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最近ニコニコ静画の通知で流れてきた漫画、当初はよくある異世界物かぁ~と思ってあまり食指が動かなかったんだけど、なんとなく読んでみた。そしたら謎の感動を覚えて、それどころか泣きたいような気持ちになってしまって、既刊の電子書籍も全部ぽちって、さらにその気持ちが強まるという体験をした。べつに「泣ける話」ではないはずなんだけど、泣けてくる。何故なのか。
その漫画のタイトルは「ヘテロゲニア リンギスティコ ~異種族言語学入門~」(作:瀬野反人)。現代人で言語学者のハカバ君(劇中ではもっぱら「センセイ」と呼ばれる)が、師事する教授の代理として「魔界」に赴いて現地でフィールドワークをする中で遭遇する、様々な出来事を描く作品だ。内容やテーマが似た作品としては、
などが該当するだろうか。
本作では、
である言語学者の主人公が、魔界のフィールドワークの過程でその地の住人達である
などなど、感覚器の特性(得意なコミュニケーションチャネル)も背景とする文化も常識もバラバラの様々な種族と出会い、「共通の汎用言語」を持たない彼ら各種族がお互いにお互いの使用言語を擦り合わせながらコミュニケートし、交易したり共同作業したりする様子に寄り添いながら、彼らの文化や言語を実地で体験し研究・習得しようとする様子が描かれる。
作中で描かれる彼ら魔界の住人達のコミュニケーションは、とても大変だ。
一事が万事この調子で、とはいえ旅を急ぐ理由もこれといって無いため(そもそも主人公の目的はフィールドワークそのものなので、移動の目的地は便宜上の物でしかない)、主人公はゆるゆると彼らの歩調に合わせて着いていく。大変ではあるがそこに悲壮感は無く、起こった事・出会った物を淡々と・飄々と受け入れていく。その様子が何だかおかしくて、時折クスリと笑わされ、時折感慨に耽らされる。そんな不思議な温度感の作品だ。
ヘテロゲニア リンギスティコは、公式の情報では「ギャグ漫画」という括りになっている。確かに、「異文化に出会った時のギャップをおもしろおかしく描いている」ので、ギャグと言っても間違いではないと思う。でも僕には、本作はとてもシリアスで真剣な、真正面からコミュニケーションという物の困難さを描いた漫画だと思える。ただ、真剣に真面目にやればやるほどそれが(傍目には)滑稽に見えてしまう時もある、というだけのことなのではないだろうか?
というかひょっとしたら、「異世界もの」という括りで捉えるのが間違っている可能性すらあるのではないだろうか。ここまでに書いた紹介で「現実離れした空想の世界の冒険譚」のように思えてくるかも知れないけれど、これはよくよく考えてみれば現実の人間社会と何ら変わらない。
マクロな違いからミクロな違いまで、挙げればいくらでも出てくる。「万人に共通の常識」「万人に通じる言語」「万人が使えるコミュニケーションチャネル」というものは存在せず、多くの人が実はそういったものの違いを乗り越えての対話を試みている、というのが現実の人間社会だったりする。
そう考えると、本作は「異世界の」「様々な異種族」という体裁で、そういった差異をディフォルメして描いているに過ぎないのではないだろうか。「想像力を自由に遊ばせて描かれた異世界を楽しむ」作品というよりも、異世界の描写を材料にして現実のこの人間社会がいかにディスコミュニケーションに満ちあふれているかを炙り出している作品なのではないか? 描こうとしているのは実は異世界ではなく人間社会の方なのではないか? そんな風に僕には思えてくる。
似た作品として名前を挙げなかった作品に「異世界転生したけど日本語が通じなかった」通称「いせにほ」(作:Fafs F. Sashimi)がある。これは、「異世界転生もの」でよくある「転生した後の世界でなぜか日本語が通じる」現象自体をネタにして、架空の異世界語を主人公が習得していくという様子を描いた作品だそうで、名前を挙げなかったのは単に僕が未読だったからなんだけど、「ヘテロゲニア」についての言及を調べていた時に、この両者を比較して「『いせにほ』は世界観を充分に作り込んであって、そういう物を期待して『ヘテロゲニア』を読んだのだが、期待外れだった」という感想を見かけた。
前述したような事を踏まえると、この感想もむべなるかなという風に思える。「いせにほ」が言語そのものや異世界の文化そのものにフォーカスを当てた作品であるとするなら、「ヘテロゲニア」では描かれる異世界の言語や文化そのものに深い意味や背景は無いのではないかと思う。それよりも本作が明らかに力を入れているのは「必死でコミュニケートしようとする様子そのものの描写」の方であるという事を考えると、本作における異世界言語や異文化というのは究極的には、ただ人類にとって理解困難な物でさえあれば事足りる小道具で、いわゆるマクガフィンに過ぎないのではないだろうか?
ヘテロゲニア リンギスティコを語る上で僕は、同じ作者による過去作の「魚頭さんと袋さん」の存在を無視できないと思っている。
「魚頭さん~」は、現代の日本で同居生活を送る「魚頭さん」と「袋さん」という2人の人物が、お互いの常識や感覚の違いで衝突したりすれ違ったりする、という様子をエッセイ風に描いた漫画だ。しかし「風」とはいうものの、袋さんは漫画家として設定されていて、作品全体は袋さんの一人称視点で進行するあたり、本作は作者の瀬野反人氏の実体験に基づいて描かれたのではないか?と思わずにはいられない。
「ヘテロゲニア~」と比較して興味深いのは、「魚頭さん~」では2人の間で会話が成立するはずなのに、肝心な所ではとことん話が食い違ってしまうという点だ。悪意で相手の言う事を歪めて受け取っている訳では決してないはずなのに、むしろ互いに好意を持っていて相手のことを慮って気を回しているはずなのに、良かれと思ってした事が相手にとっては望む所でなく、その繰り返しの中でディスコミュニケーションが加速して、お互いに心の安定を失って病んでいく。
このように対比すると、僕にはこの2作が鏡映しの関係のように思えてならない。
この2作の間で決定的に異なっている点はどこか。それは、
という点だと思う。もしかしたらそのドライさこそが、本作で描かれる異世界において、あまりにかけ離れた種族達同士でのコミュニケーションと共存が可能となっている重要な鍵なのではないだろうか?
そう、「ヘテロゲニア」において魔界の住人達は、主人公が驚くほどにお互いに無理解・無関心であるかのように描かれる。しかし重要なのは、その「無理解」が「敵対」を意味してはいないという事だ。お互いに話がどうしても通じなさそうだとなったら、諦めて放ったらかす。自分達に対して害をなすものでない限り、それ以上踏み込まず干渉しない。分からないものは分からないままで放置する。それこそが肝要で、だから彼らは衝突せずに済んでおり、共存できている。
対する「魚頭さんと袋さん」では、特に「魚頭さん」がなんだけど、とにかく諦めない。放ったらかしてくれずに干渉してくる。逆に、「袋さん」が彼を放ったらかしにすると、それは自分に対する害意の顕れだと決めつけて、それでどんどん病んでいく。分かり合えるはずだという信念があるが故に、自分とは根本的な異質な存在である「袋さん」がする事を、「魚頭さん」は「自分ならこうする」「自分がこれをする時は、こういう考えでする」という自分の価値観での解釈に基づいて、「だから袋さんもそうなんだ、そうに違いない、理解した!」と一人で早合点して、「じゃあ自分ならこうしてほしいから、袋さんにもこうしてあげよう!」と再び善意で干渉する。それ故に衝突がいつまでもなくならず、傷付け合う。
自分の価値観・常識で相手のことを推測して「理解できた」と決めつけてしまうというのは、的外れで、傲慢で、時にとても失礼な事だ。例えそれが善意でした事だったとしても。
そういえば、先日「聖おにいさん」におけるイエスやブッダの極めて「俗世の人間っぽい」描き方を批判する文脈で、「ホントは十字架なんてダルいはず」という日本人特有のオンナジ意識を強烈に感じます。「ムスリムだって本当は礼拝するのダルいはず」「本当は豚食べて酒飲みたいはず」という類です。日本人の感覚でしか他者を理解できない。他者を他者として理解できないのだと思います。
という評を見かけた。自分も「聖~」を楽しんで読んでいたクチだけど、こう言われてはハッとせずにいられない。自分もまた現在進行形で、エンターテインメントの世界ででも、異質な他者を自分の価値観で「理解した」と無自覚に勘違いしていたという事を、今になって恥ずかしく感じてしまう。
「ヘテロゲニア」1巻の終盤で、主人公は根本的な所で彼ら魔界の住人達の価値観を分かっていなかったと思い知る。そして、フィールドワークの大先輩である教授がメモに書き記した、こんな一節を見つける。
私が理解だと思っていたことは
理解ではなく解釈だった
理解への壁は限りなく高い
今後はその自覚を持って臨む
このように言葉にしてそう意識できる人が、はたしてどれだけいるだろう?
そして、ここがまた興味深い所なのだけれど、「理解できない」からといって彼ら魔界の住人は、互いにそうそう敵対も排斥もしない。
彼らは話が通じないなりに、互いに通じ合えるコミュニケーションチャネルを模索しあう。話す前から相手の事を決めつけないで、「話してみないと分からない」と考え、必要とあらば道具も使い工夫もして、なんとか対話してみようとする。決して対話を軽視してはいない。本作は、そういうやり取りの様子をこれでもかとしつこく描いている。
善意ででも相手の事を決めつけてはいけない。
理解できない相手のことは、無理に理解しようとせずそのまま受容するのがよい。
その上で、通じ合える部分を探してコミュニケートするのがよい。
そうして共存する。
これを何と呼ぶか、僕らはその言葉を知っている。
「尊重」だ。
本作は「コミュニケーションの困難さ」と同時に、「相手を尊重するとはどういう事か」をも語っているのだ。
彼ら魔界の住人達は、自分達の喧嘩に主人公を立ち入らせない。自分の味方に付けるために都合よく話すという事もなく、ただいたずらに関わられるのは拒否する。
彼らの文化で意義あるとされる事を主人公はしないと言って、幼いススキはそれで気を悪くするけども、大人達は「そういうものだ」とただ受容する。
それもこれも「互いを尊重している」という事の顕れではないか?
もちろん、魔界の住人達がそんな意識でそうしているとは限らない。これだって「現代日本に生きる僕」の価値観での解釈でしかなく、実際の所は、単に面倒だからとか、そうするとより大きな利益を引き出せるからとか、あるいはひょっとしたら、人類には全く理解できない動機でなされた結果としての「見かけの上での尊重・共存」なのかもしれない。
しかし、そうだったとして何が問題だというのだろう? 動機が何であれ、尊重するという事の本質とは関係無いのではないか?
尊重とはこういう事だ、と言葉で言うのは簡単だけれど、その概念を理解できない人にとって、それがどういう事かというのを理解するのは非常に困難だ。
本作はそれを、「魔界の住人達の振る舞いを描く事」を通じて雄弁に語っている。
それでいてエンターテインメントとして面白い作品に仕上がっている。非常にユニークな作品だと僕には思える。
すべての人が互いに相手を尊重しあっている世界、なんてのは現実には存在しない。実際には、利己的に自分の利益だけを追求するプレーヤーもいれば、悪意で相手のことを決めつけていがみ合うプレーヤーも、善意で決めつけて疲弊しあうプレーヤーもいる。
だから、本作で描かれる魔界はそういう意味において、確かに紛れもなく「異世界」なのだと思う。様々な人がいて絶えずディスコミュニケーションが発生する現実の人間社会のディフォルメでありつつ、しかし現実とは決定的に異なる、紛れもなくなろう系異世界ものに伝統的な「ご都合主義の理想的な世界」だ。それか、良く言ってせいぜい「おとぎ話の世界」だ。
だからこそ、僕は本作を読んで泣きたくなってしまったのかもしれない。同じ日本語を使っていてすら決めつけと無理解と相互不和が渦巻いている、最近だけでも「表現の不自由展・その後」を巡ってゴタゴタし、「宇崎ちゃん」献血ポスターを巡って男と女が殴り合い、それどころか女同士でも殴り合い、いがみ合いに溢れているTwitterのタイムラインばかり見ているから、魔界の住人達が「お互いフラットに尊重し合って対話している」様子を尊く感じて泣きたくなり、それが現実にはないおとぎ話だという事を思い知らされてまた泣きたくなっている、という事なのかもしれない。
もし「袋さん」の独白が作者氏の内心の吐露に近いものであったのなら、「魚頭さんと袋さん」で描かれた、分かり合えるはずなのに分かり合えないディスコミュニケーションの苦悩や、「普通の人」の常識に寄り添った面白さの理解に苦しんだ事など様々な事が、昇華され非常にユニークな作品「ヘテロゲニア」として結実した、と言う事ができるのではないだろうか。
他人の事でも何でも「こうに違いない」と決めつけてしまいがちな自分は、「そういうストーリー」を勝手に組み立てて決めつけて勝手に「感動」してしまっている。それ自体もまた皮肉な事なんだけれども。
僕は何度か海外旅行を経験しているけれど、新婚旅行でほとんど全部パックになったツアーで行った時以外は、現地の人と拙い英語でコミュニケーションするのが、非常に大変ではありながらもとても楽しい体験と感じた。肌の色も顔つきも違う、そのくらい「違っている」と見て取れると、こちらとしても「通じるはず」の期待値が極限まで下がるので、「これは腰を据えてコミュニケーションを取らねば」と思えるし、「大丈夫なのか? ほんとに通じてる?」と始終不安に駆られて緊張しっぱなしだ。でもその分、したいことを上手く伝えられると、期待が満たされると、それだけで非常に嬉しく感じる。
なのに、日本にいるとそういう事を意識することがあまりない。話が通じないとイラついてしまう、察してもらえないと不満に思ってしまう。雑な指示で仕事を依頼しておいて、自分の雑なコミュニケーションを棚に上げて、思うような結果にならなかったと怒る。見た目に違いが分からないだけで、こうまで期待値が上がってしまうものなのかと、自分自身の事なのに驚かされる。
コミュニケーションを取れるとは、言語が通じる事ではない。相手の事を自分の価値観で勝手に決めつけない事だ。
共存できない相手とは、言語が通じない相手の事じゃない。こちらの事を相手の価値観で決めつけてくる者の事だ。
自分の理解を超えた異質な存在や物事と出会った時には、仮にそれについてどんな解釈ができたとしても、証拠を得られるまでは「理解した」気にならないで、あくまで「こう解釈したに過ぎない」という所で踏みとどまっておかないといけない。
「言葉の通じない世界」で「相手の事を決めつけない者達ばかり」が描かれる本作を読んで、僕は逆説的に、そう意識させられたのでした。
実体験ベースではなく何かの本がベースにあると確信しています。
死んだ後に食べてもらえないことがショックな感覚とかは「Strange in a Strange Land」にもありますが、珍しくない題材なので他にもたくさんあると思うんですが、「架空のお話ができない(そういう概念自体が存在しない)」という事象へのショックというのは、私はとある一冊の本でしか経験がないのですが、強烈だったので覚えていました。
(ヘテロゲニアでは"物語をもたない"と表現されています)
「例えば〜」という話ができない、存在しない概念としての数は数えられない、架空のお話に自分の名前が出てくると激しく動揺する、この点は当時の自分にはすごくショックでよく覚えています。
ただ、子供の時から大量に本を読むタイプだったのと、当時小学生だったのですが、英語・ドイツ語・日本語の本のうちどれだったかも思い出せないくらいで、タイトルも作者も、それが児童文学やSciFi等ファンタジーだったのか、学術書か論文だったのかも分かりません…
ただ、都合上、どこかの原住民とのやり取りを研究したものか、単にそれらをまとめた資料(本)のようなものだったのではないかと想定してはいますが…
(なんとなく日本語じゃなかった気がします…とはいっても和訳本は存在するかもしれませんが)
どうしてもどの本だったか気になるので、このマンガを読んだ人が気づくんじゃないかとググってみてるんですが、全然話題にないので、少なくとも日本で有名な本ではないのかもしれません…
気になってモヤモヤしています。
の末尾に2020年11月30日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2019-10-31_heterogenea-lingvistiko.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。
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