に言うと「表現規制を弱く肯定」(全否定ではない)です。
ですが、他の人が自分の言動を見た場合に、表現規制を強く全面的に支持する者と見なされても仕方の無い状況だということを、今更ですが改めて意識しました。
今後は、すでに他の人による批判・非難の言説を目にしたかどうかに関わらず、自分の信条的に批判するのが当然と思える言説に対しては、なるべく自分の言葉でも発言をするようにしようと思います。
(当初ここについてあまり触れてなかったけど、作品そのものについてあまり触れないまま枝葉のことばかりに言及するのもどうかと思ったので、ちゃんと書くことにしました)
「ルックバック」初見時の僕の感想は、「作品として面白く、感情を大きく揺さぶられ、印象深い」というものだった。
いわゆる漫符や流線といった漫画的表現の少ない抑え目な演出に、本作を読んでいて僕は、まるで個人の思い出の記憶を覗き見ているかのような印象を持った。そのためか、自分自身の思い出と藤野の視点を重ねてしまわずにはおれなかった。
僕自身は幼い頃、「漫画」という表現にはそこまで熱意は無かったけど、「絵」については「自分、上手い方じゃね?」という思いがあった。「絵を描きたいという衝動」よりも他者からの「上手いね」という承認目当てでやっていた部分が強かったので、もっと褒められたくて技術の向上を図ってみた事もありつつ、飽き性の面倒臭がりが災いして、技術的には高校生の頃くらいに成長が止まってしまったのだけど。(そうして、純粋に絵が好きでそちらの分野に進んだ人達からは置いてけぼりを食らい、さらには若手の絵描きの人に追い越されていく一方で、なのに何の因果か商業媒体でマンガの連載を持つことになり、劣等感と自尊心の狭間で、個人のこだわりと意地でみっともなく描き続けている自分は、藤野の超絶劣化版と言うのもおこがましい。)
藤野を見ていると、学校の中での自分の立ち位置も思い出された。小学校中頃くらいまではそれなりに一目置かれていた気がするけど、だんだんそれでは尊敬の対象にはならなくなっていって、そのうちに「ダサいオタクの趣味」と蔑みの視線を感じるようになって。高校で漫画やイラストレーションを愛好する人達の部活に所属して、Webという「学校外の世界」でも遠く離れた土地に住む人と友人関係ができたときの自分の気持ちは、帰り道で踊り出した時の藤野ほどではないにせよ、とても嬉しいものだった。
そんな風に社会のメインストリームからの微妙な疎外感を感じながら育ってきた僕は、「劇的な出会い、長年の切磋琢磨。その後、ライバルから尊敬されていたと知って、孤独が一転して歓喜となり、学校外でかけがえのないパートナーとして関係を築いていく」藤野と京本のあり方に、「自分もこういう青春がしたかった」と憧れてしまった。「こんな情熱を持って生きたかった」と思ってしまった。
その後の別れ、事件、そこからの立ち直り。ネタバレしたくないのであまり詳しくは書けないけど。
「人は、行動することで他者に影響を与える」
「その影響は、いいものかもしれないし、悪いものかもしれない。想定もしていなかった影響の与え方をして、自分の信念に迷うこともあるかもしれない」
「でも、そうして影響を与えて、与えられて、人は生きていくものだ」
「とにかく、やるんだよ」
表現をする者、何かをなして生きていきたい者、その過程で自分のしていることの意義に悩んでいる者・悩んだ事のある者にとって、「それでも、やるんだよ」と背中を蹴っ飛ばすようなメッセージが込められた作品だと感じた。
本作が発表された時、漫画家の人の絶讃の声を多く見かけたけれど、それは「漫画家の漫画だから」という事以上に、表現に関わる人に共通の思いに訴えかける物だったからなんじゃないかと思う。「本作が心に響く人と、まったく響かない人がいる」というのは、そういうことなんじゃないかと。
表現媒体を問わず、何かを作ることに関わっていて、人に与える影響(あるいは反響の無さ)に迷いを感じている人には、是非読んでもらいたい一作だと思う。
そのような感想を持ったと同時に、僕は後半の事件に関する、特に幻聴を示唆する描写を見て、統合失調症などの精神疾患への偏見や差別を助長しうる表現と感じて、その部分についてだけは眉をひそめたくなった。全体としては素晴らしい作品だと思えたのに、この一点だけがシーツに付いた染みのように感じられた。
まず、時系列に沿って、起こった事を書く。
僕は当初、事件の描写について、眉はひそめつつも言及はしなかったけれど、この点について批判的にクローズアップした記事や、それに言及する発言を観測し始めるにつれて、表現に関わる者の端くれとして忸怩たるものを感じた。この点の責任は作者ではなく、その表現の問題点をスルーした編集部にあると僕は考えていたので、その後起こった批判や、批判への批判を見ていて、こういうことが起こらないように、表現内容に危ない部分があればカバーして作者も読者も最大限守るのが編集部の役割だろうに、一体何をしていたんだ、組織として努力を怠っていたんじゃないのか、と憤りを感じた。
最近になってVTuber「兎田ぺこら」の配信アーカイブ視聴にはまってる、それはどうやら自分がそこに、平成期のバラエティ番組の体当たりノリを感じているからのようだ、という話。
以前からYouTuberもVTuberも認識はしてたんだけど、10分前後の長さに編集された企画動画のノリの合わなさや、美少女アバターな配信と近接している地下アイドル関係ビジネスそのものに持つネガティブなイメージから、ずいぶん長いこと、半分無意識的・半分意図的に距離を取ってた。やれ迷惑系YouTuberが逮捕されただの、やれ運営の都合でVTuberの「中の人」が増やされただの、やれ中国向け配信で台湾問題に触れて炎上しただのと、マスメディアを通じて間接的に入ってくるのはもっぱらネガティブなニュースだったし。
ただ、その一方で、YouTuberやVTuberをテーマにしたマンガが増えてきたり、知ってるITエンジニアがいつの間にかバ美肉してたり、自分も筋トレやヨガのトレーナーのYouTuberの動画を実用目的で見る機会ができたり(動画に合わせて筋トレをやる、みたいなジャンルがあると妻に教わった)、あるいは、Twitterのタイムライン上にVTuberを描いたイラストが度々流れてきたりして、自分の生活にも少しずつYouTuberやVTuberの存在は侵入してきていた。
僕がVTuber「兎田ぺこら」を認識したのは、そういうイラストを通じてだった。白を基調としつつ暖色の差し色もあるという、カラフルでファンシーな衣装デザインでありながら、実はコートの下は黒タイツのバニーガール(バニーガールというと正統派デザインは網タイツだけど、僕はこの組み合わせの方が好き)、というギャップが良くて、純粋にキャラクターデザインの好みだけで、流れてくるファンアートをありがたく眺めてた。
そんな折、その兎田ぺこらのfigma(Web業界で最近使われてるらしいデザインツールのFigmaではなく、可動フィギュアの方)が予約開始された、という告知が流れてきた。相変わらずキャラの詳細は把握してないけど、見た目が好みだし買ってみてもいいかな、と思って商品紹介を見ていると、ロケットランチャーとサングラスが「おなじみのアイテム」扱いで付属すると書かれていて、想像のつかなさに一気に混乱した。商品をカートに入れつつ、どうせならもっとちゃんとキャラを把握しておこうと思って、付属物の背景を知るために「兎田ぺこら ロケットランチャー」で動画を検索したのが、沼に足を踏み入れた発端だった。
昨年のイベントのトークセッションで漫画の制作環境を紹介した時、こんな感じの環境ですという写真を出した。
ディスプレイ3つというと豪勢に聞こえるけど、左のサブはD-Sub 15pin接続の17インチ1280×1024(妻が独身時代から使っていた物を、不要になったとのことで譲ってもらった)、右のメインはDVI-I接続の17インチ1280×1024(16年前に買ったEIZOのFlexScan)で、どちらも年代物。ある物は駄目になるまで使う勿体ない精神で、ずっと使い続けてきてた。
レッドブルが くたばれ、正論。
というコピーで新成人向けの広告を打った、という話を見かけた。
この世の行き過ぎた正しさが、君の美しいカドを丸く削ろうとする
といった文からは、いわゆるポリコレ疲れ、左翼・リベラル的な言説への反動、のような雰囲気を感じる。若者を抑圧してくるそういった物に抵抗しよう、というメッセージのように感じられた。
広告が意図する所は一応理解できてると思う。挑戦はした方がいいし、うるさく言って足を引っ張ってくる年寄り連中の言うことを真に受けて萎縮しない方がいい。そこの所に異論はない。
だけど、このコピーに、僕は真っ先に違和感を覚えた。
僕は今38歳で、新成人だった頃から遠く離れた所に来てしまったのだけれど、自分が新成人やそれより若かった頃を思い返すと、「弱い立場から正論を武器に抗弁したが、正論が通らなくて煮え湯を飲まされた」経験の方が記憶に強く残ってる。
融通が利かなくて、弱い立場のこちらに対して抑圧を押しつけてくる物は、僕にとっては「筋の通った正論」ではなくて「筋の通らない因習・慣習」だった(と感じられた)ように記憶してるから。
こんな感じだった気がしてる。
レッドブルの広告に書かれた「正論」という言葉からイメージされる抑圧は、
こういう感じなのかなと思った。実際、そういう場面は自分でも体験したことがあるし。
また、正論を武器にしていた左翼かぶれの知識人達が、かつては被抑圧者だったとしても、今では抑圧者の側になっているケースも、多々あると思う。
ただ、(これは、この広告のメッセージそのものというよりも、この広告のような言葉の選び方がごく自然に出てくる発想や、受け入れられてしまう風潮に対しての意見なのだけれど、)「正論」というものを権力と同一視して、抵抗者は権力とともに正論もを否定せよというのは、僕には、知的には後退してると思える。
正論は誰でも手に入れられる武器なのに、それをわざわざ忌むべき物と位置付けるのは(ともすれば、手放すことを奨励しているとも取れるメッセージを発するのは)、自分で自分の首を絞めてると思える。
僕としては、抵抗者には常に、正論を武器にしていてもらいたい感覚がある。
納得できない部分があれば、頑張って言語化して論理立てて正論で主張して欲しいし、
権力側が主張する、一見すると正論に見える言葉の中に巧妙に隠蔽された詭弁を明らかにして、その正論じみた言説の正論でなさを暴くようにして欲しい。
腐敗した古い正論を、より洗練された正論で打ち崩して欲しい、と思う。
今抑圧してきてる者達が、僕みたいなおっさんが、「正論」という建前で言ってる諸々のことの内容を嫌いでも、それは構わないので、ただ、「正論を立てて主張する」という枠組み自体まで否定しないで欲しい。
(……と、アイドルグループを卒業した人のような事を言ってる時点で、この枠組み自体が見捨てられる風潮はもう止まらないのだろうな、という気もひしひしとするけど……)
コーディングスタイルを統一して読みやすい状態を保ち、変数や関数の名前付けは意味を取りやすい物にし、変数の再代入は可能な限り避けて、静的な型を使って静的解析を可能にし、モジュールは適切な粒度と凝集度を意識して設計し、自動テストも書いて、コミットごとにCIを回して。
Gitのコミットは、変更の意味を掴める単位に分割して行い、コミットメッセージは変更の意図が分かるように書き、複数人での開発ではマージコミットがなるべく発生しないようrebase
を使うようにして。
サーバーの構築・運用は、sshで入って手作業で操作するのではなく、Ansibleなどのプロビジョニング用の仕組みを使って静的な設定ファイルから環境を自動構築できるようにして。
……といった諸々のことは、決して最先端の人だけがやることでも、単なる一過性のトレンドでもなく、あらゆる現場で通用する(現時点での)ベストプラクティスと呼べる知見・姿勢だと僕は思ってる。実際、t_wadaさんによる主に自動テストにフォーカスを当てた「質とスピード」という発表の資料(2020秋版)で語られている所によれば、開発期間が1ヵ月を超える規模になったら、保守性を高く保つ真っ当なエンジニアリングを実践した方が、開発速度の面でも有利となり、ビジネス的にも合理的と言えるのだそうだ。
そういう「真っ当なエンジニアリング」について、少なくともWeb上に生息しているITエンジニアの、特に「開発に関わる者」という属性を持つ人の間では、「やってる方が不合理だと感じる」よりは、「やってないことに負い目を感じる」人の方が多そうな印象がある。
それと比べると、ヴィーガンを自称する、動物性タンパク質を排して植物だけ食べるという思想? 運動? をやってる人達に対する、「食べる事に関わる者」「生活する事に関わる者」という属性を持つ人(つまり自分も含めた全員)からの見方は、「やってないことに負い目を感じる」人よりは「やってる方が不合理だと感じる」人の方が多いような印象がある。
というか、自分自身がそうで、正直「はぁ~、えらいどうでもええことに命かけてはりますねんなぁ~、僕ぁよう真似しまへんわ~、まあせいぜい頑張らはったらええんちゃいますか~」くらいに思ってる。思ってた。
だいたい、身近にヴィーガンがいない状態で生活しててヴィーガンを観測する場面というと、肉バルにわざわざ行って菜食のみのメニューをくれと要求するだとか、畜舎を破壊して家畜を逃がすとかの、狂信者とかテロリストじみた厄介者として観測される場合が多いので、いい印象を持ちようがないのも当たり前だと思う。
しかし、Twitterで別の目的でフォローした人がたまたまヴィーガンをやっていて、特に誰かに噛み付くでもなく、ヴィーガンテロを称賛するでもなく、ただ自身の生活の一環としてヴィーガン食の紹介だけをしている様子をしばらく観測しているうちに、どうも、ヴィーガンを自称する人の全員が全員狂信的テロリストというわけでもないようだ、と思うようになってきた。
確かに、理性的に考えれば、マクドナルドがヴィーガン向けメニューを発売したなんてニュースが聞かれるということは、巨大チェーンでわざわざメニューを設けて収益を伸ばせると目算が付く程度には、(現時点で、あるいは将来的に)需要が見込めるということで、顧客層の中にフツーに一定割合ヴィーガンがいる、ということの表れと見なしていいのだろう。テロリストと見なされて排除されるどころか、有望な顧客層として歓迎される程度に、社会と軋轢を起こすことなく普通に生活しているヴィーガンがそれなりの数いる、ということなのだろう。
1ヵ月ほど前の話になりますが、11月6日に行われたCROSS Party 2020という(オンライン)イベントにおいて、「90分、ITマンガ家に学ぶ技術の伝え方〜これであなたもマンガ家になれるかも?〜」というタイトルの枠で、わかばちゃんと学ぶシリーズの湊川あいさん、インフラ女子の日常のなつよさん、モデレータのゆうこりんさんとご一緒させて頂きました。丸一日のイベントを取り仕切られた運営の皆様、たいへんお疲れ様でした!
当日の様子はセッションの配信内容のYouTube Liveアーカイブ(の4:42:15頃から90分)でフルでご覧頂けます。
ちなみに、この時間の直前の枠はotsune氏を含むお三方による、SNSでの炎上をテーマとしたパネルトークでした(アーカイブを90分ほど巻き戻すとその様子を見れます)。自分のセッションの準備のために途中までしか見られなかったので、後で見ようと思っていたものの、まだ見られていません。
リアルタイムでご覧になられた方の感想も拝読しております。皆さま、長時間お付き合い頂きありがとうございます!
元々はゆうこりんさん→湊川さん→僕 と話が回ってきて、さらに以前から交流があってお声がけしやすかったなつよさんが加わって、この面子になりました。「ITでマンガ」というと他にも有名な方がたくさんおられるので、次回以降また人が入れ替わって開催されると面白そうだなあ、と思っています。
話が回ってきた時点ではセッションの趣旨はまだ決まっておらず、異なる立場を代表する話者でのパネルディスカッション(議論)にするのか、議論形式でなく座談会のようにするのか、などのことを打ち合わせで喧々諤々した結果、イベントの視聴者層がITエンジニアであること、3人とも現役ITエンジニア業をしながらマンガを描いていること、イベント自体のテーマが「明日の自分を今日変える」であることを踏まえて、「セッションを見た人に、マンガを描くノウハウや、技術を絵で解説するノウハウを紹介して、自分もITでマンガをやってみようとか、普段の仕事に取り入れてみようとかの気持ちを持ち帰ってもらおう」という方向のパネルトークセッションになりました。各人がそれぞれの「マンガの描き方」「技術の話をマンガに持って行くまでの流れ」を語っているので、まだ誰もマンガで描いていない分野に皆さんが切り込んでいく上での参考になるのではないかと思います。なるといいなあ。
僕以外の登壇者お三方は皆アバター登壇で、僕だけ顔出しだったのですが、これは僕がLive2Dとかの技術についてけてないロートルおじさんだからです。白壁の前に移動して3000円くらいのLEDリングライトで顔を照らすという、アナログ極まりない方法で登壇しています。美容院の予約が間に合わず、半年くらい伸ばしっぱなしの髪のまま出ましたが、その2日後にバッサリ切ったので、今はだいぶ短くなっています。
タイムテーブルに「懇親会」とあったのですが、オンラインでどうやるんだ?と思っていたら、Zoomのビデオチャットに全員一斉参加した後、ランダムに複数人ずつブレイクアウトルームに割り振られて、ルーム間の移動は各自に任せる、という形になっていました。この形態は、同じルームの人と話す分にはいいのですが、
という難があり、やはりオフラインで行われる懇親会とは質が異なっていて完全な代替にはならないな、と感じました。僕と同じルームになってしまわれた人は、僕のヨッパライ独演会に付き合わされた形になってしまったのではないかと思います。
オンラインでのイベント参加は、自分はこれの他にはOSS GateワークショップでDiscordのボイスチャット・ビデオチャットを使ったことがありますが、上記の問題は共通しているように思いました。オンラインイベントには「廊下」が無いという声を何度か観測していますが、「廊下」の方で話されている話題に混ざりたくても(共通の「廊下」が無いためにその存在を把握できず)混ざれない、というのも似た問題のように感じています。「他のルーム」や「廊下」で話されている内容がリアルタイムに文字起こしされて流れるテキストチャンネルでもあれば少しはマシになるのではないか、という気がするのですが、誰かやってくれませんかね……
アツギ社が「タイツの日」に合わせて行った「ラブタイツ」キャンペーンが、各方面から批判されて中止になった件について、批判側に立っていた人の一人として書いてみます。
なお、アツギ社による公式の謝罪が既に出ていますので、このエントリはこれ以上の批判・非難を意図しません。自分がこの企画の何をどのように問題だと考えたかの自己分析・記録・説明と、表現に関わるあらゆる人が似たような事を繰り返さないための判断材料の提供を意図しています。