Mar 07, 2025

誰かがしていることを「差別」と呼んだり、自分のしている・していたことを「差別」と言ったりすることについて

ゲームセンターのプリクラコーナーではずいぶん昔から、女性客だけで楽しくやっている所に男性客が割り込んでナンパや迷惑行為をすることが問題となっていて、「プリクラコーナーは女性専用」「男性のみのグループは利用禁止」という感じの対応を取っている店舗が多いそう。自分も、友人達と盛り上がった後に「記念にプリクラ撮ろう!」となってゲーセンに行ったらそういう注意書きがあって、幸い女性参加者がいたため事なきを得た、ということや、男性だけのグループで「あーこのグループじゃ入れないな」と諦めた、ということがあった。そのような店舗の対応が「差別」だ、みたいな話題がちょっと前にXで盛り上がっていたらしい。

それで見かけたこちらの投稿。

読んで、僕が色々なことについて差別とか差別性とかを述べる時の感覚に一部近い物を勝手に感じて、色々思ったことを今の自分なりに言葉にしたので、Xで垂れ流した物を編集しながらこちらにまとめてみる。

差別は誰もがしている

そもそもの話、「差別」を「極悪人だけが意図的にする非人道的行為で、真人間ならするはずがないもの」と思うよりは、「誰もが意識・無意識問わずしうる、しているもの」と思っていた方が、指摘されたときに過剰な防衛反応で無理筋の正当化に走らなくていいんじゃないか、と僕は思っている。

善意であろうが悪意であろうが外形的に一定の条件に当てはまる行為は「差別」と呼んで差し支えないし、「差別だ」という事実は「悪意がある」ことを必ずしも意味しない、と僕は考えている。
これは無根拠にそう言っているわけではなく、例えば大辞泉でも、語の説明に「悪意で」のような但し書きはない。
非難のニュアンスを込めて言い換えるとしたら、「怠惰」あたりが自分の認識では近い所にあるかもしれない。

で、自分が怠惰でないとは僕も全く言えない。表現の差別性とか社会における少数派への差別とかについて日頃ああだこうだ言っている僕自身も、差別的な表現を無自覚にしていたし、現在進行形でしている。

例えば直近では、女装強要のパワハラのニュース(「先輩から女装強要などされPTSDに」 陸自隊員、公務災害を申請 [宮城県]:朝日新聞)を見て、異性装そのものをおもしろおかしいものとして無自覚に扱っていた、異性装をする人を差別する表現をしていた、と気付かされ反省した例があった。
(画像:JK姿のジェイソン・ステイサム、厚切りジェイソン、13日の金曜日のジェイソンが、JK姿の利奈みんとの後ろにいる様子)
(画像:JK姿の利奈みんと(+jqコマンドを擬人化したキャラクタ-)だけがいる様子)
これは「ITエンジニア1年生のためのまんがでわかるLinux」作中で、JSON(ジェイソン)を紹介する場面でギャグとして色々な「ジェイソン」を登場させた後、さらにその後で「jqコマンドでpretty print(整形出力)すること」を紹介する場面で「JKでプリティー」と聞き間違えて、先に描いたジェイソン達も一緒にJK姿になる、というネタにしていたもの。ペン入れまでは進んでいたのだけれど、ニュースを見た後では、どう言い繕っても「異性装すること自体を面白がっている」部分があるのは否定できないと感じたため、最終的な画面からはJK姿の「ジェイソン」達は省く事に決めた。
「異性装を面白がる人を批評的に描く」「異性装を強要された被害者を救う/強要した加害者を非難する」「自身の好みのファッションとしてしている」「変装のためにしている」「何らかの因習でしている」といった、シチュエーション上の必然性のある文脈であれば異性装を描くことに問題は無いと考えるけど、そういった場合でも、ギャグのニュアンスを込めないようにしなくてはならないと今は思う。

別の例では、Tree Style Tabアドオンで、アラビア語など書字方向が右から左の言語圏の利用者全員を無意識に冷遇していた、というのもあった。
寄せられた障害報告・改善要望の中に、RTLの言語でのレイアウトの改善を求めるものがあり、最初はユーザースタイルシートでの回避方法を案内したのだけれど、RTLの言語の人がそれを母語にする文化圏に生まれたのは本人の責任の及ぶ所ではなく、これはRTLの言語の人達への差別にあたるのではないかと思えてきて、TST側で対応するようにだいぶ頑張った。
(画像:アラビア語版Firefoxにおいて、TSTのツリーが左右反転して表示されている様子)
この改修を通じて僕は、left/rightという物理的な方向に依らない論理的な方向を指示するCSSプロパティが今はたくさん定義されていることを知った(時代は知らない間に前に進んでいた……)。

こういうレベルのことでいうと、僕の漫画にもソフトウェアにも「差別」はまだまだたくさんあると言える。把握・自覚した上で、リソース不足でできないからと放置している物もある。
例えば「ITエンジニア1年生のためのまんがでわかるLinux」では、男性の若手のキャラがあまり登場しないし、美形でないキャラもあまり登場しない。シチュエーション的に2人の会話劇くらいにおさまるから人が多くは出てこない、という構造的な理由はあるし、美形の方が描きやすいし描いてて楽しいなど厳しい制作状況の中でのモチベーション維持のためという理由もあってなのだけれど、それを「美形しか画面に映す価値が無いとする差別だ、限られたキャラクターの中に不美人を入れていないことからそれは明確だ」と言われれば、言い訳のしようは無い。

差別との戦いというのは、必ずしも大仰なものではなく、自分のしている・関わっていることにも意識を向けて、自分のできる範囲ででも色々と改めていくということだ、と思ってる。
ゲーセンのプリクラコーナーも、男性のみでも利用可能な機械を離れたエリアに設置するなど、「女性客を迷惑な男性客から守る」と「男性のみでのグループもプリクラを撮れるようにする」という2つの課題の解決を両立させることを試みた(ている)店舗は実際にあると聞いた。
差別は身近な所にあって、その中には、工夫次第で解消や軽減ができるものもあるはず。僕はそう考えている。

「差別」と捉えることが改善の動機になるのではないか、という仮説

僕自身が「差別」というものを、やるひとの善意・悪意から切り離して考えているとはいっても、一般的には「差別は極悪人が悪意を以てするものだ、善良な自分は差別なんてしない」と思っている人はまだまだ多いだろうとも思っていて、そういう状況下で「それは差別ですね」と指摘すると、言われた側は相当にギョッとするだろう(し、場合によっては苛烈な防衛反応を示すこともあるだろう)とは思う。

ただ、そういう忌避感が改善の動機に繋がるのではないかとも僕は思っている。

例えば、現代のソフトウェア開発の一部業界には、「自動テストが無いコードはすべてレガシーコードだ」という言い方がある。 レガシーコードと言われるものをみんなが忌避している状況で、「君が今書いているコードもレガシーコードだぞ?」とギョッとするような言い方をすることで、自動テストを書くことが業界の当たり前になっていく、というような思惑で言われている言葉なんだと僕は思っている。
(そうして「テストの実行を当たり前に行えたほうがよい、そうあるべき」という風潮が作られなければ、多くの人が「テスト? やりたい人が頑張って手元で実行すればいいだろ」で終わってしまって、例えばCIという仕組みも作られなかったのではないか? と思っている。)
実際には、ソフトウェアの種類によってはテストの自動化が極めて困難な場合というのはままあるし、「とにかく自動テストすること」だけをゴールにしてしまうと、設計が歪んでメンテナンスしにくいだけのコードになってしまうこともある。だから、無いに越したことはないけど今ある物は無くしきれないこともある、せめて新規にやるなら無しにしていきたい、とか、それくらいの温度感で考えておくのがいいだろう、と今の僕は捉えている。

僕が「差別だ」「差別を解消しよう」みたいな言い方をするのには、それに似ている部分がある気がしている。

もっと穏当な言い方をするなら「配慮しよう」みたいな言い方もあるのだけれど、僕はこの文脈では「配慮」というワードをあまり使いたくない。というのも、辞書で引くと「心配り」とか「心遣い」とかの説明になっていて、そういう「あれば嬉しい特別なサービス」であるうちは「当たり前でないこと、一部の人がものすごく頑張ってやればいいこと、仕組み化する必要がないこと」と捉えられてしまう気がするからだ。

「差別」というワードが一般的に「善良な人にとっては自分がするこはあり得ないこと、悪意ある人が意地悪ですること、特別なこと」と捉えられているうちは、「自分が差別をしてしまったときに備えてリカバリー方法を身につける」とか「差別にならない振る舞いを当たり前のこととして身につける」といったことをする動機が生まれないのではないか。
むしろ「差別なんかしてません、これは差別じゃありません、だから当然のことなんです」と言い逃れして正当化する動機の方が生まれやすくなるのではないか。
それで、他人がすることを差別と批判するだけでなく、自分がしていることにも積極的に差別というワードを使って、「そこからのリカバリーは不可能ではないんだ、否認や正当化や土下座謝罪以外の選択肢があるんだ」という実例を示したい、という動機があって、僕は自分のしていることや作った物のなかにも「差別」を見出して、折に触れ自ら説明しているのだと思う。

潔癖症だ、行き着く先はパイの奪い合いだ、という反論

そのようなことを書いたところ、「誰もがそうできるわけではない」「差別解消のための配慮にはリソースが必要だ、そのリソースを誰が負担するのかを考えないまま言うのは綺麗事だ」「そういうことを誰もが野放図に言いだせば、パイの奪い合いが激化するだけだ」「そういうことも考えずに何でもかんでも差別呼ばわりして解消を求めるのは、潔癖症だ」という感じの趣旨と受け取れる指摘を頂いた。

集団のリソースが不足している時に、何らかの基準で「あちら」と「こちら」を分けた結果、十分な分け前を得られない「あちら」の構成員が出てくるのは、少なくとも一時的には避けられないとは僕も思う。
しかし、特定の人達だけがずっと、当人達の責任の及ばない理由で「あちら」に選り分けられることが固定化していたら、それは「差別」と言える。
(例えば今の日本社会だと、いわゆる「氷河期世代」は、そういう意味で被差別者としての被害意識を強く持っているように僕には思える。)
その固定化を良しとしてしまうと、自分自身もいつどんなカテゴリー分けを理由に「あちら」側にずっと留め置かれるか分かったものではない。それでは自分が安心して生きられない。莫大な資産があって強引にずっと「こちら」に居続けられるならいいけれど、自分にはそこまでの資産は無い。
なので、再分配の絶え間ない調整や、リソースそのものの拡大を、自分は社会の一員としてしていかなくてはいけないし、個人相手でなく社会に求めていかざるを得ない。
(自分は、それを可能にするのが「技術」だと信じている。例えば、CIによって個々の開発者がテスト実行の工数から解放され、その工数を別の事に使えるようになったら、実質的にリソースが増えたことになる。食洗機や洗濯乾燥機やロボット掃除機に家事を任せられれば、他のことに使える時間的リソースが増えたことになる。)
そして、そういうスタンスの人が多いほうが自分はありがたいので、そういうスタンスの人が増えることにつながるようなことをしたい。実際できているかどうかについては、「お前がそんな潔癖症丸出しの喧嘩腰だから逆にヘイト買ってるだろうがよ」と厳しい評価が下るだろうけど。

……という考え方を今自分はしているので、現状で調整がうまくいってないこととか実現する技術が無いとかのことの指摘は、「だから実現できるよう工夫しよう、頑張ろう」と思えこそすれ、「だから諦めよう」とは思えないでいる。
これもソフトウェア開発者的な例えだけど、GitHubでissue報告がされたときに「それはissueではない」と一蹴しないでおこう、ちゃんとその妥当性を検討した上で、検討の余地ありならissueをOpenの状態で置いておき、解決が必要な問題としてトラッキングしておこう、みたいな考え方をしている。

どちらかというと、
「カップうどんのCMの男性版はフェチくないのに女性版だけフェチいのをマイクロアグレッションだなんだと呼んでアテンションを集めて不毛な議論をあちこちで起こして社会のリソースを無駄遣いさせるほうが駄目なんじゃないの? ほら、これがそれを裏付ける無駄になったリソースの統計だ」
とか
「あいつらは『自分は分け前が少ないから配慮されるべき』って言ってるけど、実際あちこちでそれ言って回ってる結果として、俺らよりずっと分け前もらってるよな? ほら、これがそれを裏付ける実際の分け前の統計だ」
とかの、やってる事が明確に逆効果だというエビデンス付きの指摘のほうが、僕のような人の心を折るにはよっぽど「効く」のだと思う。
僕がそういう「不都合な真実」から逃げてはいないかと言われると、自信は無い。

 

こういう在り方・やり方について、批判は色々あるというのは分かっているつもりで。
自分としては、自分の作品やここやSNSの投稿で比較的穏当な言い方での表現にとどめて、社会にとって大きな害にならない程度に節度を持ってやっているつもりではあるのだけれど。
それがもう認識が甘くて、一般的感覚で見たらお前は既に節度をなくして踏み越えまくってるぞ、そういうのが一人いると周囲のそこまではしていない人が同調圧力を感じて苦しんで害になってるぞ、異様なのでもう敬遠されてるぞ、もう既に取り返しがつかないほどに暴走していて社会に害しかなしてないぞ、ということなんだったら、それはあまりに僕の世界認識と乖離していて、もはや何を信じればいいか分からなくなってくる。

僕はそんなに狂っているのか?

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