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自分の観測範囲で「女性エンジニア少ない問題」を解決するために、機械学習で男性エンジニアを女性に変換する - ログミーTech(テック)という記事が話題になっていたので見たら「アチャー……」としか言いようがなかった。
概要を説明すると、技術職の男性の発表で「職場に女性がいないとやる気が出ない」「女性エンジニア増やしたい(※文脈的にはITエンジニアという意味のようでしたが、ITに限らず言える事のようなので、以下の文でもそのまま単に「エンジニア」と表記します)」「本物の女性エンジニアを増やすのは人材育成のコストがかかる」「なので機械学習で声質変換を実現した。男の声で喋った内容に対応する女声の音声を出力する仕組みを作った。」という話です。技術的には多分大したことなんだと思う(自分は機械学習には詳しくないのでよく分かってない)けど、その発表の「掴み」のための話が技術の良さを台無しにしていると思いました。
これに対して、自分の観測範囲では「懲戒処分ものだ」とか「この程度で過剰反応しすぎ」とか色々な反応が見られましたが、賛否どちらにしても「何が問題なのか」という点がきっちり共有されていない印象を受けたので、その点にフォーカスして覚書を残しておきたいと思います。「なんかよくわからんけど、この辺の話題は怖いから触れんようにしとこ……」みたいに腫れ物扱いして萎縮してしまわないで済むよう、こういう根拠でこう言えるからこれは改めようとか、こういう根拠でこう説明できるからこれはそのままでいいとかの、明確な判断をするための材料の一つとして読んでもらえたら幸いです。
最初に明記しておきたいのですが、僕はこの発表を行った彼個人をやり玉に挙げて個人的な責任を問うべきとは思っていません。詳しくは後述しますが、これを通過させたチェック体制の方だったり、社風だったり、あるいは社会の風潮だったり、そういう事の方にずっと重い責任があると思っています。(そして、彼の所属組織にもイベントの主催団体にもメディアにも自分は全く関係ありませんが、別の所でその責任の一端を自分も負っている、と思っています。)
(28日追記)また、この件を非難している人は必ずしもジョークを解していない訳ではないという事も、本題に入る前に明記しておきます。恐らく発言者の彼にとっては「女性エンジニア云々は技術の本題に入る前のただの枕のジョーク」という認識だったと思いますし、擁護している方も「ただのジョークじゃないか」と思っている様子が窺えますが、批判している人の多くはこれを「悪質なジョーク」として批判しているのだという事は、最初に押さえておくべきポイントです。
みかんの星の人が完全に「あっち」に行ってしまった件というエントリを過去に書いてて、偶然読み返す機会があったので読み返してて、ここでいう「あっち」とはまぁ平たく言えば「リア充」の事なんだけど、このエントリを書いた2008年当時は
という状況で、きっぱりと「あがり」を表明した人達の事を「すげえなあ」「自分はああはなれないなあ」と思って見てた。
最近読んだ長刀漫画の「あさひなぐ」で、剣道やってた子が長刀に転向するにあたって防具を長刀向けに短く切る(そうするともう剣道に戻れなくなる)という話があって、その子は剣道に戻るかもしれないからと防具を切る事を躊躇するというエピソードがあるんだけれども、ちょっとそれに似てると思う。ここで防具を切ってしまったら、もう慣れ親しんだ世界には帰れなくなる。ここでリア充表明をして非モテ時代に決別してしまったら、もう非モテな話は書けなくなる。切るべきか、切らざるべきか。
といっても、その子の場合は「やっぱり剣道の方がいい」と思った結果能動的に戻っていく事になったのだろうという予想ができるのに対して、僕の場合は「彼女と別れる事になっちゃって、やっぱり非モテは非モテだよねアハハハ(泣)」的な単なる脱落というか挫折というかそういう事になるだろうという予想だった、という点では大きく違うんだろうなあと思うんだけど。
でも今だったら、僕もためらいなく「あがり」を表明できるなあと、冒頭のエントリを読み返してて思った。(今このタイミングで「あがり」を表明してしまってよいものか? という葛藤を乗り越えて敢えて「あがり」を表明するという格好いい選択ではなくて、自分を省みた時に「あがっちゃってたわー」と後から言うというのが、僕の卑怯な所がよく表れててアレだなーと思う所はあるけど。)
tokyo-emacsで何故か言及された話のことを考えてて改めて思ったんだけど。もうそろそろ本当に「非モテ」という言葉と自分を関連付けて語らない方がいいな……と思うようになってきた。
「非モテ」という言葉の定義自体が今となっては拡散しまくってて訳が分からんことになってるので、改めて自分の認識を示しておくけれども、僕は「非モテ」とは単なる「モテない」とは違うと思ってる。自分が他人から愛されないことを辛いと感じる。誰でもいいから誰か一人でも自分を必要として欲しいと思う。自分と自分を取り巻く世界との繋がりを欲している。人生の主役になれていなくて、主役になりたい。それを切実に感じ、満たされない思いに苛まれている。ということを僕は「非モテ」という言葉で言い表したいと思ってる。人によっては全然違う認識かもしれない。なのであくまでこれは僕が思う「非モテ」ということで。
益田ラヂヲさんほか何名かの方々から(ちゃんと把握してない。すんません。)再三言われてはいたけれども、なんか「居心地が良くて」決別できてなかった。でも、自分の今の心境であるとか置かれた状況であるとかを改めてよく考えてみて、「スゲー非モテの人(非モテでスゲー人? 非モテのスゲー人?)」と言われるには相応しくないと、今では思ってる。
一番大きかったのは、元彼女と別れた後、「あれ、一人で生きていけそう?」と思えたという事だと思う。付き合うまでや、つきあってからずっと、ひょっとしたらカウンセリングを受けるようになるまでずっと、「異性と付き合える」という事柄が何より大きな価値を自分の中で占めていた。他のどんな事で評価されていても、恋愛できない人間に生きる価値は本質的にはないんだろう、遺伝子を残せない奴に価値はないんだろう、世間はそういう人間を本質的には評価しないんだろう、そう思ってた。
世間的にはやっぱりそうなのかもしれない。やっぱり僕には価値がそれほど無いのかもしれない。でも、以前と違って今はわりと「別にそれでいいよ」「羨んだってしょうがないし」「どうせ手に入らないし」「それは僕の居場所じゃないし」と思うようになった。「自分に自分の居場所があるのならそれでいいじゃん」と思えるようになった。と思う。
書かなきゃ書かなきゃと思ってまだ書けてない加齢会のこともそうだ。人に言われて初めて「そうなのか!」と思ったのだけれども、そこにはちゃんと僕の居場所があったようで。その事に本当に今の今まで注意が向いていなくて。それはとても良くないことだと感じた。無自覚に人の厚意を食い潰して、「そうしてもらって当然」とすら思わない――意識すらしない、そんな風なのはとにかく良くない、と思った。
折しも、最近彼女ができて。これを機に、自分の中でひとつけじめをつけた方がいいんじゃないかという気がしてきたんで。だから「非モテ」という言葉と自分とをしつこく関連付けて語るのは、やめようと思う。少なくとも、自分がその代表(の一人)みたいなツラをしたり、そういう風に受け取られそうな事を言ったりするのはやめようと思ってる。自重しようと思う。
いや、彼女ができたら非モテ卒業、というのは多分違うんだろうと思う。自分の気持ちが楽になってないなら、本人にとっては何も救いになってないわけで。僕自身「あれ、なんか自分と非モテって言葉を関連付けるのに違和感があるな」と思えるようになったのは、前述の通り、元彼女と別れて以降だったわけで。でも、まあ、「別れた」の時に「非モテ」と自分とを切り離す機会を逸してしまったので、今がその次のちょうどいいきっかけのように思ったから。
今度の彼女との関係? うん、今の所良好だと思いますよ。(←デレデレした感じで)
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「彼女がいた」時と「彼女がいない」今とで自分の考えとか感覚の違いを強く自覚する点として、女性に対する自分の視線の違いがあると思う。今は、魅力的な(と自分が思う)女の人と会話可能な距離にいるだけで、非常にどぎまぎするし、まともに目を合わせられない。失礼な話とは思うけど、その人と自分が付き合っている状態、というか突き合っている状態を想像してしまう。「非モテの心の中の『女性に対する分類用フォルダ』は『家族』と『恋人(候補も含む)』の2個しかない」と加野瀬さんあたりが言ってたと思うけど、まさにそれ。
その人に彼氏がいるとか既婚者だとかそういう事を事前に知っていたら、多分もっと平静でいられると思う。また、彼女がいた時だったら、相手がフリーだと知っていてもやはり平静でいられたと思う。どうも僕は無意識レベルで、自分に彼女がいるなら浮気心を持っちゃいけないとか、相手に彼氏または旦那がいるなら手を出しちゃいけないとか、そういう風に考えているようだ。
彼女がいた時は、魅力的な女の人を前にしていてもそれなりに落ち着いていられたので、「ああ、非モテが治った!」と安心してた。でも実はそうじゃなかった。単に内面化された倫理で自分を縛っていただけで、そのくびきがなくなった途端、世の女性全部を再び「恋人候補かどうか」という視線で見るようになってしまった。元に戻ってしまった。
一般的な意味で「かわいい」「綺麗」「素敵」とかその辺くらいまでだったら見られる方もそこまで嫌ではないだろうと思う。以前lovalottaさんにも、かわいいと思ったんなら素直にそう言えば女の子は嬉しいのだ、という風なことを言われた。
でも今僕が彼氏持ちや既婚者でない魅力的な女の人のことを「かわいい」と言ったら、そこには「できることなら恋人になって欲しい」「セックスしたい」「辛い時に慰めてくれるママになってほしい」とかなんとか、そういう意識が絶対に入ってくる。そんな下心剥き出しの言葉をかけて喜ばれるとは思えないし、そんな下心剥き出しのギラギラした目で見て喜ばれるとは思えない。そんなの(下心があるなんて)言わなきゃいいじゃんと言われるかもだけど、僕は女の人は本気でエスパーだと思ってるから、こっちの下心なんて完全に見抜かれてると思ってるから、思うことは言うことに等しく、思うことすらNGだと考えてる。
彼女がいた時に「今の彼女と別れたら非モテに逆戻りだ」と自分で言ってたけど、まさに予言通りだった。というか、彼女がいた時もずっと中身は非モテのままだった。治ってなんかいなかった。
republic1963さんが東京から引っ越されるとの事で行われた送別会という名のオフ会に参加してきた。
最初の店を出て椿屋で二次会的なだべりの後、一部の人はinumashさんの家に移動して徹夜になった。僕もその流れに乗って徹夜組に参加した(そこまでの段階で何だか不完全燃焼だったので)。
その後昼頃にinumashさん宅を後にして渋谷で非モテロして帰り着いたのが3日の夕方で、寝て起きたら4日の昼でした。
見た目がいい、運動神経がいい、しゃべりが上手い、雰囲気がいい、お洒落、金を持っている、いい会社に勤めている、特殊なスキルが高い、声がいい、などなど、漠然としたプラスの印象をひっくるめた万能ワード「モテそう」。
それに対して、どんなに見た目がよく、運動神経がよく、しゃべりが上手く、雰囲気がよく、お洒落で、お金持ちで、いい会社に勤めるどころか経営までしており、特殊スキルを持っており、声がよくても、レッテルとして「モテなさそう」という言葉を投げつけてしまえば、その人物に、根拠不明のマイナスの印象を与えることができる。
自覚してなかったけど、こう言われるとなんかすごく納得してしまった。「非モテ」=「モテなさそう、と他人から言われる(そして周囲の人も本人もその評価に納得してしまうような)人」というのが、自分の中での「非モテ」という言葉が示すクラスタにとても近い気がする。「彼女がいるなら非モテじゃないじゃん」と言われても「うーん……でも……」と自分のことを思ってしまうのは、自分が自分をどう思っているか、とか、客観的にこれこれこういう条件が満たされているからどうであるとか、よりも、自分が他人に主観的にどう思われそうなのか、という所を気にしているからなのかもしれない。
思えば遠くまで来ました。 - みかんの星-骨と翼-~漫画と絵日記と雑文のサイト~
こういう誠実
な態度を取れよ、ってrAdioさんとかは僕に言いたかったんだろうけど、取れんなあ、こういう態度は。少なくとも今の僕には。
こういう事を言えるのは、「こっち」に決別して「あっち」に行ってしまっても生きていける人だけだ。「あっち」に居場所がある人だけだ。小島アジコ氏は「あっち」に居場所がある。僕は「あっち」に片足突っ込んでるけど、「あっち」に置いた足の下の地面はぬかるんでてとても居場所なんて呼べたもんじゃない。両足で「あっち」に立てる状況じゃない。「こっち」に決別して「あっち」に行くには、別の足場を探すか、このぬかるみをコンクリで固めるなり何なりして足場にするか、しないといけない。
今まではどっちの選択もできずにいたけど、いいかげん、選択しないといけないんだろうって最近思うようになってきた。別の足場を探すか、この足場を固めるか、それか、「あっち」を諦めて、「あっち」に突っ込んだ片足を「こっち」に戻すか。
この記事の目的は、自分自身のTODOの明確化です。
13日追記。ちょっと「あっち」でモテたくらいで心まで足抜けできる非モテってそんなにいるのかな。リア充感を味わったとしても短期的では。
という、意地の悪い言い方をする人もいる。まあ多分その通りだと思う。努力し続けないと心まで足抜けできない、あっち側には居続けられない。あっち側に居続ける努力をするという決意表明、ちょっと凹んだからってフラフラこっちに舞い戻ってくるようなことはもうしないしできないししたくないという宣言、だと僕はあの文を読んだ。
最近は非モテ関係の話題に言及することもほとんどなくなってフェードアウトした感があったんだけど、時々こうして思い出したように引き合いに出されるのね。
「ウソ非モテってなんやねん」という人のために説明しておくと、「『他者からの承認を得られておらず承認に飢えて渇望している』状態を指す『非モテ』を名乗っていながらテメーはすでに承認されまくってるじゃねえか、テメーみてえな『こんな承認は要らない、理想の形の承認じゃなきゃヤダヤダヤダ!』なんて切実さのないのは非モテじゃなくてただの贅沢だろクソボケカス、そんなテメーが非モテを名乗るのは非モテの冒涜だ!! 死ね!!! 氏ねじゃなくて死ね!!!!!!」という感じのアレです。自分の認識が間違っていなければ。
僕が卑屈な事を言う度に、「卑屈な人は嫌い」という風なよくある意味ではなく上記のような感じで、僕のことを嫌いな人を刺激してしまうようなので、今は少なくとも「非モテ」という言葉を使うことはなるべく避けるようにしているつもりなんですが、それでも引っかかる人はいるようで、どないせえちゅう感じです。
しかしまあそんな感じで僕のことをある意味羨ましいと評してくれる人はいるみたいなんですけれども、ちょっと俯瞰してみたらその僕だって「Piroキメェwwwwww」「死ねキモヲタ」とかそんな感じのイジリなりイジメなりを受ける立場にいるわけで、前方からそんな感じの攻撃を受けつつ後方からも上記のような突き上げを食らっているわけで、人生ってなかなか楽にならないもんだなあと思います。
アッコにおまかせで初音ミクがとりあげられたけど酷い内容だったという話のトラックバック一覧から辿った先にあった、映像中でキモヲタの代表という感じで映されていた人の発言のまとめを見て思ったこと。(ちなみに「事件」のあらましはGIGAZINEのまとめがほどよくまとまっていて読みやすい。)
でぶこんだのMozilla 24だのにプレゼンテーターとして参加していながらもえじら組の活動を性懲りもなく続けていたりする僕なんかは、こういう話を見ると戦々恐々とせずにはおれません。いつ僕のせいでFirefoxユーザ全体がキモヲタ扱いされてもおかしくない状況。とかいいつつもえじら組を捨てる気はさらさらなかったりするんですけどね! ロリフォックスという前例もあるしね! いつかふぉくす子テーマを配布することが夢です!(そのまま夢で終わらせるべき)
しかしこのtaskという人のグダグダぶりもまた他人事とは思えないなと思った。というか同じ状況に置かれたら十中八九同じことをする自信がある。多分僕とこの人は似たようなタイプの人間なんじゃないかなあと思う。どうしてそういう風にしてしまうのか我が事のように心情を推測できてしまう。この人は明日の僕かもしれないのだ。
「スタッフが置いていった台本」について「アップしろアップしろ」と散々言われてもグズグズと出し渋ったのは、テレビで自分のキモいヲタっぷりを晒してしまったという「大失態」にビビってしまって、これ以上「罪」を重ねることを恐れたからだろう。その「罪」が誰に対しての物で、その「罪」の重さと「出さないことの罪」の重さとを正しく比較することもできなくなっていたんだろう。
「僕が『抗議』をしないことによって迷惑を被る人」は存在しないでしょ。
そうではなく「僕がいたことによって被害を被った人」が存在するのは認識してるけど。
こういう論理の破綻した言い訳を延々続けるのも、つまりは「自分自身はこれ以上何のアクションも起こしたくない」という風に心底ブルってビビってしまってるからこそだろう。あらゆる現実を「自分が動かなくても良い方向」に向けてねじ曲げて解釈している。動かなければこれ以上罪を重ねることはない。自分一人が叩かれ続けることが罪の償いである。そういう、自己満足の考え。
そうして亀のようにひたすら耐える。そのうち脳内麻薬が出てきて神経が麻痺してきてハイになってくる。だから
>>207 VIPで・・・・マジメ・・・・・・?
こんな開き直りもしてしまう。
そもそもこんな「大失態」を演じてしまったのも、褒められておだてられて調子に乗ってしまったからだ。僕自身がそうだから分かる。僕らはいつも鬱屈した感情を心に秘めている。自分がやっていることが世間から何ら評価されないことに苛立ちを感じている。ショボい「ナンチャッテ自己表現」しかしていないくせにいっぱしの表現者を気取っていやがる。卑屈なことを言うフリをして内心では「俺様はもっと賞賛されるべきだ」とおこがましくも考えている。不健全な状態。膨れあがる自尊心と欲望で高まる内圧を、「現実は冷たいんだよ」という理屈で無理矢理フタをして押さえ込んでいる状態。そこにかけられる甘いセリフ。高まりきった自尊心がピーと音を立てて一気に吹き出す。
そう。たった一カ所だけ認められた、ほんのそれだけで、ああこの人は俺のすべてを認めてくれるんだ、だなんて勘違いをしてしまう。今まで全然認められていなかった反動がそこに吹き出す。
その結果がああいう醜態に繋がる。
要は、アレだよ。普段無口でロクに会話に乗ってこないくせに、ヲタな話題が少しでもふられると、いや、場の誰かが話題に出しただけでも、途端に元気になって饒舌になって、頼まれてもいないのにベラベラベラベラといつまでも知識自慢を垂れ流す。あれの程度が酷くなっただけで、質としては同じ物だ。
起こるべくして起こった悲劇。避け得なかった悲劇。そんな風に思うよ。
そんな風に歪んだ内圧を高めなくて済む、自尊心を満たしたい時に満たしたいだけ満たせるって事。それが、「非モテ」の文脈で言うところの「モテ」の一側面なのかもしれない。そういう意味において、ある程度の「モテ」を体験できた(ている)お陰で、僕はまだバランスをギリギリ保っていられてるんじゃないかと思う。それらが失われればたちまち僕も「あちら側」に転げ落ちていくことだろう。かつていた場所に戻ってしまうだろう。今ですら、水を向けられれば調子ぶっこいていらんことまで喋る性質は、これっぽっちも直っていないのだから。
「もし人生やり直せるならどうしたい?」と問われて深く考えずに「スポーツとか音楽とかやってる人になりたいかも」と答えたんだけれども、なぜそう答えたのかその時はよく分からなかった。そっちの方がモテそうだからか? とも思ったけど、スポーツや音楽やっててモテない人もいるしなあ。
とかなんとかモヤモヤしてた時に、B'z(松本孝弘)のギタープレイの完コピに挑戦してる人の映像(ニコ動)とフェルナンド宮田という人のギタープレイの映像(ニコ動)を見て、なぜそう答えたのかの理由が分かった。
スポーツも音楽も、ライブが一番映えるものだからだ。
プログラムも絵も、時間をかければかけるほど作品の質を高められる。ハッキリ言えば、天才じゃなくてもただのボンクラでも、時間さえあればいいものが作れる。無限アンドゥでどこまでも工程を戻せるし、バックアップだって取っておける。やる気が尽きたらやる気が戻るまで作業を中断することもできる。だから素人目には、ただのボンクラが時間をかけて作ったものと、天才がサクッと作ったものとの、見分けは付かない。同人作家が11時間で描く絵(ニコ動)も、もっと短い時間で、あるいはもっと長い時間をかけて、同じようなクオリティのものを作ることができて、それらを素人の目で区別することは極めて困難だ。
でもライブは違う。ライブパフォーマンスは一瞬の煌めきだ。やり直しも作り込みもきかないから、その時その場で出せる実力が、その時その場でできるパフォーマンスの質のすべてを決定づける。そしてその良し悪しは素人目にもはっきりと分かる。
綺麗な絵を作るのに絵の実力は必ずしも必要ないけれども、華麗なギターソロを演奏するにはギタープレイの実力がなければどうにもならない。
じゃあDTMはその考え方だと駄目ってことにならないか? という風にツッコまれるかもしれないけど、確かに、僕は心のどこかでDTMをライブよりも一段下に見ているかもしれない。
あと、よくよく考えてみれば、世の中には、ライブで絵を描くことで高い評価を得る人もいるんだよね。ボブとか。こないだのMozilla 24でも、生でプログラムを書くライブコーディングというイベントをやってたし。
つまるところ僕がスポーツや音楽をやってる人になりたいと思ったというのは、自分にライブで素晴らしい絵や素晴らしいプログラムを作る実力がないこと、それだけの修練を積むことを忌避してきたという事実から目を背けて、自分が今まで手を出したことのない分野だから自分にも可能性があるに違いないと安直にも思い込んで、「俺だって一度やる気を出しさえすりゃあそんな事造作もないことなんだぜ」とくだを巻き、実際にはその「やる気を出しさえすりゃあ」ができなかったからこそ今この地位に甘んじているんだということに気付こうともしない、そんなドリーマーなボンクラの世迷い言にすぎなかったと。