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言葉が通じない同士で対話するのが面白い「ヘテロゲニア リンギスティコ」、言葉は通じるのに対話ができないのが辛い「魚頭さんと袋さん」 - Oct 31, 2019

最近ニコニコ静画の通知で流れてきた漫画、当初はよくある異世界物かぁ~と思ってあまり食指が動かなかったんだけど、なんとなく読んでみた。そしたら謎の感動を覚えて、それどころか泣きたいような気持ちになってしまって、既刊の電子書籍も全部ぽちって、さらにその気持ちが強まるという体験をした。べつに「泣ける話」ではないはずなんだけど、泣けてくる。何故なのか。

その漫画のタイトルは「ヘテロゲニア リンギスティコ ~異種族言語学入門~」(作:瀬野反人)。現代人で言語学者のハカバ君(劇中ではもっぱら「センセイ」と呼ばれる)が、師事する教授の代理として「魔界」に赴いて現地でフィールドワークをする中で遭遇する、様々な出来事を描く作品だ。内容やテーマが似た作品としては、

などが該当するだろうか。

「常識」「共通言語」が無い異世界の旅路

本作では、

  • 人間(視覚・色覚そこそこ、嗅覚弱い、身体能力低い)

である言語学者の主人公が、魔界のフィールドワークの過程でその地の住人達である

  • ワーウルフ(視覚はあるが色覚は弱い、嗅覚鋭い、身体能力高い)
  • スライム(そもそも個体という概念がない、音声での会話は可能)
  • リザードマン(色覚が鋭い、嗅覚いまいち、身体能力そこそこ)
  • ハーピー(音声会話不能、身体能力高い)
  • ミノタウロス(音声会話は可能)

などなど、感覚器の特性(得意なコミュニケーションチャネル)も背景とする文化も常識もバラバラの様々な種族と出会い、「共通の汎用言語」を持たない彼ら各種族がお互いにお互いの使用言語を擦り合わせながらコミュニケートし、交易したり共同作業したりする様子に寄り添いながら、彼らの文化や言語を実地で体験し研究・習得しようとする様子が描かれる。

作中で描かれる彼ら魔界の住人達のコミュニケーションは、とても大変だ。

  • 人間とリザードマンがお互いに会話できず、ワーウルフが通訳に立とうとするが、嗅覚メインのワーウルフにとっては音声言語は疲れるため、途中でぶっ倒れてしまう。
  • あるミノタウロスの個体はワーウルフ語を知らないため音声会話ができず、ダンスで意志を伝えるハーピーの言語でリザードマンやワーウルフと会話する羽目になる。
  • 増水した川のほとりでいくつもの種族が足止めを食らい、協力して橋をかけて川を渡ろうとするのだが、お互いの言語や文化が違うため指示がうまく伝わらず、諦めてみんな「冬になって川が凍るまで待つ」構えになってしまう。

一事が万事この調子で、とはいえ旅を急ぐ理由もこれといって無いため(そもそも主人公の目的はフィールドワークそのものなので、移動の目的地は便宜上の物でしかない)、主人公はゆるゆると彼らの歩調に合わせて着いていく。大変ではあるがそこに悲壮感は無く、起こった事・出会った物を淡々と・飄々と受け入れていく。その様子が何だかおかしくて、時折クスリと笑わされ、時折感慨に耽らされる。そんな不思議な温度感の作品だ。

異世界でなくとも実は身近な所にあるディスコミュニケーション

ヘテロゲニア リンギスティコは、公式の情報では「ギャグ漫画」という括りになっている。確かに、「異文化に出会った時のギャップをおもしろおかしく描いている」ので、ギャグと言っても間違いではないと思う。でも僕には、本作はとてもシリアスで真剣な、真正面からコミュニケーションという物の困難さを描いた漫画だと思える。ただ、真剣に真面目にやればやるほどそれが(傍目には)滑稽に見えてしまう時もある、というだけのことなのではないだろうか?

というかひょっとしたら、「異世界もの」という括りで捉えるのが間違っている可能性すらあるのではないだろうか。ここまでに書いた紹介で「現実離れした空想の世界の冒険譚」のように思えてくるかも知れないけれど、これはよくよく考えてみれば現実の人間社会と何ら変わらない。

  • 五体満足な人
  • 四肢を欠損した人、生まれつき四肢がない人
  • ALSなどの病気や生まれつきの障害で体を動かせない人
  • 色覚異常で色の判別ができない人、特定の色だけ判別が出来ない人
  • 目が全く見えない人
  • 耳が全く聞こえない人
  • 声を出せない人
  • 自閉症スペクトラムの人
  • ADHDの人
  • 暑い土地に暮らす人、寒い土地に暮らす人
  • 水の豊富な土地に暮らす人、乾いた砂漠に暮らす人
  • 肌の白い人、黒い人
  • キリスト教の教えに従って生きる人
  • イスラム教の教えに従って生きる人
  • 仏教の教えに従って生きる人
  • 男の人、女の人
  • 異性愛の人、同性愛の人
  • 心と身体の性別が食い違っている人
  • 性欲を持たない人
  • テレビを見る人、見ない人
  • ネットを使う人、使わない人
  • 住む家がある人、無い人
  • 職がある人、無い人

マクロな違いからミクロな違いまで、挙げればいくらでも出てくる。「万人に共通の常識」「万人に通じる言語」「万人が使えるコミュニケーションチャネル」というものは存在せず、多くの人が実はそういったものの違いを乗り越えての対話を試みている、というのが現実の人間社会だったりする。

そう考えると、本作は「異世界の」「様々な異種族」という体裁で、そういった差異をディフォルメして描いているに過ぎないのではないだろうか。「想像力を自由に遊ばせて描かれた異世界を楽しむ」作品というよりも、異世界の描写を材料にして現実のこの人間社会がいかにディスコミュニケーションに満ちあふれているかを炙り出している作品なのではないか? 描こうとしているのは実は異世界ではなく人間社会の方なのではないか? そんな風に僕には思えてくる。

 

似た作品として名前を挙げなかった作品に「異世界転生したけど日本語が通じなかった」通称「いせにほ」(作:Fafs F. Sashimi)がある。これは、「異世界転生もの」でよくある「転生した後の世界でなぜか日本語が通じる」現象自体をネタにして、架空の異世界語を主人公が習得していくという様子を描いた作品だそうで、名前を挙げなかったのは単に僕が未読だったからなんだけど、「ヘテロゲニア」についての言及を調べていた時に、この両者を比較して「『いせにほ』は世界観を充分に作り込んであって、そういう物を期待して『ヘテロゲニア』を読んだのだが、期待外れだった」という感想を見かけた。

前述したような事を踏まえると、この感想もむべなるかなという風に思える。「いせにほ」が言語そのものや異世界の文化そのものにフォーカスを当てた作品であるとするなら、「ヘテロゲニア」では描かれる異世界の言語や文化そのものに深い意味や背景は無いのではないかと思う。それよりも本作が明らかに力を入れているのは「必死でコミュニケートしようとする様子そのものの描写」の方であるという事を考えると、本作における異世界言語や異文化というのは究極的には、ただ人類にとって理解困難な物でさえあれば事足りる小道具で、いわゆるマクガフィンに過ぎないのではないだろうか?

言葉は通じるのに会話が成立しないというディスコミュニケーション

ヘテロゲニア リンギスティコを語る上で僕は、同じ作者による過去作の「魚頭さんと袋さん」の存在を無視できないと思っている。

「魚頭さん~」は、現代の日本で同居生活を送る「魚頭さん」と「袋さん」という2人の人物が、お互いの常識や感覚の違いで衝突したりすれ違ったりする、という様子をエッセイ風に描いた漫画だ。しかし「風」とはいうものの、袋さんは漫画家として設定されていて、作品全体は袋さんの一人称視点で進行するあたり、本作は作者の瀬野反人氏の実体験に基づいて描かれたのではないか?と思わずにはいられない。

「ヘテロゲニア~」と比較して興味深いのは、「魚頭さん~」では2人の間で会話が成立するはずなのに、肝心な所ではとことん話が食い違ってしまうという点だ。悪意で相手の言う事を歪めて受け取っている訳では決してないはずなのに、むしろ互いに好意を持っていて相手のことを慮って気を回しているはずなのに、良かれと思ってした事が相手にとっては望む所でなく、その繰り返しの中でディスコミュニケーションが加速して、お互いに心の安定を失って病んでいく。

  • 言葉が通じて、分かり合えるはずなのに、なぜか話が通じず・分かり合えず、苦しみが増幅されていく「魚頭さんと袋さん」
  • 言葉が通じなくて、分かり合えない所は多いのに、なぜかみんなうまくやっていて、いい感じに共存している「ヘテロゲニア リンギスティコ」

このように対比すると、僕にはこの2作が鏡映しの関係のように思えてならない。

この2作の間で決定的に異なっている点はどこか。それは、

  • 「魚頭さんと袋さん」では(特に「魚頭さん」が)「今は理解できていなくても、対話すればきっとすぐに相手を理解できるはず」という希望・期待を強く持っている
  • 「ヘテロゲニア リンギスティコ」では登場人物達(の中でも、特に大人達)がそういう希望・期待を持っておらず、「理解はとても難しい、もしかしたら不可能かもしれない、だとしてもしょうがない、どうしようもない」と徹底してドライに突き放している

という点だと思う。もしかしたらそのドライさこそが、本作で描かれる異世界において、あまりにかけ離れた種族達同士でのコミュニケーションと共存が可能となっている重要な鍵なのではないだろうか?

「分かり合えない」という諦めがあって初めて共存できるという事

そう、「ヘテロゲニア」において魔界の住人達は、主人公が驚くほどにお互いに無理解・無関心であるかのように描かれる。しかし重要なのは、その「無理解」が「敵対」を意味してはいないという事だ。お互いに話がどうしても通じなさそうだとなったら、諦めて放ったらかす。自分達に対して害をなすものでない限り、それ以上踏み込まず干渉しない。分からないものは分からないままで放置する。それこそが肝要で、だから彼らは衝突せずに済んでおり、共存できている。

対する「魚頭さんと袋さん」では、特に「魚頭さん」がなんだけど、とにかく諦めない。放ったらかしてくれずに干渉してくる。逆に、「袋さん」が彼を放ったらかしにすると、それは自分に対する害意の顕れだと決めつけて、それでどんどん病んでいく。分かり合えるはずだという信念があるが故に、自分とは根本的な異質な存在である「袋さん」がする事を、「魚頭さん」は「自分ならこうする」「自分がこれをする時は、こういう考えでする」という自分の価値観での解釈に基づいて、「だから袋さんもそうなんだ、そうに違いない、理解した!」と一人で早合点して、「じゃあ自分ならこうしてほしいから、袋さんにもこうしてあげよう!」と再び善意で干渉する。それ故に衝突がいつまでもなくならず、傷付け合う。

自分の価値観・常識で相手のことを推測して「理解できた」と決めつけてしまうというのは、的外れで、傲慢で、時にとても失礼な事だ。例えそれが善意でした事だったとしても。

そういえば、先日「聖おにいさん」におけるイエスやブッダの極めて「俗世の人間っぽい」描き方を批判する文脈で、「ホントは十字架なんてダルいはず」という日本人特有のオンナジ意識を強烈に感じます。「ムスリムだって本当は礼拝するのダルいはず」「本当は豚食べて酒飲みたいはず」という類です。日本人の感覚でしか他者を理解できない。他者を他者として理解できないのだと思います。 という評を見かけた。自分も「聖~」を楽しんで読んでいたクチだけど、こう言われてはハッとせずにいられない。自分もまた現在進行形で、エンターテインメントの世界ででも、異質な他者を自分の価値観で「理解した」と無自覚に勘違いしていたという事を、今になって恥ずかしく感じてしまう。

「ヘテロゲニア」1巻の終盤で、主人公は根本的な所で彼ら魔界の住人達の価値観を分かっていなかったと思い知る。そして、フィールドワークの大先輩である教授がメモに書き記した、こんな一節を見つける。

私が理解だと思っていたことは
理解ではなく解釈だった
理解への壁は限りなく高い
今後はその自覚を持って臨む

このように言葉にしてそう意識できる人が、はたしてどれだけいるだろう?

「理解の諦め」と「対話の拒絶」は別

そして、ここがまた興味深い所なのだけれど、「理解できない」からといって彼ら魔界の住人は、互いにそうそう敵対も排斥もしない。

彼らは話が通じないなりに、互いに通じ合えるコミュニケーションチャネルを模索しあう。話す前から相手の事を決めつけないで、「話してみないと分からない」と考え、必要とあらば道具も使い工夫もして、なんとか対話してみようとする。決して対話を軽視してはいない。本作は、そういうやり取りの様子をこれでもかとしつこく描いている。

善意ででも相手の事を決めつけてはいけない。
理解できない相手のことは、無理に理解しようとせずそのまま受容するのがよい。
その上で、通じ合える部分を探してコミュニケートするのがよい。
そうして共存する。

これを何と呼ぶか、僕らはその言葉を知っている。
「尊重」だ。

本作は「コミュニケーションの困難さ」と同時に、「相手を尊重するとはどういう事か」をも語っているのだ。

彼ら魔界の住人達は、自分達の喧嘩に主人公を立ち入らせない。自分の味方に付けるために都合よく話すという事もなく、ただいたずらに関わられるのは拒否する。

彼らの文化で意義あるとされる事を主人公はしないと言って、幼いススキはそれで気を悪くするけども、大人達は「そういうものだ」とただ受容する。

それもこれも「互いを尊重している」という事の顕れではないか?

もちろん、魔界の住人達がそんな意識でそうしているとは限らない。これだって「現代日本に生きる僕」の価値観での解釈でしかなく、実際の所は、単に面倒だからとか、そうするとより大きな利益を引き出せるからとか、あるいはひょっとしたら、人類には全く理解できない動機でなされた結果としての「見かけの上での尊重・共存」なのかもしれない。

しかし、そうだったとして何が問題だというのだろう? 動機が何であれ、尊重するという事の本質とは関係無いのではないか?

尊重とはこういう事だ、と言葉で言うのは簡単だけれど、その概念を理解できない人にとって、それがどういう事かというのを理解するのは非常に困難だ。
本作はそれを、「魔界の住人達の振る舞いを描く事」を通じて雄弁に語っている。
それでいてエンターテインメントとして面白い作品に仕上がっている。非常にユニークな作品だと僕には思える。

架空の世界、であるということ

すべての人が互いに相手を尊重しあっている世界、なんてのは現実には存在しない。実際には、利己的に自分の利益だけを追求するプレーヤーもいれば、悪意で相手のことを決めつけていがみ合うプレーヤーも、善意で決めつけて疲弊しあうプレーヤーもいる。

だから、本作で描かれる魔界はそういう意味において、確かに紛れもなく「異世界」なのだと思う。様々な人がいて絶えずディスコミュニケーションが発生する現実の人間社会のディフォルメでありつつ、しかし現実とは決定的に異なる、紛れもなくなろう系異世界ものに伝統的な「ご都合主義の理想的な世界」だ。それか、良く言ってせいぜい「おとぎ話の世界」だ。

だからこそ、僕は本作を読んで泣きたくなってしまったのかもしれない。同じ日本語を使っていてすら決めつけと無理解と相互不和が渦巻いている、最近だけでも「表現の不自由展・その後」を巡ってゴタゴタし「宇崎ちゃん」献血ポスターを巡って男と女が殴り合いそれどころか女同士でも殴り合い、いがみ合いに溢れているTwitterのタイムラインばかり見ているから、魔界の住人達が「お互いフラットに尊重し合って対話している」様子を尊く感じて泣きたくなり、それが現実にはないおとぎ話だという事を思い知らされてまた泣きたくなっている、という事なのかもしれない。

おわりに

もし「袋さん」の独白が作者氏の内心の吐露に近いものであったのなら、「魚頭さんと袋さん」で描かれた、分かり合えるはずなのに分かり合えないディスコミュニケーションの苦悩や、「普通の人」の常識に寄り添った面白さの理解に苦しんだ事など様々な事が、昇華され非常にユニークな作品「ヘテロゲニア」として結実した、と言う事ができるのではないだろうか。

他人の事でも何でも「こうに違いない」と決めつけてしまいがちな自分は、「そういうストーリー」を勝手に組み立てて決めつけて勝手に「感動」してしまっている。それ自体もまた皮肉な事なんだけれども。

 

僕は何度か海外旅行を経験しているけれど、新婚旅行でほとんど全部パックになったツアーで行った時以外は、現地の人と拙い英語でコミュニケーションするのが、非常に大変ではありながらもとても楽しい体験と感じた。肌の色も顔つきも違う、そのくらい「違っている」と見て取れると、こちらとしても「通じるはず」の期待値が極限まで下がるので、「これは腰を据えてコミュニケーションを取らねば」と思えるし、「大丈夫なのか? ほんとに通じてる?」と始終不安に駆られて緊張しっぱなしだ。でもその分、したいことを上手く伝えられると、期待が満たされると、それだけで非常に嬉しく感じる。

なのに、日本にいるとそういう事を意識することがあまりない。話が通じないとイラついてしまう、察してもらえないと不満に思ってしまう。雑な指示で仕事を依頼しておいて、自分の雑なコミュニケーションを棚に上げて、思うような結果にならなかったと怒る。見た目に違いが分からないだけで、こうまで期待値が上がってしまうものなのかと、自分自身の事なのに驚かされる。

 

コミュニケーションを取れるとは、言語が通じる事ではない。相手の事を自分の価値観で勝手に決めつけない事だ。
共存できない相手とは、言語が通じない相手の事じゃない。こちらの事を相手の価値観で決めつけてくる者の事だ。

自分の理解を超えた異質な存在や物事と出会った時には、仮にそれについてどんな解釈ができたとしても、証拠を得られるまでは「理解した」気にならないで、あくまで「こう解釈したに過ぎない」という所で踏みとどまっておかないといけない。
「言葉の通じない世界」で「相手の事を決めつけない者達ばかり」が描かれる本作を読んで、僕は逆説的に、そう意識させられたのでした。

分類:レビュー・感想 > マンガ, , , , 時刻:08:39 | Comments/Trackbacks (0) | Edit

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