宣伝。日経LinuxにてLinuxの基礎?を紹介する漫画「シス管系女子」を連載させていただいています。 以下の特設サイトにて、単行本まんがでわかるLinux シス管系女子の試し読みが可能!
いやね、「みんな仲良くぬるま湯状態」は心理的安全性とは違うとはみなさん言いますけど、それじゃあ「口の悪いベテランが欠点をあげつらって罵倒しまくってて、それに新人がビビってる状態」は心理的安全性があるのかないのか、って話なんですよ。
最近「心理的安全性」という言葉をよく目にします。
最近あった7payのトラブルは、パスワード再発行の仕様がザルで、誕生日とメールアドレスさえ分かれば第三者がアカウントを乗っ取り放題だったせいで、最低でも900人に計5500万円以上の被害が出た上に個人情報も漏洩した恐れがある、という事件でした。以前から一般ユーザーによって危険性が指摘されていたという話も、開発に関わった人が良識を持っていれば絶対に指摘していただろうという話も聞かれて、そういった技術的・倫理的に正しい指摘がきちんとエスカレーションされていさえすれば防げたかもしれない事件だった、なのに誰も止められなかった。何か言えば上司に「余計な事を言って仕事を増やすな」とか「スケジュールを遅延させる気か」と詰られると思うと、皆我が身かわいさに「正しい指摘」を引っ込めざるを得なかった、のではないだろうか。正しい事を正しいと言えなかったがために起こった事故なのだろう。……というような話がまことしやかに囁かれています。
そういう事を防ぐために、正しい事を正しい・間違っている事を間違っているときちんと指摘してよい、指摘しても懲罰的人事などの理不尽な形で不利益を被る事は無いという意識が、メンバー全員で共有されている状態。挑戦に失敗しても致命的なダメージを被らないで済むというセーフティーネットがあるために、意欲的に挑戦してより良い成果を生み出せる状態。みんなで一丸となって、やるべき事をつつがなく遂行できる状態。そういうのを、心理的安全性が高い状態と言うそうです。
詳しい話は心理的安全性ガイドライン(あるいは権威勾配に関する一考察)とかそのあたりの記事を参照してください。
その「心理的安全性」なんですが、急激に流行りだしてバズワードと化したせいか、本来の意味とは異なる意味で使われてしまっている場面があるそうです。具体的には、「批判されると萎縮してしまって何もできなくなる。だから、相手の事を批判してはいけない。みんな仲良く、和気藹々。それが心理的安全性が高い状態である」というような使われ方。
先の説明から続けて読めば、これがどうして「間違った理解」なのかは明白ですよね。「本来の心理的安全性」は筋の通った正しい指摘を引き出す物のはずなのに、「誤用の心理的安全性」では、そういう正論ベースの指摘は「和を乱す物」として否定され得る。明らかな穴があっても、「彼がせっかく頑張って考えたプランなんだから、それでやろうよ」と、穴に目を瞑ってナアナアで済ませる。そうして幾つもの誤りを見過ごして破滅に突き進む。我々はこれを言い表す的確な言葉を既に知っています。「事なかれ主義」です。その単純な言い換え語として「心理的安全性」を使うというのは、確かにいただけません。
でもその一方で、この誤用をしたくなる気持ちを僕は否定もしきれないんですよね。何故なら世の中には、「論理的に正しいかどうかがすべて」を信条に、人の神経を逆撫でしたりこき下ろしたりする人がいるからです。ただの観測範囲の問題かも知れないんですけど、「(IT)エンジニア」にはそういう人が目立つような印象が、僕にはあります。
「あなたの言ってる事は間違ってる。これこれこういう場合に矛盾する。正しくない。」
「いや、それはレアケースで、今は問題にしてないんで……」
「そんな但し書きはどこにも無かった。なら、こういう場合も対象だと考えるのが自然。」
「いや、そもそもの文脈がそうじゃないから言ってなかったのであって、文脈を踏まえれば……」
「そんないいかげんな前提を恣意的に持ち出すな。文脈の話にすり替えるな。」
「すり替えとかじゃなくて……」
「後出しで言い逃れをするんじゃない。話をはぐらかすな。」
「はぐらかしてるとかじゃなくて……そんな言い方しないでも……」
「そもそも、この話題に言及するなら当然この程度の事は考慮しておくものだ。それを怠っていたのはあなたの非だ。それを棚に上げて、言い方がどうとかの本質的でない事をあげつらって、自分の非をごまかすな。」
具体的事例ではない誇張した架空の会話なので、藁人形論法だと言われてしまうと、以下の話は全く説得力がなくなるのですが。
僕はそういうコミュニケーションが良い物だとは思わないのですが、実際に公に許容されている例はあります。例えばLinuxカーネルの生みの親であるリーナス・トーバルス氏は、プロジェクトの趣旨に沿わない提案や筋の通っていない提案に対して度々ブチ切れて下品な罵倒をする、という事で知られています(いました)。
昨年には人の気持ちを勉強してくると言って一時的に身を退くというニュースが報じられ、帰ってきてからは実際に物腰が柔らかくなったという事がまた話題になる、なんて事もありました。
Linuxカーネル今や技術インフラの一つとも言える状況で、ちょっとしたミスや軽々しく行われた変更でも世界中に甚大な影響を与えかねません。そういった不注意や浅慮を退ける防波堤として強権的な姿勢が必要なのだ、ソフトウェアの品質を高く保つためには厳然たる態度が必要なのだ、粘り強い説得だの丁寧な却下だのをいちいちやっていたら埒が開かない、駄目な物は駄目とバッサリやらなければならないのだ……という意見には確かにある程度の説得力があり、そのため氏の暴言は問題視されつつも受け入れられてきていた、ように僕には思えます。
端的に言えば「口の悪いベテラン」といった感じでしょうか。そういう人が口を塞がれてしまって、過ちがむざむざ見過ごされ、そのために(冒頭の7payの件のように)大きな事故が起こってしまう……という事を防ぐには、彼には報復や懲罰を気にせず正しい指摘をしてもらった方が良いように思えます。おお、これぞまさに正しき心理的安全性ではないですか。思った事はなんでも正直に言えるのが一番! 心理的安全性バンザイ!
いやいやいや、ちょっと待って下さい。誰かが不注意でしでかしてしまったミスを彼がこき下ろしている様子を見て、自分もミスをするかもしれない、ミスしたらこんな風に詰られ晒し者にされて恥をかかされそうだ。怖い。だったら下手な事は何も言わない方がいい、何もしない方がいい……と萎縮する人は絶対出てくるじゃあないですか。特にチームに新たに参入した人、いわゆる新人ほどそうなる気がします。責められるのを恐れて萎縮して身動きが取れなくなる人が出る、それって心理的安全性とは真逆なんじゃないんですか?
「間違いは間違いなんだから、責められても仕方ない」
「ミスしないようにすればいいだけ」
「見栄だの面子だの、気にする方がおかしいんだから捨てちまえ」
「そんな当たり前の事に耐えられないような豆腐メンタルじゃ話にならない」
なるほど、要するに「図太くなればいい、強くなればいい」という事ですね。でもそれを言い出すなら、「懲罰を恐れて正しい事を言わずに引っ込める」のも、刺し違えてでも正義を通すという覚悟の足りない負け犬ではないでしょうか。懲罰を食らわずに済む、という心理的安全性を得られないと正しい事の1つも主張できない人が、なんで他人にばっかり「恥かかされるとか恐れるな、強くなれ」と言えるんでしょうか?
「豆腐メンタルの自分らにとって居心地良いぬるま湯状態にするために、都合良く心理的安全性という言葉を使う」のが誤用なら、「図太い自分らにとって居心地良い弱肉強食状態にするために、都合良く心理的安全性という言葉を使う」のも誤用なんじゃないでしょうか?
そもそもの話に立ち返りましょう。「心理的安全性が高い」とは、不利益を被る事を恐れて萎縮してしまわずに、やるべき事・正しい事をちゃんとできる状態の事を指すはずです。懲罰を恐れるのも萎縮なら、恥をかく事を恐れるのも萎縮です。懲罰をなくすのが1つの対策なら、恥をかくのを恐れずに済むように・面子を無用に傷付けないで済むようにするのも対策であるはずです。図太い人も豆腐メンタルな人も、うまく力を合わせてみんなで共通の目的に取り組んで、最大の成果を挙げられるようにする。それが、「心理的安全性を高めよう」というスローガンの根本にある考え方なのではないでしょうか。いや原典読んでないので想像ですけど。
「論理的に正しくありさえすれば良い、それが全て」と言って憚らない人はどうも、言葉や言い回しの持つ「端的な意味」以外の成分に無頓着・鈍感であるように僕は思っています。言葉のニュアンスや介在する人の意図というものを雑に取り扱うきらいがある・軽んじている気が、僕にはします。
例えば「(相手が)話をすり替えてる」「(相手が)話をはぐらかしている」という表現は、「相手が」、特に主体的にそうしていることを示唆します。なので、相手がわざとそうしているという確信が無い限りは、自分は「論点がずれている」「論点が発散している(ぼやけている)」といった要領で、人ではなく物や事を主語にして話すように気をつけています(そのつもりです)。
こういう時、口の悪い人は「誰がどうとかは関係ない、事実として論点がすり替わってる事が問題なんだから、そんなのどっちでもいい。本質と関係ない」と言いがちな印象が僕にはあります。ですが、そういうその人自身は「相手がわざとそうしているかどうか」という事の事実関係の取り扱いをぞんざいにしていると言えます。自分の発する言葉の取り扱いも雑なら、相手の言葉の受け取り方も雑。ともすれば、自分自身の感情というものについてすら無自覚(俺には感情が無いからさ……なんて言ってみたりもして)。結果、自分の悪感情の発露に過ぎない物を、論理的な正しさに裏打ちされた何かであるかのように言ってのける。それが「口の悪さ」の一つの正体なのではないかと、僕は考えています。
深く論理的に物を考えられる人は、そういう雑な言葉遣いをしないものではないでしょうか。自分の感情、相手の感情、事実関係、全てを厳密に切り分けて慎重な言葉遣いをするものなのではないでしょうか。少なくとも僕はそう信じていて、自分自身そうなりたい、そうあるようにしたいと思っているのですが。
話題が逸れました。心理的安全性の話に戻しましょう。
ていうか、暴言だのなんだのを慎めばそれで解決するっていう簡単な話でもないんですよね。極端な話、指摘をする側が純粋な善意で指摘してるつもりで、相手を馬鹿にしたりしているつもりは無く、丁寧に言葉を選んでいる、客観的にもそうだと観測できるような場合であっても、受け取る側が「ネチネチ嫌味を言われてる……詰問されてる……」と感じるケースだって実際にいくらでもあるわけです。
何故そうなるかといえば、言葉を受け取る側の人の中に「この人は自分を詰る人だ、敵だ」あるいは「自分は人間扱いされるに足る価値が無い、詰られて当たり前なんだ、自分に向けられる言葉は全て詰りであって当然なんだ」のような認識があり、それが事実を歪めて解釈させてしまうからです。カウンセリング等の世界ではこういう事を「認知の歪み」と言い、そういう歪みをいかに取り除くかが鍵となります。
そう、信頼が無ければ人は相手の言葉を信用できないのですよね。どんなに優しい言葉でも、信頼が無ければ疑って悪意にとってしまいます。逆に、信頼さえあれば多少の言葉の暴力は問題になりません。仲間内での軽口にあたる暴言も、信頼があるから許容されるのであって、軽口のつもりで暴言を投げつけ続ければ信頼関係が構築できると考えるのは、因果関係が逆です。
信頼は一朝一夕には築けません。また、他の人との間で築いた信頼は別の人相手には持ち越せません。自分は今まで客観的に正しい事をしてきたのだから、万人に通用する信頼があるはずだ、というわけにはいきません。いきなり出会い頭に正論をぶつけるタイプの人は、そこに気付いていないのではないか、と僕は思っています。
協力関係にある仲間としての信頼を、無用に傷付け合おうとはしていないのだという信頼を、新しいメンバーとの間でいかにして築くか。信頼を当たり前とは考えず、きちんと育てて維持していく必要のある物と捉える事が、チームの心理的安全性という事を真剣に考えるなら必要なのだろう、と僕は思います。
以上、大きなチームや組織を率いる立場の人達がすなる心理的安全性というものの話を、チームを率いた事のない万年ヒラの僕が、原典の論文も読まずに架空の誰かを藁人形に仕立てて語ってみんとした、「おれのかんがえたさいきょうのしんりてきあんぜんせい」の話なのでした。
(このエントリはこのツイートに端を発する一連の雑語りをリライトしたものです)
という話を書いた後で、原典ではないまでも「正しい」心理的安全性について述べてるらしい(誤用が広まっていて嘆かわしい、誤用でない正しい意味を知るべき、という文脈で参照されている様子の)以下の記事を見ました。
1つ目のスライドには辛うじて「心理的安全性とは」という説明の中に「恥をかかされたりすることがないこと」というフレーズがありますが、そこから参照されてる2つ目の記事の時点で 間違っても「コードレビューの時に丁寧に言葉を選ぶこと」や「コミュニケーション上のNGワードを設けること」が「心理的安全性」ではない
と僕の方向で解釈の幅を広げることに釘が刺されていました。さらに3つ目の記事までいくと、突き詰めると「何を言っても報復で刺し殺されはしない」と信じられることが本質だと、そんな風に読めるじゃないですか。
他にもいくつか「正しい」意味の方で言及しているらしい記事を見たのですが、どうも、僕みたいに「恥とかその辺の感情ベースで萎縮してしまうのでは」みたいな所に敢えてフォーカスはしない雰囲気なのかなあ、と……「恥と体面の文化」の日本に持ち込むならそこはけっこう無視できないんじゃないかと僕は思ったんですが。
やっぱ自分には肌の合わない概念なのかな……これを称えて「殺し合い寸前のギリギリの所で殴りあう事こそエンジニアの本分よ!」って思ってる人達が多いのなら、そういう人とは僕は一緒に働きたくない……
いや、もう、むしろ「心理的安全性」の正しい定義はむしろどうでもいいです。僕はこのエントリで長々述べたような事を大事にしたいと思っていることは変わらなくて、「正しい心理的安全性にはそれは含まれない」と言われたら、「じゃあ、それに合わせて理念を変えます」ではなく、「じゃあ、これを心理的安全性と呼ぶのはやめます」という方向になるだけなので。
僕自身は、このエントリで述べた内容はいくつかのバザール型コミュニティでCode of Conductとして掲げられている内容ともマッチしていると思っていて、それをもし「心理的安全性」みたいなワンフレーズで言って適切なんだったらそう呼んでおきたかったし、それならただのオレオレ理論よりは幾分説得力ありそうに見えるだろう、敢えて独自の名称をデッチ上げるのも恥ずかしいし、と考えていたに過ぎないのです。でももし既存の名前が不適切なら、あるいはむしろ、どれが正しい意味なんだというような状況にある言葉なのであれば、いっそ「心理的安全性」というバズワードからは距離を置いて、もう開き直って「Piroポリシー・チーム内コミュニケーション編」とかそんな名前で呼んでおくのがいいんだろうな、と思う次第です。
の末尾に2020年11月30日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2019-07-10_safety.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。
writeback message: Ready to post a comment.