たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。
以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
ゲームセンターのプリクラコーナーではずいぶん昔から、女性客だけで楽しくやっている所に男性客が割り込んでナンパや迷惑行為をすることが問題となっていて、「プリクラコーナーは女性専用」「男性のみのグループは利用禁止」という感じの対応を取っている店舗が多いそう。自分も、友人達と盛り上がった後に「記念にプリクラ撮ろう!」となってゲーセンに行ったらそういう注意書きがあって、幸い女性参加者がいたため事なきを得た、ということや、男性だけのグループで「あーこのグループじゃ入れないな」と諦めた、ということがあった。そのような店舗の対応が「差別」だ、みたいな話題がちょっと前にXで盛り上がっていたらしい。
それで見かけたこちらの投稿。
俺はそもそも「差別」そのものを絶対悪にするのは無理があると思っているので、別に理由があるならプリクラに男だけの利用を禁止するのも仕方ないしそう決めた店側を簡単に悪とは言わないが、せめて「差別である」という心づもりではいてほしいんだよな
— 荒ぶる小学生いがらっしー (@takamura804) March 2, 2025
読んで、僕が色々なことについて差別とか差別性とかを述べる時の感覚に一部近い物を勝手に感じて、色々思ったことを今の自分なりに言葉にしたので、Xで垂れ流した物を編集しながらこちらにまとめてみる。
Xに書いた事のまとめ・増補版。
「マイクロアグレッション」に関する香川県の啓発ポスターについての、労ったり褒めたりしてもダメとかどうしたらいいんだよ どうせ触れなかったら「配慮が足りない!」とか言うくせに
というコメントを見かけた。
マイクロアグレッションとは、発話者当人に差別の自覚はなく、ともすれば言われた側にも「差別された」といった明確な被害意識はなかったりすらするけれど、言われた側はなんとなく釈然とせずモヤる、という類の「日常の中にある、社会的・歴史的に見て差別性がうっすらある言い方や接し方」のことだ。という理解の仕方を僕はしている。
これまでも度々書いてると思うけど、僕はこの種の「誉め言葉と思って言ったのに、マイクロアグレッションだと言われる」類の指摘に「どないせえちゅうねん」と途方に暮れる側の一人だった。
正直に言えば、「こっちはこれだけ気をつけてるつもりなのに、これ以上を要求されるなんて、なんてめんどくさい!」という感覚はあったと思う。
先のコメントをした人が僕と同じ戸惑いを感じているのかどうかは分からないけど、僕は、「よかれと思って言った言葉で泣かれ、その相手との縁を絶対切られたくなかったので本気で反省する」というクソダサ経験をするまで、心の底では「よかれと思って言うたのに、何が悪いねん」という自己正当化の思いを捨てきれていなかったな、と今から当時を省みて思う。
反発心がなくならない間は、僕は、理屈では分かったつもりでも本心では腑に落ちてなかったのだと思う。
当時の僕に、人を泣かせずにその事を理解させ得ただろうか? なんとなく、無理そうな気がする。そのくらい、パラダイムの大きな転換を要する事だったように思う。
エッセイ漫画家さん、過去1番共感できない漫画を描いて炎上する【ぬこー様ちゃん】というまとめを見た。人から金を借りて、返す段になって「返したくねーなー」「うわっこいつ(※貸主)、何も言わず受け取るんかよ(※当然です)」と感じる、という件の作者に対して、 「クズ」「最低」等々非難の嵐となっている様子がまとめられたものだ。
まとめられた反応は散々だけど、自分はこの「作者の気持ち」が分かる方だ。
相手を舐めている、世界のすべては自分のためにあると思っている、自分をもてなさない相手に出会うと不機嫌になる……そういうタイプ。
言語化すると「なんて傲慢なんだろう」と思えるのだけど、自分自身ではそれを「当たり前」と思っているから、特段「悪意」があるわけでもない。
悪意も自覚もなしにこう考える人間がいるのだと、我が事として実感しているから、僕は今は他者の善意や返報性に期待しすぎずにいられてるんだと思う。
僕という人間は、ハードウェア的にはそういうクズで、ソフトウェアエミュレーションで社会性を保っている。という自己認識でいる。
むしろ、自分がそうだから「クズに見える人も、やりよう次第で社会的に振る舞えるようになれて、社会の中で問題を起こさず共存できるのだ」と信じられているのだと思う。
「まんがでわかるLinux シス管系女子」1巻と2巻前半にあたる部分を収録した増補改訂新装版の「ITエンジニア1年生のための まんがでわかるLinux」について、後書きでは少し触れてたんだけど、恐らく旧版読者だと思われる方の 「時勢に合わせた感じなのかなあ」というコメントを見かけたので、改めて書き記しておきます。
端的に言うと、これは作者の自分から改題を申し出ました。
「なぜ自発的にOSSやってるの?」という問いへの答えは十人十色だと思うけど、自分の場合は「ヴィジランティズム」が一番大きいんだと思う。
この「他人が言ってた悪口を本人に伝えない」「それを伝えてくる子を信頼しない」が良いとされるのがピンとこない方だった(悪意で不和をばら撒く人扱いされたくもないので、今はしないようにしてる)のだけど、反応の中に自分と同類と思しき人が何人かおられて、変な話だけどちょっとほっとしてる。 https://t.co/U6MRgCtASA
— Piro🎉"シス管系女子"シリーズ累計5万部突破!!🎉 (@piro_or) May 9, 2023
いわゆる告げ口について、受け取った側が取るべき態度・行動について僕は、
と考えてる。
世の中には嘘でも何でもついて相手(僕)の感情や行動をコントロールして自分(相手自身)の利益を最大化しようとする人がいるし、そういう利己的な動機でなく純粋に利他的な善意でなされた告げ口だったとしても、告げ口をした人の主観というフィルターを通したことで情報が変質してしまっている恐れがある。
全く同じ事がマスメディアを通じて届く情報にも言える。 僕への告げ口は、僕個人を狙って届けられる情報だけれど、マスメディアから届く情報も、「自媒体の読者・視聴者の傾向に合った、受け手に喜ばれる(そして自媒体の利益の最大化に繋がる)情報」という観点では、狙い撃ちで放たれた情報と言えるので。
いずれにしても、自分の元に向こうから飛び込んできた情報は(もっと言えば、自分が飛びつきそうな位置にぶら下げられていた情報や、自分がちょっと背伸びしたら届きそうな所に元からあった・アクセスしやすい情報というのも)、鵜呑みにするにはリスクがあると言える。 なるべく一次情報にあたるようにし、正確な事実関係を把握するまで態度を保留する我慢強さを持つ必要がある、と今は考えてる。
――というのは情報を受け取る側の話で、いま考えてるのは情報を送り出す側の話。 告げ口する側のことについてだ。
今住んでる物件、メインの居室は日当たりが良くて昼間は明るいんだけど、窓がない脱衣所は昼でも真っ暗になってしまって、「夜中の入浴中とかに停電になるとヤベーな」ということは前々から思っていました。それでも対策らしい対策は取らないまま放ったらかしていたのですが、今夏は電力需要に電力供給が追いつかない恐れがある、みたいなことになって、いよいよ何か手を打った方がいい気がしてきまして。
実のところ、今の物件に入居した時から、廊下のコンセント部分には「暗くなったら明るさの変化を検知して自動で点灯し、停電自にも電源断を検知して内蔵バッテリーでしばらく点灯する」非常用の足元灯が設置されていました。なので、同様の物を追加購入して他の部屋にも設置することにしました。
要求仕様は以下の通りです。
こういう条件で検索してみたところ、wasser 64という製品が要件を満たすようだったので、さっそく購入しました。3個もまとめ買いで。
で、届いた物を実際に設置してみたのですが、「ちょっと思ってたんと違う……」という感想で。
要するに、要求仕様は満たしてたんだけど、余計な機能がウザイのと、過剰な性能が常用時に辛い。でも3個も買っちゃったし……
というわけでハードウェアを物理的にハックして解決する事にしました。回路を加工するみたいな高度なやつじゃなく、もっと原始的なやり方ですが。
表現の自由と表現規制の話題の中でも、特に女性に関する表現の話題でよく出てくるキーワードに「性的に消費」という物があります。自分でも、何かと便利でこのフレーズを使いたくなってしまう場面は度々あるのですが、一方で、厳密な定義づけがないままで、解釈が人によって分かれるフワッとした言葉を自分に都合よく使う事への後ろめたさもありました。
そういうモヤりを抱えたままで、「月曜日のたわわ」の日経新聞全面広告の批判や擁護に関連した一連の発言の中でうっかりこのフレーズを使ったところ、「定義が曖昧な言葉を使う前にまず説明をするべきである」という趣旨の指摘を受けたため、本腰を入れて、このフレーズについての自分の認識を改めて整理し言語化してみようと思います。
「月曜日のたわわ」の日経新聞全面広告の批判や擁護に関連した一連の発言の中で、表現規制の一種であるレーティングやゾーニングを肯定する趣旨の事を書いたところ、「表現規制をすべきという根拠を示すべき」という趣旨の指摘を受けたため、自分の考えを整理するために、表現規制という物自体に対する自分のスタンスを振り返ってみました。
表現規制について改めて自分の考えを表明しますと、自分は、公権力で表現を規制するべしと強硬に主張はしないけれど、状況によっては一定の歯止めの必要性を支持する、というスタンスです。端的に言うと「表現規制を弱く肯定」(全否定ではない)です。
ですが、他の人が自分の言動を見た場合に、表現規制を強く全面的に支持する者と見なされても仕方の無い状況だということを、今更ですが改めて意識しました。
今後は、すでに他の人による批判・非難の言説を目にしたかどうかに関わらず、自分の信条的に批判するのが当然と思える言説に対しては、なるべく自分の言葉でも発言をするようにしようと思います。