たまに18歳未満の人や心臓の弱い人にはお勧めできない情報が含まれることもあるかもしれない、甘くなくて酸っぱくてしょっぱいチラシの裏。RSSによる簡単な更新情報を利用したりすると、ハッピーになるかも知れませんしそうでないかも知れません。
の動向はもえじら組ブログで。
宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
最近、10年近く使っていた使い勝手が微妙な机を処分して、別の机に入れ換えた。
元の状態と比べて、手前への張り出しが減ったので開放感が増した。 サブディスプレイの方を、妻所有だけど今は使ってなかった物(ベゼルが細くて画面が大きくて、メインで使ってる物と仕様が似てる)に置き換えたので、普段の画面が広くなった。 作画はCintiq Companion Hybridでやってるから、作業時の状況にはほとんど影響ないんだけど。参考資料をたくさん出しておけるというくらいか。
スピーカーの置き場所はちょっと微妙になった。もっと小さいのにすればいいんだけど、これはそれなりの重さがあって落ち着いた音が出るので、高校生の頃からずっと使ってて、替えるならこれより音がいい物でないと嫌なので、このまま行こうと思ってるけど。
僕は部屋を片付けるのが苦手で、増えてきた漫画が本棚から溢れてしまったり、洗濯が終わった衣類をなかなかしまわなかったりで、妻に嫌な思いをさせがちだ。
でも、汚部屋が好きというわけでは決してない。汚部屋でもそこまで気にはならない、というのはあるかも知れないけど。
世の中には、片付いてない部屋の方が好きだとか、コタツに入ったまま必要な物全てに手が届くようにしてるのだとか、そういう人もいるみたいなんだけど、僕が自分を省みる限りは、そういうのとも違うように思う。 物が出っぱなしになっているのが、特別に便利なようになっているというわけでもないし。 汚いよりは綺麗な方がいいというのは、素直にそう思うし。
僕が苦手なのは、大きくて急激な変化なのだと思う。 毎日少しずつ変わるのは気にならない……どころか、気がつかない、鈍い。 だから、少しずつ本が溢れて、少しずつ洗濯物が溢れて……というのが続いてもそれを意識できていなくて、気がついたら本が本棚の横にうずたかく積み重ねられたり、衣類収納の中が空っぽで乾いた洗濯物の中からパンツを取り出してはいたり、そういう事になってしまうんだと思う。 そういう状態に改めて言及されると、「良くないなあ」というのは分かるし、元々自分でもうっすら「これ、良くないよなあ、なんとかしないとなぁ」と思ってはいるんだけど、その状況を改善するための大がかりな労力を割く事にどうしても抵抗を感じてしまって。
まあ、そういうのが億劫なのは誰もがそうなのかも知れないけど。 「自閉症スペクトラムの特徴の1つに、慣れた環境から変わる事を極端に嫌がるという点がある」という話を聞きかじって、それに自分を当てはめて考える事で、「片付けられないのはそういうビョーキのせいなんだ」と責任逃れをしてるだけなのかも知れないけど。
最近、奥さんのおばあさんの米寿のお祝いで、奥さんの実家にお邪魔しまして。泊まりがけだったのとその時はめちゃめちゃ暑かったのとで、着て行った服を洗濯していただきました(翌日がお祝いの本番で、その時用には別の服を持って行っていたのです)。
その事を特に思い出すこともないまま帰ってきてしばらく経ったある日のこと、出勤するのに着た服からなんか妙に甘い香りがするんですよね。なんだこれって思って。
それで理由をずっと考えてたんですが、トイレでウンコしてるときに気がつきまして。ああこれこないだ奥さんの実家に着ていったやつだ……と。普段自分ちで使ってる洗剤と違う洗剤で洗ったから、違う香りがついてたんですね。
テレビ見てると「一日中香りが続く!」と宣伝してる洗剤があったりしますが、実際丸1日同じ甘い香りが続くと(別に常時プンプン漂ってるわけではないんですが、風向きとかでふわっと漂ってくる)、なんか……べつにここまで香らなくてもいいかな……って気がしました。彼女とか奥さんとかに近寄ったときにふわっと漂ってくるのは多分ドキがムネムネしてキュンと来るアレなのですが、31歳おっさんの自分から漂ってきてもうれしくないです……
それはそれとして。
米寿のお祝いによせてメッセージカードを孫一同から送ろうという話になったそうで、ついでだからと自分もそこに混ぜて頂きました。しかし、以前に1回しか会ったことがなくて一体何を書けばいいものやら……と本番前日夜にうんうん唸っていて、「おめでとうございます」みたいな無難なメッセージから先にペンが進まずにおり、さりとて例文集を調べたら負けかなみたいな思いもあってまた一層うんうん唸っていたのですが、ふと思いついた事があって、それを書き始めてみたら自分で結構いい事言ってんじゃねって気分になってきたので、その路線で最後まで書き切ってみたんです。で、何を書いたのかという話なんですけども。
ほとんど話した事も無い直系姻族のおばあさんだけれども、当たり前だけどその人がいなかったら僕が結婚したこの奥さんは生まれていなかったし、もちろん僕が奥さんに出会うことも無かったんですよね。結婚自体してなかったかもしれない、漫画連載なんて事もできてなかったかもしれない(今できているのは奥さんのサポートがあってこそだと結構思ってる)。家の近くを散歩して何気ない風景を見て「面白いねえ」なんてなごやかに話すこともなかっただろうし、ダイビングだってやってみもしなかっただろうし、イルカと泳ぐことも、珊瑚礁の中を泳ぐこともなかっただろう。おばあさんがいなかったら、自分の今の幸せのかなりの部分が丸ごと全部無かったんだ。
そう思うと、奥さんのルーツにあたる人が88歳で今も生きていて「ありがとう」「おめでとう」を言えるというのはすごい事なんだなあと思えてきて、そういう事をメッセージカードに書いたのでした。
それで実際お会いした時に直接「ありがとう」と言えば良かったんだけど、お祝いの席では結構緊張してしまってそこまで気が回らなくて言えなかったので、次にお会いしたときに覚えていたら言っとこうと思います。
あとそういう感じでなんだか最近自分の親とか祖父とかにも今更なんだけど感謝だったり尊敬だったりという思いを感じるようになってきていて、最近になってやっと人間らしくなってきたのかなあ今までは文字通り薄情者だったのだなあということを思ったりもしています。自分が幸せだなあと心の底から思えるようになってないと周囲、特に親への感謝なんてできないものなのかなあ、とか。かつては「なんで幸せになれないんだ」という感じの妬み嫉みだったりムカツキだったりが強くあって、それから現実を受容して無心の境地を経て、やっと感謝の気持ちに辿り着いたのかなあとか。というふうな書き方をしているとなんだか宗教体験っぽくてアレですね。
それと、親の介護がとか自分や奥さんが大怪我して介護が必要になってとか、そういう重大な問題に見舞われた時にも自分がそんな殊勝な気持ちを保っていられるのかどうかというのは未知の領域なので、どうにか殊勝な気持ちを保っていられるといいなあと思っていますという所で話を結んでおこうと思います。
一部の方や会社では報告済みですが、結婚しました。お相手は一般人の女性です……というと芸能人っぽくてウケるかなと思いましたが寒いだけでした。ともかく、誰と結婚したのかという情報は諸事情により今の所完全公開にはしたくないというのが両名の意向ですので、両名をご存じの皆様方におかれましては、ブコメやらTweetやらで二人の名前を併記して「おめでとう」とウッカリ発言してしまわれることのないように、何卒ヨロシクお願い致します。
時間外受け付けに書類を提出して、ちゃんと受理されるかどうかドキドキハラハラだった(指輪に「婚姻届の提出日」ということで日付を入れてしまった以上、手続きやり直しなんて事になったら、後で指輪を見返した時に「この日付なんなの」ってなってしまう……)のですが、昼間に住民票を取りに行ったらちゃんと受理されてました。よかったです。
で、結婚にあたって姓を妻側にしたのですが、特に社会人になって以降は「下田」と呼ばれる機会よりも「ぴろたん」と呼ばれる機会の方が圧倒的に多かったため、いまいち実感が湧きません。早速免許の訂正の手続きに行ってみたら、窓口で新しい苗字で呼ばれて一瞬「あー誰か呼ばれてるな」って思ってしまいました。慣れるまで時間がかかりそうです。
ところで、姓を妻側にするというと婿入りなのかとかなんとか色々思われるようなのですが、単に姓が妻側になっただけで、それ以上のことは何も無いです。といっても知らない人にはよくわからないと思うので、姓を妻側に変更するとはどういう事なのか?を簡単に解説してみたいと思います。ポイントは以下の3点です。
まず戸籍というのは、代表者にあたる筆頭者および他のメンバーからなる家族を1つのユニットとした単位で存在しています。大抵の場合は、両親+その子供というセットになっています。
さて、ここで下田家の長男と上田家の長女が結婚するとします。この時、新しいユニットが誕生することになって、それ用の戸籍が新たに作られます。新しく作成された戸籍には、各人のメタ情報として元の戸籍への参照が付与されます。また、古い戸籍にあるその人の情報には「除籍(この人の情報はこの戸籍ではもう管理されていない)」というタグが付き、新しい戸籍への参照が付与されます。
このようにして戸籍と戸籍が相互リンクされるため、例えば下田カズユキさんやヒロシ君が死んだ時には、遺産を相続できる人がどれだけいるんだ?という事を辿っていって調べられるわけです。
この時決めないといけないのが、新戸籍の「筆頭者」と「本籍地」の2点です。
筆頭者とは、文字通り、その戸籍の最初に名前が書かれてる人の事です。新戸籍に記載される人達の姓は、筆頭者の姓になります。つまり、夫の姓を名乗りたければ夫が筆頭者になるし、妻の姓を名乗りたければ妻が筆頭者になります。はい、僕の場合はそういうわけなので、戸籍上は妻が筆頭者になっています。
新しく作る戸籍で誰の名前を最初に書くのかを決めなくてはならなくて、その時選んだ方の人の姓が、新戸籍に属してる人全員の姓になる。制度上は、ただそれだけ。「夫の姓になったんだから妻は夫の一族の一員になったのだ」とか、「妻の姓になったんだから夫は実家を捨てて妻の家に尽くさねばならないのだ」とか、言うのは勝手ですが、それは制度とは何も関係のない話だということです。
他方、婿養子の場合は、戸籍同士の関係がちょっと違います。
まずヒロシ君と上田アキオさんの養子縁組手続きをして、ヒロシ君が上田家の養子になります。この時、元の下田家の戸籍からはヒロシ君は除籍されます。
次に、ヒロシ君とヒロコさんで結婚して(※養子と実子は結婚できます)新しい戸籍を作ります。
この時、ヒロシ君は既に上田姓になっていますし、ヒロコさんも当然上田姓なので、どっちが筆頭者になっても新戸籍の姓は上田になります。よって、ヒロシ君はどっちみち、もう下田姓を名乗ることはできません。
ヒロシ君とアキオさんの間には養子・養父としての法的な親子関係もあります。なので、ヒロシ君にとってアキオさんは「義理の父」ではなく「養父」ということになります。「実子の配偶者」ではなく「養子」として、遺産の相続等、実子と同等の権利があるわけです。
これがいわゆる婿養子です。なお、実際には養子縁組と婚姻の手続きはどっちを先にやってもいいそうです。ここでは説明が簡単な方ということで、養子縁組後に婚姻する場合を説明しました。
婿入りというのは、これら制度上のやり取りとは関係のない慣習的な言葉です。かつての制度やしきたりを現在の制度に照らし合わせると、上記の「婿養子」に近いものを指していたっぽいです。ということで、僕が婿入りという言葉を使う時は、婿養子と同じ物を指していると思って下さい。(もっと言うと、「婿養子」も慣習的な言葉で、制度上はただの「妻の実家の養子になっている」という状態です)
ちなみに、法律の用語における入籍とは、上記の養子縁組手続きにおいて夫が妻の実家の戸籍に入る、あるいは妻が夫の実家の戸籍に入る事を言うそうです。なので、僕のケースは入籍にはあたらないわけです。「結婚」のもってまわった言い回しとして「入籍」を使うという風潮があります(この用法は俗語として一般的なので、最近は辞書にも載ってるみたいです……)が、そういうわけなので、僕は入籍という表現は意地でも使わないでおきます。
最後に、ここまであえて触れずにいましたが、本籍地についても説明します。
昔は戸籍と住民票が一体だったとかで、戸籍は住所ベースの管理になっていますが、戸籍と住民票が別々になっている現在では、本籍地とは単に「戸籍を管理する自治体がどこなのかを示す」という事以上の意味は無いそうです。居住地と無関係に決められるので、夫側実家と同じ本籍地にしてもいいし、妻側実家と同じにしてもいいし、千代田区1の1で皇居を本籍地にしてもいい(戸籍を取り寄せる時は千代田区の区役所に行く)し、スカイツリーでも屋久島でもなんでもオッケーです。
よく「本籍地はどっちかの実家と同じにしておいた方がいい」という話がありますが、これは、単に「管理する自治体が1箇所にまとまっていれば、手続きや戸籍の取り寄せがちょっとだけ楽になる」「本籍地が変わらない方の人は、本籍地が関係している登録を更新しなくて良い」というだけのことです。
仮に東京都E区の住所で新戸籍を作ったとすると、ヒロシ君が死んだ時は、東京都E区と鳥取県A市のそれぞれから戸籍を取り寄せることになりますし、ヒロコさんが死んだ場合、東京都E区と埼玉県C市の2箇所の自治体から戸籍を取り寄せることになります。これがニュートラルな状態です。
埼玉県の上田家の本籍地と同じ本籍地で新戸籍を作った場合、ヒロコさんが現在属している戸籍と、過去に属していた戸籍は、2つとも埼玉県C市の役所が管理しています。なので、ヒロコさんが死んだ時であれば埼玉県C市の役所からだけ戸籍を取り寄せればOKです。でも、ヒロシ君が死んだ時は、埼玉県C市と鳥取県A市の両方から戸籍を取り寄せないといけません。二人のうち片方だけは楽になりますが、もう片方はニュートラルな状態と何ら変わりません。
また、運転免許のように本籍地の情報がある登録情報は、本籍地が変わったら更新する必要があります。上記のように「上田家の本籍地と同じ本籍地に新戸籍を作った」場合、ヒロコさんは名前も本籍地も変わらないので免許は更新しないでオッケーです。それに対して、ヒロシ君の方は名前も本籍地も変わるので(どっちか一方だけ変わった場合もですが)免許を更新しないといけません。
僕の場合、夫側実家の本籍地で妻側の姓ってなんか違和感あるなーと思ったのと、妻側実家の本籍地で妻側の姓だとちょっと婿入りっぽ過ぎるかなーと思ったのと、いろんな意味でちゃんと独立したいなあ一人前になりたいなあという思いとで、心機一転するつもりで本籍地は敢えて既存のどちらでもない場所にしました。
どちらの実家も苗字については特に拘りは無い(家を継ぐとかそういうのは無い)ということだったので、姓については当人同士の意志でわりとすんなり決まりました。
というか、僕の元の苗字「下田」がぶっちゃけダサイというかショボいというか、敢えてこの苗字になろうという気が湧くようなものでもなく、僕自身苗字を変えられる物ならもっと格好いい苗字だったらよかったのに!と思っていたくらいだったし、妻さんにも「『下田』になるのはちょっと……」と言われてしまったしで、満場一致で妻側の姓という感じでした。
姓が変わることで色々大変なのかなーと思っていたのですが、実際なってみると、引っ越しとそれに伴う住所変更の時と気分はそんなに変わらないなあ……という感じです。事前にしなきゃいけない事なんて、元の戸籍を取り寄せて婚姻届の枠の中を埋めておくという事だけだったし。むしろ引っ越しより楽なくらいじゃないの?
元々、住所変更すら完璧にはこなしてなかった(郵便物の転送期限が過ぎて実家に連絡が行ってそれでやっと情報を更新したとかそんなのもあった)人間なので、結婚だからって気張って完璧に手続きを済ませられるわけがないのであります。なので、気がついた物からボチボチ名前を変えていこうと思っています。
……という風に思えるのは、戸籍上の名前イコール自分のアイデンティティ、という考え方をしていないからなのかもしれませんね。
僕は16で漫研に入った時にペンネームを決めて(先輩に決めてもらって)以降、13年間ずっと「Piro」の名義で色々な活動をしてきました。物心ついてから、という考え方をすれば「Piro」であった期間の方が長いくらいです。どっちかがシンボリックリンクでどっちかが本当の名前だ、というのではなく、どっちも等しくハードリンクという感覚だと思います。
よく「インターネットは仮想現実。ハンドルという仮名で、嘘の人格を装って交流する場所。そんなものにハマってないで、もっと現実を見ろ。」みたいな言い方をされるけれども、僕にとってはネットも現実の一部です。「現実」と、そこから切り離れた「非現実」があるのではなくて、ネットというインフラの上に「現実」が延長されている、そういう感じなので、僕はオフラインでもPiroという名前を使いますし、オンラインでも下田洋志という名前を使ってきました。名前毎に異なるペルソナを使い分ける、という事をしていない(つもり)のですよね。むしろ、ペルソナは名前よりも場(家だとか客先だとか)の方に結び付いている気がします。
名前が一つしか無かったら、名前が変わる事への抵抗はもっと強かったかもしれません。姓が変わった後でも変わらない、自分を自分でアイデンティファイする永続的な名前を持っていたから、それほど強い抵抗を感じずに済んだ、というのはやっぱりあるんじゃないかなと思います。それが良い事(制度に縛られない自由な感覚が養われたということ)なのか悪い事(伝統を蔑ろにすること、制度に順応「できていない」ということ、在る物に合わせるのを怠っているということ)なのかは分かりませんが。
以上、結婚のご報告でした。
Twitterとかでポロポロこぼしてるのをまとめておきたいと思ったのでまとめることにした。要点だけ先に書いておくと、以下の3点。
何度も書いてる話をまた繰り返すんだけど。
僕がMozillaに肩入れしだしたのは、僕がW3C信者で、Geckoエンジンが当時一番マシなCSS2の実装を持ってた(ように僕には思えた)からだった。ポジショニングがちゃんと仕様通りにできて、疑似要素とかも使えて、スタイルシートWebデザインで語られていた「あるべきWeb」を実現してくれる物だ、という風に僕は思ってた。
そのうち僕はMozillaの拡張機能開発にのめり込んでいったんだけれども、のめり込む中で「Web標準は世間知らずの学生やら学者やらが語るだけのオモチャで非現実的な絵空事、なんかでは決してないという事を証明したい」「プラットフォームを選ばずWeb標準技術でアプリケーションソフトウェアを作れるという事そのものが、その証明になる」という思いをだんだんと強めていった気がする。その後でUIがどうとか色々加わったものも有るんだけど、発端にあって且つ今もある核の1つであることは間違いないと思う。
そうこうするうちにオープンソースというキーワードから就職が決まり、「オープンソース素晴らしい!」的な言説にそれまでよりも沢山触れるようになった。Mozillaも、「Firefoxはオープンソースだから多数の目によって監視されていて品質が高い」とかのアピールをよくしてた。Firefoxのシェアがちょっとずつ増えていって、「オープンソース素晴らしい!」「コミュニティ素晴らしい!」「バザール!」「カスタマイズ性が高いのって素晴らしい!」的な言説にもさらに多く触れるようになった気がするし、自分でもそういう事を言うようになった気がする。
こういうものがMozillaの、Firefoxの価値だと僕は思うようになっていた。
Mozillaの拡張機能を開発する中で僕は、それなりの評価を世間から得る事ができた。Firefoxが世の中で受け入れられていく中で、僕の成果も評価されていった。W3C信者でCSSコミューンで啓蒙啓蒙と息巻いていた頃に抱いた「どうしてこんな素晴らしい物を皆分かってくれないんだ」という鬱屈、運動ができず特段勉強ができるわけでも人気者でもない自分がメインストリームの人達を横目に休み時間机に俯せていた時に感じていたやるせなさ、朝礼での表彰だとかトロフィーだとか優勝旗だとかに憧れながら無縁のままだった口惜しさ、そういった物から僕は解放されたような気がしていた。
僕は、僕を救ってくれたモノの事を、僕自身の存在意義をも仮託して支持するようになっていたのだと思う。
ただ、世間がFirefoxを評価していた最大の理由は、そういう事とは全く別の所にあったんだな。
世間が評価したのはあくまで、Ben GoodgerやDavid Hyattといった人達が「こういうブラウザがあったら使いやすくて便利なのに」と思ってスカンクワークス的にユーザ視点で作ったアプリケーションソフトウェアとしてのPhoenix、そしてその血を引くFirefoxだった。これは多分間違いない。
オープンソースだとかWeb標準だとかは、ある意味ではオマケの要素に過ぎなくて、ある意味では「今時そうであって当たり前だろ?」っていうレベルの話でしかない。カスタマイズ性だって、別にFirefoxのやり方でなきゃいけなかったなんて事は全然無くて、というかFirefoxのやり方(不安定且つドキュメント不在のAPIの山で、全てが個々人のアドオン開発者に丸投げ)なんて下策もいいとこで、結果的に「フツーの人」や「ヘビーユーザ」が欲しい機能が手に入るのであれば、それは安定したAPIと開発を支援する仕組みによって実現されるものであっても何ら問題ないどころか、そうであった方がユーザのためにも良い。
「必要なのはこの機能だ」「こんな機能は不要だ」といった判断を下して方針を定めて1つのビジョンの元に形作られたからこそ、Firefoxには「使いやすくて便利だ」という分かりやすいメッセージが備わって、小難しい事になんか興味の無い普通の人にも受け入れてもらえてたんだと思う。
つまり、こういう事だ。「オープンソースでWeb標準」なMozillaが元々そこにあった。その中から「便利なアプリ」のPhoenixそしてFirefoxが産まれてきて、その「便利なアプリ」に惹かれていろんな人が寄ってきた。でもそのうちに「便利なアプリ」を作った中心人物達はMozillaを去って、AppleやらGoogleやらに行ってしまった。そして彼らはそこでまた別の「便利なアプリ」を作り始めた。今またその「便利なアプリ」が新たにいろんな人の関心を集めている一方で、「便利なアプリ」を産んだ中心人物達がいなくなったMozillaにはFirefoxには、多くの人の関心を集める材料たり得ない「オープンソースでWeb標準」という部分だけが残された。
「今まで使ってたFirefoxの新しいバージョンが入ったから使ってみたけど、重くてヤダ。これだったらGoogle Chromeっていうの? こっちの方がいいや。」カジュアルにFirefoxを使い始めた人は、こうしてカジュアルにFirefoxから去って行っている。今Firefoxについて行っているのは、その残された部分に元から惹かれていた僕のような酔狂な人間と、Firefoxやそのアドオン(特にTab Mix Plusあたり)にロックインされて他に移れなくなってしまったドン詰まりの人間だけだったりするんじゃないのか。
さらに言うなら、前述した通りオープンソースもWeb標準もカスタマイズ性も今となっては「どのプレイヤーも備えていて当たり前の、最低限の要素」となっているのだとすれば、Firefoxに残された部分にすら何ら特別な独自性は無いという事にはならないか?
他のプレイヤーが持ち得ない全く独自のカラー、進むべき道を指し示す分かりやすい「方針」「指針」を持てないと、Firefoxの衰退のスピードは加速する一方なのではないか。
Ben GoodgerらがPhoenixをスリムに作れたのは、彼らに「こういうものを作りたい」という思いがあったからというだけでなく、スカンクワークスとして余計な横やりに晒される事無く初期の開発を進める事ができたからではないだろうか。まだ世の中のどこにも無いまだ見ぬ「より良い物」を求めて最先端をひた走っていたからこそ、そういう事ができていたのではないか? 10年来の「Mozillaユーザ」といったしがらみに囚われて、船頭多くして船山に登りまくりになっているようにも見えるFirefoxが、他の模倣・後追いではない独自の「最先端」を切り開いていく事は可能なのだろうか?
FirefoxボタンやApp Tabやステータスパネルといった新機能の導入は、OperaやChromeといった競合製品の猿真似に過ぎなかったりはしないか? Microsummariesやプロファイルマネージャの廃止は、「アンケート調査の結果」という一見するともっともらしい数字を楯にした思考停止だったりはしないか? 受け身に徹していたりはしないか? そこにビジョンはあるのか? 一本筋の通ったストーリーはちゃんとあるのか?
……というかそもそもの話として、「進むべき方向が分からない。プロジェクトが生き残るために、進むべき道を定めなければ。」なんて考え方をしてるなら、その時点でもう終わっちゃってるとも思う。進みたい道があるから進む、その道を進むためにプロジェクトを立てる、それが当たり前のあり方だ。組織の自己保全が目的となった組織の末路なんて、今更語るまでも無い。プロジェクトの自己保全が目的となったプロジェクトだなんて、一体何の冗談か。プロジェクトとしての役割を果たし終えたのであれば、プロジェクトは解散しないといけない。
Netscapeのための「無償労働力集めの場」ではなくなったMozillaプロジェクトの目的は、一体何なのか。その目的はまだ達成されきってなどいなくて、今も果たし続けなければならない物なのか。The Mozilla Manifestoが「何かを言っているようで実は何も言っていない」言い訳などではないなら、ここから演繹される物がFirefoxの進む道なのだろう。
その道に、僕はどのように関われるのか。あるいは、どのように関われないのか。もうすぐ三十路に突入する僕は、個人的な承認欲求が満たされるかどうかといった話に留まらず、仕事上での関わりも含めて、いいかげん真面目に考えないといけないという気がしている。
うっわーこれほんと他人事と思えないんですけど!!! 僕が2期生として入り卒業した後で学科自体がなくなってしまった大阪電気通信大学メディア情報文化学科の出身としては、こう、なんというか、胸に詰まる物がある。
ただ、僕自身そこまで大学に期待はしてなかったというか、それまでWeb標準がらみのやりとりで、高校生の自分よりその技術の事を知らない大人というのが世の中にいるのか!という事にある意味でショックを受けて、大人に訊けば何でも分かるとか、大学に行きさえすれば何でも教えてもらえるとか、そういう期待はもうできなくなっていたと思うのですよね。
とはいうものの、まだ何を自分が生きていく上での道に選べばいいのかは漠然としていたので、文字通りの人生勉強というか、何かしらの雑学知識が身に着けばいいなというか、自分の知らない世界に触れるきっかけだけでも得られたらいいなというか、そういう事には期待して大学に行ってはいたと思う。会社で毎日PCに向かって仕事してる今では、自分からどんどん動いていかないと新しい物なんて全然目に入ってこないなあ、いざ興味を持って知ろうとしてもどこから取りかかればいいのかさっぱり分からないなあ、という事を時々感じる。それを思えば、いろんなトピックが取り揃えられてて、選んで履修すれば最初の方から順番に教えてもらえる(どこから取りかかればいいのか教えてもらえる)という環境はとても恵まれていたのだなあと、改めて思う。
何度か同じ事を語ってる気がするけど、大学って「めちゃめちゃレベルの高い所に行ってそこでしか教われない事を学ぶ」か「そんなにレベル高くない所に行ってサクッと卒業に必要な単位を取ってあとは無駄に教養を深めたり学外で実践して経験を積んだりする」かのどっちかのスタイルで接するのがいいんじゃないかと思うのですよ。どちらにせよ自分からアグレッシブに動く必要があって、ただイスにボーッと座って話聞いて試験受けてっていうサイクルに乗っかってるだけでは、その時間は果てしなく無駄だろう、と。そんなにレベルの高くない大学で、学内で教われる範囲だけで閉じてるっていうのが、一番駄目なパターンだと思う。
竹熊健太郎氏はこうおっしゃっている。 <style type='text/css'>.bbpBox38837663356289020 {background:url(http://a2.twimg.com/a/1297446951/images/themes/theme8/bg.gif) #8B542B;padding:20px;} p.bbpTweet{background:#fff;padding:10px 12px 10px 12px;margin:0;min-height:48px;color:#000;font-size:18px !important;line-height:22px;-moz-border-radius:5px;-webkit-border-radius:5px} p.bbpTweet span.metadata{display:block;width:100%;clear:both;margin-top:8px;padding-top:12px;height:40px;border-top:1px solid #fff;border-top:1px solid #e6e6e6} p.bbpTweet span.metadata span.author{line-height:19px} p.bbpTweet span.metadata span.author img{float:left;margin:0 7px 0 0px;width:38px;height:38px} p.bbpTweet a:hover{text-decoration:underline}p.bbpTweet span.timestamp{font-size:12px;display:block}</style>
美大系大学に教える立場でいると痛感するのだが、教育者として作家 志願者に教えられるものは「知識」と「技術(方法論)」の2つしかないということだ。それ以前に「どんな作品を創るか」までは教えようがない。最初に創りたい作品のビジョンがない人は、そういう学校に行くべきではない。
美大でなくてもどこの大学だってそうなんじゃないかと僕は思うんだけど、ビジョンまで持った状態で大学に入ってこれるのが(というかそういう目的意識を持ったから大学に入ろうと思って入るというシナリオが)理想なんだろう。でも僕も含めてほとんどの人は、18歳時点でそんなはっきり人生の目標なんて持ててないんじゃないのかなーって思う。漠然と「高卒じゃ仕事なんてないんじゃないの……?」みたいな不安を持ってて、それでとりあえず大卒っていう資格を取っておきたくて大学に行くんじゃないのかなあ。
ビジョンなんて後から見つければいいじゃん、やってるうちに「これ面白いなあ、これを突き詰めたいなあ」って思ったらそれがその人の道になるんじゃないのかな。というのが僕の考えなので、別にビジョン持ってないからって大学に行ったらあかんとか会社に入ったらあかんとかまでは思わないんですよね。まあ美大だと「おまえそんなヌルい事言っとんちゃうぞコラ!!! 才能ない奴は死んでまえ!!!」くらいのノリになっちゃうのが当たり前なのかもなんですけど。美大の入学式で「この中の99%の人は芽が出ずに消えていきます。ここは、その残り1%の人を見つけて磨き上げるための場所です。」という感じの、お前らのほとんどは捨て駒だ的な演説があったとか無かったとかいう話も、どっかで聞いたか読んだかした気がします。
ともかく、危険なのは「大学に行けば何でもある」って思っちゃう事なんだと思う。大学には何があるのか、っていう事だけじゃなくて、大学には何が無いのか、っていう事も、これから大学に進学しようかという年の子には教えてあげて欲しいものです。……まあ、本当にその事を理解しなければいけない、視野が狭い状態になってる人(過去の僕のような人)ほど、言われてもその言葉の意味などきっと理解できないのでしょうけれどもね。
癇癪を起こした事がない人、というのもいるんですね。というかもしかして、癇癪を起こした事がある人の方が割合的には少なかったりするんでしょうか? 僕は小さい頃から良く癇癪を起こす子だったと思うので、自分基準で考えてしまいますが、世間基準だと僕みたいなのは珍しい方なんですかね。
安い煽りにすぐ乗せられてしまう。嫌味を言われたらカチンと来て、何か言い返さないと気が済まない。我慢ができない。自分がいいと思った物の価値を他人が認めていないとイライラする。何で僕チンの思い通りにお前らは動かないんだよ!!!と考える。そういうのの行き着く先にある、頭の中が真っ白になってしまって理屈で物を考えられなくなって、それまでは「しょうがない」と思って我慢できていたはずの事でも我慢できなくなって噴出してきて、息が荒くなって、顔を真っ赤にして、歯を食いしばって、何か言いたいんだけど、でも思っている事の中身を言葉にする事ができなくて、だから何も言葉が出てこなくて、「フゥーッ!!!! フーッ!!!! ヒゥーッ!!! ヒグゥーッ!!!! ヒゥーッ!!!!」と過呼吸になる。
そういうタイプの人間なんですよね僕は。普段の生活で今はそういうのが出てくるような機会がほとんど無いけれども、強いストレスがかかるとたまに、そういう方向に転がり落ちそうになる。
発達障害とか精神病とか知恵遅れとかそういう奴なんだと思いますよ。日常生活で支障のない範囲、にギリギリ収まっているというだけで。「お前ごときが障害者を名乗るのはおこがましい」「お前ごときのようなありふれた人間が、自分は特別だと思いたいばかりに障害者を自称するから、本当の障害者が肩身の狭い思いをさせられるんだ。恥を知れ恥を。」等々、言いたい人は言えばいいと思いますが。
一昨日くらいですかね。そういう酷い癇癪を起こす夢を見たんですよ。この僕チンを裏切ったな!!!!!みたいな感じの、ひどく幼稚で自己中心的な理屈で癇癪を起こすという夢を。目が覚めた時にはリアルに過呼吸になってました。ああ、すっかり忘れていたけれどもこれが僕の本性なんだよなあ、という事を改めて意識しました。
障害児の第1子がいる状態で第2子を産むかどうかって話をたまたま読んで、なおのこと暗い気分になる今日この頃です。
夜フクロウというMac OS X用のメジャーなTwitterクライアントがあるんだけど、夜フクロウのアップデートに伴って、作者のポリシーによって一部の機能が削除されたというか使い方が制限されるようになったそうだ。それに対して、その機能を使っていたユーザが「なんで機能を削除したんだ」「作者の横暴だ」「作者にはユーザの要望に応える義務がある」「作者の思想を押しつけるな」といった発言を作者に対して行ったそうだ。
以前、僕はこんな事を書いた。
あなたが使いたい物がどこにもないのなら、あなたが自分で作るしかない。使いたい物があっても作る気が無いのなら、誰にも文句は言えない。作る気がなくても使いたいのなら、賃金なり労力なりのコストを負担するのが当然。あなたのためにタダで働いてくれる都合のいい奴隷は、そうそういない。いまあなたがタダで利益を得られているとしたら、他の人がその人自身のためにやったことのおすそ分けを貰っているからにすぎない。おすそ分けが少ないぞと文句を言う権利はあなたにはあるけれども、それに応じる義務は誰にも無い。なんでおすそ分けをもっとよこさないんだ、と不満を述べる姿はただ滑稽なだけだ。
この辺の僕の認識は今もずっと変わっていない。
しかし作者がどう考えていようとも、「お客様は神さまだろゴルァ!!!」と横暴な物言いをするユーザは出てくるし、「ちょっとくらい耳を傾けてくれてもいいのに」と言って結局は全面的に要求が受け入れられるまでいつまでもしつこく食い下がるユーザも出てくる。それは避けられない。
でも、そういう声に毎日のように晒されてウンザリしてやる気を削がれたり、強迫観念に囚われて精神を病んでしまったりすることは、避けられると思う。自作のソフトウェアをオープンソースなライセンスのもとで公開するのは、そのための自衛の手段として有効なんじゃないかと僕は結構本気で思ってる。
フリーソフトウェア(※ここではストールマンが言う所の自由なソフトウェアの事)やオープンソースの考え方がどういう理由で出てきたかは、この際どうでもいい。重要なのは、「嫌ならフォーク(元のプロジェクトと袂を分かち、別プロジェクトとして分岐・継続すること)してよ」と言えるようになるという点だ。
こういう声を受けてストレスを感じる人というのは、多分、責任感が強いとかマジメだとか、そういう気質を持ってるんだと思う。だからこそ、要望が寄せられると「自分がやらなきゃいけない」と感じて抱え込んでしまうんじゃないだろうか。
クローズドソースだと、まさに文字通り「自分がやらなきゃ誰もできない」ので言い訳ができない。要望に応えないことを選ぶ場合、それに対する責めに真っ正面から立ち向かわないといけない。精神力が強くないとやってらんない。
でも、オープンソースにしておけば、言い訳ができる。自分がやらなくても、他の誰かがソースコードに手を加えて実現することが、理屈の上では可能なのだから。自分一人で抱え込まなくてもよくなる。
あるいは、「どうしてもやりたいんだったら自分でやってくれ」と言うこともできる。僕はよく、そういう言い方をしてると思う。自分自身が、他の人の作った拡張機能が動かなくなったのを見よう見まねで改造して動くように修正した、という所からアドオン開発のキャリアがスタートしているから、実感を持ってそう言ってる。やる気と時間さえあれば多分できるはず、本気でそれが必要なんだったら何が何でもやるはずだ、そう思ってる。こうなると、その機能がいつまで経っても実現されないのは、「僕のせい」ではなく「自分でやろうとしないその人のせい」になる。
相手がどう思おうとどうでもいい、とにかく自分の中でそういう理屈で言い訳ができるって事が大事なんだと思う。
同じ理由で僕は、Mozilla Add-onsの寄付募集機能も使わないようにしてる。
AMOでは、作者が設定しさえすればPayPal経由で寄付を受け取れるようになっている。ちょっと前にそういう機能が付いた。機能を使ってる人もちょっとずつ増えていってるみたいだ。でも僕は今の所、寄付機能を使って寄付を募るつもりはない。
何故かというと、「金払ってるんだから言う事を聞けよ」って言われるストレスに晒されたくないからだ。「いい物にはお金を払いたい、だから寄付したいんだ」と言われたらそれはそれで嬉しい。でも、金と一緒に「そしてお金を払ったんだからこっちの言う事を聞いて欲しい」という要求がくっついてくるんだったら(「寄付」のためのシステムを「対価を払うため」に使われるんだったら)、金は受け取りたくない。受け取らない代わりに自由でいさせて欲しい。
というか、相手がそう言っていなくても多分自分の中で「金を受け取っておいて無視するのか?」という声が聞こえてくるだろうと思う。金を受け取っていなければ、「別に、応えなきゃいけない義理はないんだし」という言い訳をしやすい。相手に対してというよりも、自分自身に対して、そう言い聞かせやすくなる。
アドウェア(広告を表示する機能をくっつけて公開することで、費用を広告収入でまかなうという配布形態)にしないのもこの理由が大きい。まあ、広告を入れる余地がどこにもないという設計上の理由もあるんだけど。
確かにソースを公開しないでいれば、競合相手が登場しにくくなって、名声を独り占めできるかもしれない。確かに寄付を募れば、お金が手に入るかもしれない。でも、何かを得るためには何かを失わないといけない。自由な時間、自分自身からも追い立てられることのない気楽な状態、そういう物が代わりに失われる。それに耐えられない脆弱な神経しか持ち合わせていないので、僕は、地位名声の独り占めも寄付金も諦めることにした。僕は、気楽な方がいい。ストレスに追い立てられながらこなすのは、生きるために避けられない仕事だけでいい。生きるために必要でない余暇のことにおいてまで、ストレスに追い立てられなくてはならない道理はない。
このエントリを見て阿久根市長みたいだなと言う人もいるようだ。
阿久根市長がどういう事を言ってるのか逐一ウォッチしてる訳じゃないからちゃんと把握してないんだけど、「自分でやれ」「嫌ならフォークしろ」とかそういう言い方が該当するんだろうか。それとも、作者が暴君のように振る舞う限りは作者自身は気楽だけど、その分のストレスは善良なユーザにしわ寄せが行ってるということだろうか。
僕は、善意のソフトウェア作者に精神を病んで欲しくない。フリーソフト作者(※言うまでもないけど、ここでは自由ソフトウェアではなく無料ソフトウェアの方ね)の中に一定数いるであろう「便利な物を作ってみたから、みんなもどうぞー」という素朴な善意でソフトウェアを公開している気のいいあんちゃんが、たかり体質の人間にまとわりつかれて疲弊して潰れる姿は、見たくない。だからこのエントリは、そういう人に自衛のための手段を紹介するという点にフォーカスして書いたつもり。
たかり体質の人は、「それが当然だ」という理由を尤もらしい言葉で強い語調で語る。だから気が弱い気のいいあんちゃんはうっかり「もしかしたら本当にそうなのかな」って思ってしまうかもしれない。
もう一度引用する。
あなたが使いたい物がどこにもないのなら、あなたが自分で作るしかない。使いたい物があっても作る気が無いのなら、誰にも文句は言えない。作る気がなくても使いたいのなら、賃金なり労力なりのコストを負担するのが当然。あなたのためにタダで働いてくれる都合のいい奴隷は、そうそういない。いまあなたがタダで利益を得られているとしたら、他の人がその人自身のためにやったことのおすそ分けを貰っているからにすぎない。おすそ分けが少ないぞと文句を言う権利はあなたにはあるけれども、それに応じる義務は誰にも無い。なんでおすそ分けをもっとよこさないんだ、と不満を述べる姿はただ滑稽なだけだ。
ユーザからの要望に応えることが作者自身にとっても当たり前になってくると、そもそもなんで要望に応えなきゃいけないの?という事が分からなくなってくる。自分で自分をがんじがらめにして、「要望に応えなきゃ」というプレッシャーだけが一人歩きしてしまう。
だから、思い返してみて欲しい。何故自分がそれを始めたのか、そして、何故それを続けているのかを。あなたは、エンドユーザの奴隷になるためにソフトウェアの公開を始めたのか? 違うだろう。
ちょっと気が早いですが今のうちに宣伝しておきます。5月23日に開催される文学フリマにおいて発行予定の奇刊クリルタイ 4.5(仮称。多分先方のサイトで「ドルジ(仮)」と書かれている物がこれだと思われます)に、4ページほどのマンガを寄稿しました。タイトルは「とあるW3C信者の<ruby><rb>大後悔</rb><rp>(</rp><rt class="読み">リグレット</rt><rp>)</rp></ruby>」です。……というタイトルから想像が付くかもしれませんが、いわゆるひとつのCSSコミューンな人間の一人として過去を振り返る内容となっております。
先に言い訳しておきますが、内容は実話ではなくてかなりの脚色が入ってます。作業時間的に短いページ数にまとめないといけなかったので、説明を省くために仮想敵をキャラクター化したという感じです。特定の個人に対して深い恨みを抱いているとかそういう訳ではないので、あしからず。(←説得力のない言い訳ですね)
1つ前の話の続きかもしれない。
僕自身は、「努力できる人っていいなあ羨ましいなあ」と思うけど、大抵の事は努力しようと思っても続かない飽きっぽい人間だと自覚しています。自炊、続きません。運動、続きません。やってもすぐに成果を得られない事は大抵、やってる途中で飽きちゃいます。自分の飽きっぽさを認められない、自分はそんな飽きっぽい人間じゃないはずだ、自分が悪いんじゃなくて自分を飽きさせるその対象の方が悪いのだ、と思う人がひょっとしたら「努力なんてかっこ悪いよ」と斜に構えて言うのかも知れません。少なくとも過去の自分はそうだった気がします。
でも、楽しい時ってホント、秀丸エディタに10時間以上連続して向き合ってても苦にならないですね。食事をする時間も惜しいくらいにのめり込むことが結構ありました。今は、毎日ちゃんと会社に行かないといけないので、やりたくてもできないんですけど。
彼らは、プログラム書いててノリにノッてる時の僕みたいな感じで、仕事(=儲けに繋がる事)をしてる時はそれが楽しくて楽しくて仕方ないというタイプの人なんじゃないかと思います。僕は金に繋がりやすい事に彼らほど熱中できる気はしない(金儲けが嫌いなのではなく、好きな事が金になりにくい事ばかりだという意味ですよ)ので、彼らのように大儲けはできないんだと思います。残念ですが仕方ないです。彼らの真似はできないので、羨んでも無意味です。
「さあ努力するぞ」と思って努力できる・努力が続くのは、何でもいいから努力するのが好きだという人なんだろうと思います。ある意味マゾだと思います。僕も大概マゾいと思いますが、そういうマゾさは無いので、残念ですが努力が続きません。仕方がないので、やってて苦にならない事に没頭して現実逃避するのです。それが僕の場合は、Web標準だとかCSSだとかJavaScriptだとかMozillaだとかだったりなんでしょうね。
ただ、幸いな事に自分は、そうして現実逃避して没頭した対象に関する知識とか経験とかがそれなりのお金になるという状況に居る事ができています。「仕事なんか辛くて当たり前だ」という話をよく聞きますが、自分はそういう意味ではとても恵まれた状況にいるのだと思います。
とりあえず、何かやるならやってて苦にならない事をやる方がいいと思うし、やってて苦にならない事がいくつかあるのならその中で一番お金になりそうな事を優先すると、色々ラクになるんじゃないかなと思います。
僕の場合、Mozilla以外ではRails(Ruby)やり始めた時は右も左も分からなくて辛かったですけど、分かってくるとそれほど物凄く辛いという事もなくなってきた気がします。やっててそれほど辛くないと思える事がいくつか手持ちであると、つぶしがきいていいと思います。なので、そういう物がまだないという人は、そういう物を見つけてみるといいんじゃないかと思います。
ただ、「あ、それほど辛くないな」と思えるようになるまでにはひょっとしたらそれなりに時間がかかるかもしれませんので、最初のうちは、辛くてもちょっと無理して続けてみるという事が必要なのかもしれません。考えてみれば、自分もMozillaの中を見始めた時は色々辛かった気がします。
そこで諦めないで続けざるを得ない何らかの事情(Mozillaの時は「他にやってくれる人がいなかった」、Railsの時は「仕事で仕方なく」)があると、「あ、それほど辛くないな」と思える所まで辿り着きやすくなるのかもしれません。そういう意味では、他に手を付けてる人が居ない事(自分がやらなきゃ他に誰もやってくれない事)に手を付けてみるというのは、いい選択なのかもしれないなと思います。
「みんなと同じ事やっててもつまらない」というのは、そういう話なのかもしれませんね。
進むべきか退くべきか。違う道を選ぶべきか、今いる道を歩き続けるべきか。@saneyuki_sさんのそういう悩みと、内田樹氏の「なんとなく、で始めた人のほうが長続きする」という話を見てて、こんな事を思ったんですが。
結婚は「好きな物が一致する人」ではなく「嫌いな物が一致する人」とした方が長続きする、という風な話をどこかで見たか聞いたかしました。どうも世の中は、「好きな事が一致してたら、他の所でどんなに相性が合わなくても大丈夫!」という人よりも、「どーしてもここだけは我慢ならない! という点で問題がなければそれ以外の事はだいたい妥協できるよ」という人の方が多いみたいです。僕自身もそういうタイプな気がします。
思い返してみれば僕自身、プログラミングでご飯食べる事になるとは小さい頃にはこれっぽっちも全く考えてなかったと思います。どちらかというと、数十人にも及ぶキャラクター達の膨大な設定と、彼らの暮らす世界の通貨やら単位系やらにまで言及した細々とした世界設定と、世界の始まりと終わりを股にかけるようなやたら壮大なストーリーを盛り込んだ、超大作RPGを作るプランナー的な立場に超憧れていて、RPGツクールとかRPGメーカーとかを買ってはみたものの、最初の村すら完成させる事ができず、いやまあそんな事はどうでもいいんですが、とにかく「クリエイター」に憧れてはいたけれども「プログラマー」には憧れてはいなかったと思うんですよ。
そもそもこのサイトを作り始めたきっかけは、自作の絵をメインコンテンツとして公開する場所を設けたかったからだと思います。そう、今じゃ年に2回くらいしか絵を描かなくなってしまいましたが、当初の自分の心の拠り所は「絵描き」だったのです。将来はキャラクターデザイナーになりたいとか、イラストレーターになりたいとか、そんな事を夢想していたりもしたのです。
またある時は、プロモデラーに憧れた事もありました。プロポーションをいじる加工のやり方や関節を増やす加工のやり方を勉強して、MG RX-78-2 Ver.kaをスマートにする改造とか電撃ホビー付録のとにかく動かない1/144 TR-1ヘイズルをフル可動にする改造とかやったりもしました。が、今では成形色仕上げのお手軽パチ組みが関の山です。
どうしてこうなったのか、理由はたくさんあると思うんですが、自分の内面的な最大の理由は「面倒だったから」で説明できる気がします。
絵を描くのってめんどくさいんですよね、ぶっちゃけ。背景を真面目に描こうとすると、パース取るのに気をつけなきゃいけないし、木の葉っぱとか窓とか真面目に描くと本当に単純作業だし。それでも頑張って完成させたとしても、雰囲気のいい写真には絶対敵わないわけですよ。風景を描くのが好きで描いてるんじゃなく、風景がないとみっともないから嫌々描いてるだけだから、そこには愛がないのです。
プラモは、塗装がとにかく嫌なんですよね。道具の準備と片付けがものすごくめんどくさい。気が短いから半乾きで触ってしまって指紋べっとり、なんてのはしょっちゅうですよ。乾くの待ってる間に熱意が冷めてしまうし、なんとか頑張って最後まで仕上げた所で、中国のおばちゃん(お姉さん?)が手がけたGFFよりもヘボい仕上がりにしかならないし。とても報われません。塗る楽しさじゃなくて、できあがった物でブブーンドドドドドと遊ぶ方が楽しいのです。いわゆるブンドドです。
それらに比べるとプログラミングは、まだ長続きしてるんですよね。面倒な所はコピペしても誰も文句言われない、むしろそれ(車輪の再発明をしないで、ライブラリを利用するようにする事)が奨励されてるくらいです。自動テストを書くのも、果てしないリグレッションの嵐に終止符を打つ事ができるからです。手作業で10時間かかる面倒な事を10時間かけてこなす事が尊ばれるのではなく、仮に10時間でも20時間でもかかったとしても、実行したら1分で自動的に片付けてくれる自動処理を書く事の方が尊ばれる。それが自分の性に合っているのだと思います。
ただ、すべての人がそうだとは思いません。人によっては、自動化の手順やらなんやらを考える事が苦痛でたまらない、そんな事するくらいだったら淡々と手を動かす方がいいよ、って場合もあるだろうと思います。
そこが多分、自分が一番多くの時間を過ごす事が何になるのかを決めるポイントなんじゃないかと思います。
自分にとって、何が耐え難い苦痛なのか。どうであったら我慢できるのか。苦にならないのか。苦にならない物であれば長続きするわけで、長続きすればそれだけ沢山経験が蓄積されるわけで、嫌々やらされる場合に比べたらそれは大きなアドバンテージになると思うんです。やる気の燃費がいい、というか何というか。
でも、何が耐え難い苦痛になるのかなんて、実際やってみないと分からない部分が大きいんですよね。やってるうちに慣れるかもしれない。というか大抵の事は慣れてしまう。人間の適応力ってすごいみたいです。「美人は3日で飽きるけど、ブスは3日ですぐ慣れる」なんてフレーズもありました。だから、恐れることなく色々手を出していいんじゃないかと思います。若くても、大人でも、それは変わらないんじゃないかと思います。