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表現の自由と表現規制に関する自分のスタンスの再確認 - Apr 30, 2022

「月曜日のたわわ」の日経新聞全面広告の批判や擁護に関連した一連の発言の中で、表現規制の一種であるレーティングやゾーニングを肯定する趣旨の事を書いたところ、「表現規制をすべきという根拠を示すべき」という趣旨の指摘を受けたため、自分の考えを整理するために、表現規制という物自体に対する自分のスタンスを振り返ってみました。

表現規制について改めて自分の考えを表明しますと、自分は、公権力で表現を規制するべしと強硬に主張はしないけれど、状況によっては一定の歯止めの必要性を支持する、というスタンスです。端的に言うと「表現規制を弱く肯定」(全否定ではない)です

ですが、他の人が自分の言動を見た場合に、表現規制を強く全面的に支持する者と見なされても仕方の無い状況だということを、今更ですが改めて意識しました。
今後は、すでに他の人による批判・非難の言説を目にしたかどうかに関わらず、自分の信条的に批判するのが当然と思える言説に対しては、なるべく自分の言葉でも発言をするようにしようと思います。

 

最初に述べたとおり、僕は公権力による強い表現規制に積極的に賛成はしません。法に基づく公権力による規制は、悪用される恐れや規制基準見直しの困難さもあり、可能な限り避けるべきと考えているので、せいぜいコンテンツ制作・流通・公表などに関わる業界などでの自主規制による、ゾーニングやレーティングなどまでに留めるのがよいと考えています。(例えば、自分で知識を身に付けてWebサーバーを立てて作品を公表する権利は確保されて然るべきと考えています。)

また、自主規制については、一律に無制限に行うべきと強く主張する考えでもないです。以下のツイートから始まるリプライツリーで紹介されている、自主規制の公法学的研究という本で語られているという「自主規制の許容条件」については、少なくともツイート内で見出しとして挙げられている言葉を見ている限りでは、妥当な限定の仕方であるような印象を感じています。

自分は「表現が野放しではこのような悪影響がこの程度出るから、一刻も早く権力で規制しなくてはならない」といった主張をするに足る定量的な裏付け情報を持っていません。自分個人の主観で「自分は表現の良い影響(ポジティブな価値観の習得など)も悪い影響(偏見の継承・形成・強化など)も受けてきた」と感じていて、あくまで自分の経験に基づいて「自分が受けたような悪影響は軽減するのが望ましいのではないか」と考えているという状態です。

「表現の悪影響を軽減する」方法は、規制以外にもあると僕は考えます。例えば「障害者や性的マイノリティなど、社会的な立場が弱い特定のカテゴリの人々に対する偏見の形成」という悪影響については、偏見を解消するカウンター表現で打ち消す方法もあるでしょう。しかし、偏見を形成しうると僕が思うセンセーショナルな表現は、往々にして大勢に拡散されるのに対し、正しい情報を伝え偏見を解消すると僕が思うカウンター言説は、一部の人だけが小規模に拡散するのみに留まっている印象があり、「カウンター表現さえあれば何も問題ない」と素朴に信じる事まではできずにいます。
(これは、低コストで乱造され拡散されるデマ言説に対し、地道にコストをかけて行われるファクトチェック言説では量・速度の面でも対抗しきれない、という話に類似していると僕は思っています。)
偏見を形成する度合いが強いと思われる表現について、今更偏見を形成し得ない・フィクションをフィクションとして理解できる人向けの表現であるとして、その前提を満たさない人がアクセスしにくくするようレーティング・ゾーニングを行う、といった事を並行して行うことが、偏見の再生産と拡大を防ぐには有効ではないか、と自分は考えています。

自分自身も今、末席も末席で表現者の一人として活動していますが、自分が直接する表現や、自分が関わる表現においては、自分の信条に従って、悪い影響を減じるための規制に相当する自粛を自主的にしている認識です。
他の表現者の人達や社会に対しては、それを見て自発的に賛同してくれる人が出てくることを期待して、自分の考えを度々述べていますが、前述の通り数字の裏付けのないN=1の体験談に基づく物なので、積極的に考えを転向させるために懇々と説得したり、ましてや強要したりといったことは、しないつもりです。僕自身がそれほどできた人間ではないので、考え方が致命的に相容れない人と積極的に仲良くはできないと思いますが。
(「相手の考えを変えさせる」責任を自分が負わないために回りくどい方法を取っている、と非難する人もいようとは思います。そのような見方も可能である事は否定しません。)

 

「表現は良い影響も悪い影響も与え、悪い影響は減じさせることが望ましい」という自分の主張が、公権力による強い表現規制をしたい人々を結果的に支援し利する事になる部分はあるだろう、という認識はあります。

一方で、自分の観測範囲が偏っているせいもあるとは思いますが、表現規制に強く反対する言説として拡散されている言説の中には、「表現に悪影響は全く無い」「表現に悪影響があると証明されていない限り、何を表現しても全く問題無い」「(指摘に対してすっとぼけた上で)そもそもこれは悪影響が懸念されるような表現ではない」と主張しているように僕には感じられる物が少なからずあります。僕の主観では、それらは表現に伴う責任に向き合っていない主張であると感じられ、そのような主張に対してはカウンター言説をぶつけて打ち消したいと感じる気持ちを抑えられません。
「公権力による強い表現規制を指向している(ように見える)人々を利さないために黙る」か「表現が及ぼす影響に伴う責任を全回避する言説に対し、カウンターとして発言をする」かのどちらかを選んだ結果として、自分は後者を選んでいることになります。
そういう選択の結果として、敵を利する者は敵であるということで僕の事を「公権力による強い表現規制をしたい派閥」と見なしたり、あるいはもっと純粋に、業界などによる自主規制にもすべて反対する立場から「少しでも表現規制に類する事を肯定する不届き者、奴隷の鎖を自慢する者」と見なしたりする人達から、僕は敵視され嫌われるのだろう、という認識はあります。

 

ところで、「公権力による強い表現規制を指向している(ように見える)人々を利さないために黙る」か「表現が及ぼす影響に伴う責任を全回避する言説に対し、カウンターとして発言をする」かのどちらかを選んだ結果として、自分は後者を選んでいるのは事実ですが、他方で僕は、「公権力による強い表現規制を指向している(ように見える)人々を批判・非難する」発言を積極的にはしていません。
これは、以下のような理由に依ります:

  • 表現規制派を強く批判する言説を述べている人が、表現の影響に伴う責任を全回避する発言をするだけでなく、表現の影響に伴う責任を説く者を馬鹿にする発言すらもしている様子を見て、「そのような人について、別の言説とはいえ支持を表明するのは癪に障る」という感情を抑えられなかった。(セレクティブ・エネミー効果
  • そもそも、観測範囲が偏っているためか、「公権力による強い表現規制を指向している(ように見える)人々」による、僕の立場からも批判・非難する必要があると感じるような言説・雑な暴論等が、肯定的な形では滅多に視界に入ってこない。(セレクティブ・エネミー効果の逆作用)
  • そのように「問題発言」本体を観測していない状況で、表現規制に強く反対する人々による反論・批判の方を先に観測する(批判の中で紹介される形で初めて目にする)ことから、そこで敢えて重ねて自分も同じ事を言う必要や、自分が追加で拡散をする必要を感じられなかった。

つまり僕の主観的には、すでに批判がなされている事には批判し、まだ批判されていない事にだけ適宜批判している、という感覚があるわけです。 (主観的な見え方を図にしたもの) 主観的には僕は、この図でいうAの立場からD批判、あるいはBの立ち位置からCを批判する発言をしているつもりだったわけです。

しかしながら、その結果を他者から観測した場合、僕がAなのであればCの愚かな言動を、僕がBなのであればDの愚かな言動を、全く咎めていないことになります。
僕の言動は「公権力による強い表現規制を指向している(ように見える)人々のするおかしな言説はスルーで、表現の影響の責任ばかりを説き、レーティングやゾーニングといった名目で結局は表現規制を推進しようとしている人」としか見えないのだ、という事を、このように改めて自分のスタンスを言語化する過程で今更ながら改めて意識しました。

以上の事を踏まえ、今後は、「表現が及ぼす影響に伴う責任を全回避する言説に対するカウンターとしての、表現の影響に伴う責任の意識と自省の必要性を訴える言説」に加えて、「公権力による強い表現規制を指向している(ように見える)人々のするおかしな言説」への批判・非難も今まで以上に、自分の言葉で行っていくようにしたいと思います。

 

そのような発言をされている方の一人として自分は、大野左紀子氏を認識しています。氏は実際に、表現の自由を尊び表現規制に反対する立場から、表現規制反対派(の一部)の言動を批判する発言をされていました。

この事例では氏が表現規制反対派と思しき人達から、表現規制を推し進める派閥の一員と見なされてケチョンケチョンに貶されている様子が窺えました。

正直に言えば自分も、いわゆるフェミニストの人達から「我々を非難するこいつは我々の敵だ」と見なされて、集中砲火を浴びる事を恐れて、表立って批判する事に無意識のうちに及び腰になっている部分があるのは否めません。
ですが、それを恐れた結果として、自分が否定的に考えている言説について、自分が沈黙し消極的に肯定していると見なされる事の方が、僕にとっては耐え難い事です。
ですので今後は勇気を持って、自分の良心に従った発言を心がけていきたいです。


2022年5月1日追記。本文中で「公権力による強い表現規制」というフレーズを何度も書きましたが、コメントで、「今の表現規制派は公権力に依らない表現規制を指向している」旨のご指摘を頂いたので、それへの返信として書いた内容を、若干加筆しつつ本文に転記しておきます。

インターネットとSNSが浸透して生活基盤と化している現代においては、
「法規制=強い表現規制」
「それ以外=弱い表現規制」
という分け方が今や時代後れである、という考え方は確かにあると思います。
大手SNS等のサービスから追い出される事や、発表の場として商業媒体を追われる事は、今や、法規制以上の強い影響力を持った強い表現規制として作用する、という事は自分も否定できません。

自分は、「本業」で生活費を得た上で余暇で表現活動をしている立場ですし、こうして自分でWebサイトを作るくらいには技術的な知識がありますし、自分で印刷してホチキス留めで製本して同人誌を作った経験もありますので、「これができなければ"表現"ができているとは言えない」と考えるラインがかなり下の方にある、あるいは「この程度の仕打ちまではされても許容せざるを得ない」と考えるラインがかなり上の方にあるのは、事実だと思います。

自分は「表現の自由」を「強制的に取り締まられることなく人前で主張を述べられることである」と考える古典的解釈をとっています。
なので、独自Webサイトなり手製本の同人誌なり、何らかの形で作品を公表する(これは、公の場で人に見せることまでの部分を意味しており、多くの人に「見てもらえる」ことまでは含んでいない事に注意が必要です)権利が確保されているなら、それは「弱い規制」で、それすら許されず取り締まられたり通信を遮断されたりするレベルのものが「強い規制」だ、と考えています。

「表現の不自由」展などで問題になったような、イベント型の表現が会場を追い出される件についても、表現がその内容によって公の施設を追い出される事は大いに問題だと考えていますが、私的な施設を追い出される分には、腹は立つものの致し方ない部分はある、と考えています。
ある表現をしたことで、食料や水など生活に必要な物資を売ってもらえないとか、住む場所を貸してもらえないとか、兵糧攻めの形で実質的に表現を行えなくなるのは、大きな問題だと自分も思いますが、極論すると、日銭を稼ぐための労働を別の形でした上で、採算が合わない形ででも表現を続けられるのであれば、「表現の自由は最低限確保されている」と言えると僕は考えています。

僕は、そのラインに抵触する話になるまで「表現の自由」というフレーズを持ち出す事には、どちらかというと否定的です。
そこまでのラインに至っていないのに「表現の自由」を無闇矢鱈に持ち出すと、別の人の自由とかち合いやすくなり(例えば、統合失調症の患者を危険人物と見なす偏見が込められた表現が広く流布することによって、雇用主や大家が「統合失調症の人と関わりたくない」と思うようになり、統合失調症の実在の患者が、職に就いたり賃貸物件を借りたりといったことができなくなる、など)、社会から「表現の自由という名前の物って、そこまで守らなくてもよくね? 贅沢な事を要求し過ぎじゃね?」と思われるようになって、勢い、僕が守られるべきと考えているラインすら守れなくなってしまうのではないか、と考えていますす。

僕がこのように考えるのは、育った時代的に、「我々オタクは社会が許容してくれる範囲で細々と表現をするのが身の丈に合っている」という感覚が、僕の価値観に深く刻み込まれてしまっているからなのかもしれません。

ただ、電気で動く人工呼吸器のお陰で生存できている難病持ちの方に、「電気は贅沢。地球環境のためには発電所はなくさねばならない。だから電気も節約せねばならない。生存するだけでも電気が必要なあなたは死んでくれ」と今更言う事が、生存権の侵害にあたるように、コネや技術的知識が無くても表現を行える環境が整った事でやっと表現の自由を行使できた人達に、「それは贅沢だ。それらが無いと表現できないあなたは表現を諦めてくれ」とは今更言えない、と僕も思います。(僕自身、現代科学の恩恵を受けてやっと生存できている側の一人なのは間違いないので。)

諸々の事を考慮した上でも、自分としてはやはり、アカウントが凍結されるわけでない・成人向け領域に隔離されはするがサービス利用は継続できるといった、レーティングやゾーニングという弱い表現規制を以て、表現の自由とそれ以外の自由とがかち合わないようにするのが、現実的な選択ではないかと思っており、結論としてはやはり、表現規制には弱く賛成する立場を取りたいと思っています。


2022年5月1日再追記。

僕は「社会的に立場の弱い人を無用に抑圧しない事」と「表現の自由がある事」の両方が重要だと考えており、その両者が衝突すると考えていて、衝突を回避するための手段として自分に想像できる範囲の方策として、「表現規制に弱く賛成」する、という順番で考えています。「表現規制だけが唯一の手段である」とは考えておらず、何かもっと別の手段があるのなら、そちらに乗り換えるのはアリだと考えています。

よって、以下のように考える方とは、建設的な議論ができるのではないかと思っています。

  • 社会的に立場の弱い人が抑圧される事と、表現の間には、因果関係もしくは相互に強化し合う何らかの関係がある。
  • 社会的に立場の弱い人が無用に抑圧されるべきではない。
  • 社会的に立場の弱い人の権利と、表現の自由は衝突する場合がある。何らかの方法で衝突を回避または解消する必要がある。

逆に、以下のように考える方とは話が噛み合わないだろうと思います。

  • 社会的に立場の弱い人などというものはいない、あるいは、社会的に立場の弱い人が抑圧される事は仕方が無い。
  • 社会的に立場の弱い人が抑圧されない権利と、表現の自由とでは、表現の自由の方が絶対に優越する。表現の自由の後退は絶対に認められない。
  • 社会的に立場の弱い人が抑圧される事と、表現の間には、全く関係が無い。

僕の事をもし「表現の自由の敵」とラベリングして攻撃する事を考えておられた方がいましたら、まずは上記の点を見て、建設的な議論が可能かどうかを一考頂ければと思います。


2022年5月2日追記。

1つ後の記事について、「主観のみに基づいて特定の表現を排除するのは抑圧であり差別だ」という趣旨の指摘を頂きました。あちらは「どういう表現を、自分はどのように問題視しているか」という事にフォーカスするようにしたつもりの記事で、それに対する「問題視した表現に対してどのような規制(対策)を是としているのか」の話はこちらの記事の方のつもりなので、この話もこちらに追記することにします。

1つ後の記事の文中の追記箇所に書いたのですが、自分は「表現が人に与える影響と規制」の話を、「地域社会の子供への接し方」に投影して考えているようです。
その例えで言うと、自分が表現規制に賛成を示す発言をしているのは、地域の中で、ある書店の店主が、大人だけでなく子供にまで過激なエロ本を売っていたとして、別の店の店主(僕)が、「子供に悪影響があるだろうが。子供には売るな」と注意しているような感覚なんだと思います。

僕はこの例えで言うなら、別に不動産収入があって道楽で本を売っているだけの店主ですので、本だけを売って生活している店主に比べると、気軽に言えてしまう状況なのは事実だと思います。
そんな僕が、子供にまでエロ本を売りでもしないと生活していけない専業書店の店主に対して「客観的根拠は無いが、子供が悪影響を受けるはずだと俺は信じているから、お前はエロ本を子供に無闇に売るな」と言っているのだ、という構図と考えれば、それ自体が「弱い者いじめで、差別だ」と見られても致し方ないと思えます。

個人的には、売り方に文句を付けるだけでなく、専業書店が子供にまでエロ本を売らなくても生きていけるように、レーティングされた大人向けの物を大人として買い支えるのが筋であろうと考えています。今、僕が比較的軽率にコンテンツにお金を支払うようにしているのは、改めて考えると、ここに繋がっているという理屈付けができるかもしれません。
(これは、無関係の話を強引にこじつけているだけかもしれません。)

 

また、規制規制と言っていますが、先の追記の通り、「完全に強力に情報への接触を遮断するべき」とまでの強い規制へのこだわりは、僕にはありません。

実際、映画業界での「PG12」や「PG15」といったレーティングは、どの程度過激な内容かといったことを示す指標ではあるものの、親が説明を加えるなどの前提があった上で、基準年齢より下の子に視聴させる事も可能であるとされています。
僕としては先の追記の通り、「規制をすること」「情報へのアクセスを遮断すること」そのものではなく「社会的に立場の弱い人への偏見の形成を避けること」の方が本来大事にしたい事ですので、規制をするにしても、その程度の「弱い」規制で充分なのではないか、というのが今の所の認識です。

分類:出来事・雑感, , 時刻:03:52 | Comments/Trackbacks (12) | Edit

Comments/Trackbacks

記事の感想と批判

まず自己紹介的に自分の属性を並べておくと
・Piroさんのツイートはときどき見ている
・表現の自由に関するネット論争に強い関心はあるが,自分から意見を発信することはほぼない
・偏見を強化する効果を根拠にした表現規制論には強く反対
・法学の素養はない


要約すると,自主規制の是非については曖昧に述べ,「公権力による強い表現規制」については積極的に反対すべきだったとはっきり反省する,というのがこの記事
の内容だと私は受け取りました.

しかし今回の「たわわ論争」に限っては国連という公的性格の強い肩書をもつ団体が,規制側として大きく発信したがために「公権力による強い表現規制」も論点として視野に入ってきますが
正直,規制側にネット論争で位置づけられる人たちが,公的な規制を求めているかというと,あまりそういう印象はありません.

参考:https://anond.hatelabo.jp/20220425213225
> フェミニストさんたちは法規制を目指さず、集団で火付けをすることで実質的な規制を行うことを目指しているわけ。
> 表現に対して批判を行うことも、表現の自由の重要な一部なので、フェミニストさんたちが行っていることは、実にまっとうで健全な手段なのだ。

この状況を踏まえ,私の問題意識は
「むき出しの敵意が十数年前ならありえないほど不相応に群をなして1個の表現者にぶつかってゆくこと」
にあります.

人間,数千数万の批判に晒されることを覚悟できている人なぞなかなかいません.「誰かから鋭い批判を受けて快く表現を修正する」なんて牧歌的な状況にはなかなかならず,「パニックになって意に反する修正を強いられる」というのがせいぜいでしょう.これは広義の意味で表現の自由を損なっていると私は解釈しています.
また,誰も似た羽目に会いたくありませんから「炎上しない表現」にインセンティブが働くでしょう.しかし,これまでの炎上案件をみるに,増幅された憎悪の基礎に,基準たりうる論理があるかというと,無いというのが私の意見です.議論の末に双方が妥協できるラインを見定めるのではなく,ただ炎上をしないという方向を目指すのでは,「偏見を強化する効果を根拠にした規制」をある程度認める立場からしても,必要以上に表現が萎縮してしまいます.
これも表現の自由を大きく損なっていませんか?

しかし,批判の1つ1つはそれもまた表現の自由であるはずです.この問題を表現の自由と両立して解決する方策を私は持っていません.
ただし,一人ひとりができることとしては
・対立を深めることを目的とした言説を無視する
・ツイートした背景・文脈をなるべく読み解く
・1人の人間に集中して批判を浴びせるネットリンチには立場を問わず批判的である
ことが重要であると思います.

この観点からPiroさんを批判します
1.
https://twitter.com/piro_or/status/1519904714237698048
Piroさんはこのツイートでオタク批判のツイートを肯定的に紹介していますが,私はこれを対立を深めることを目的とした言説だと解釈しています.
表現の擁護者を,性的でないとわざとしらばっくれる悪意のある敵あると認定する前に,検討すべき論点は多々あります.それを抜きにキャッチーな図解で雑な論を立て侮蔑とともに発信するのは典型的な分断行為です.
私が侮蔑の対象となった「たわわ擁護」のツイートを読むとすると以下の様になるでしょう

・広告全体,つまり巨乳の女子高生を含む1面を見た人間が「たわわ」= 「果物」と認識するかというとそれは信じられない
・しかしこのツイートは批評家の伊藤氏のツイートへの批判という文脈で発せられている.伊藤氏は広告のロゴデザインの部分のみを拡大し,たわわというロゴデザインだけで多くの日本人はその意味を理解できると主張する.これは怪しい主張である.
・ロゴデザインだけを拡大した状況なので,広告の是非についてはあまり意味のある結論を出せないだろうが,伊藤氏への批判という文脈に限っては「たわわ」= 「性的」ではないという批判は一理ある
・ツイ主は批判するならば,「思考回路がエロ特化」などと侮蔑すべきではなかったし,敵意に基づく反射で行うのではなく.議論を意味のある方向に向けようとするべきだった.

批判すべきところはあるにしろ「すっとぼけている」という悪意を前提とした評価は不当だと私は思いますし,Piroさんも誠実にツイートを読めば,似た結論になると期待しています.私はPiroさんを反射で批判する前に一歩立ち止まって考えることができる人だと思っていますが,表現規制反対の論説に対してはその自制心が弱っているのではないのでしょうか? このRTでPiroさんは分断を一歩広めることに与したと私は思っています.

2.
https://twitter.com/piro_or/status/1520283337591443456
・ツイ主の「サンサーラ・ゴン」氏は「表現の自由」を道具として使うことがあっても「表現の自由」派だとは私は思いません.ヘッダーや固定ツイートを見ればわかるように,行動原理はフェミニストとの対立が深まるほど嬉しいアンフェです.
ミソジニー界隈,アンフェ界隈,アンチリベラル界隈,表自界隈,層は重なっているので必ずしもちゃんと分類できるわけではありませんが,このように相手を細かく見て,対立を煽ることが目的のものは切断する,これができていないからPiroさんは表現の自由派に当たりが強くなっているのではありませんか?
それでは,大野氏を単なるツイフェミと同一視して批判したたわわ擁護派と鏡写しです.
・ツイート自体は,分断を煽るものですので無視すべきものですが,内容はネットリンチで深刻です.私は先に述べたようにこの様な1対多数の侮蔑こそ表現の自由を損なうものと解釈しています.先の「オタク侮蔑」ツイートについて「矜持に反する」と大仰に受け止め,「フェミのやらかし」ツイートには「探すの上手いね」で終わりなんでしょうか.釣り合いが取れてないのでは?

私の問題意識と,Piroさんの問題意識にかぶるところが無いということであれば,どうしようもないので仕方ありませんが,私の観点からすると,この記事は本当にPiroさんが向き合うべき方向とは別の方向に所信表明しているように読めました.故に私が最近違和感を持ったPiroさんのツイートを元に批判しました.以上です.

Commented by れっか at 2022/04/30 (Sat) 23:21:41

no title

丁寧なコメントありがとうございます。


> 自主規制の是非については曖昧に述べ

自主規制の是非については「(大規模調査等で示された数字ではなく)僕の主観的経験に基づいて、必要だと思う」という趣旨のことを述べて肯定を表明したつもりでした。
ただ、他の人に積極的に翻意を迫るに足る客観性があるとは言えず(そのための大規模調査をする調査力が自分にはない)、弱く主張するに留まります。

これは曖昧な言い方だ、ということでしょうか?
逆に「曖昧でない」言い方とは、どのようなものになりますでしょうか。例えば以下のような感じでしょうか。

* 客観的な裏付けはないが、自主規制は絶対に必要だ。正当性を強く主張する。
* 客観的な裏付けがないので、自主規制は絶対に不要だ。正当性を強く否定する。

もしそうだとしたら、このように強く言い切る主張ができないのであれば表明はしない方が良い、というご指摘でしょうか?
自分は「肯定するか、否定するか」と「強く主張するか、弱く主張するか」は直交する概念だと考えていて、「弱く肯定する」は有りだと思っているので、「強く主張するか、全く主張しないか」の二者択一というのは、議論の極端な単純化のように感じて同意しづらいです。


> この状況を踏まえ,私の問題意識は
> 「むき出しの敵意が十数年前ならありえないほど不相応に群をなして1個の表現者にぶつかってゆくこと」
> にあります.
(中略)
> これも表現の自由を大きく損なっていませんか?

SNSが浸透して生活基盤と化している現代においては、
「法規制=強い表現規制」
「それ以外=弱い表現規制」
という分け方が今や時代後れである、という考え方は確かにあると思います。
自分は、「本業」で生活費を得た上で余暇で表現活動をしている立場ですし、こうして自分でWebサイトを作るくらいには技術的な知識がありますし、自分で印刷してホチキス留めで製本して同人誌を作った経験もありますので、「これができなければ"表現"ができているとは言えない」と考えるラインがかなり下の方にある、あるいは「この程度の仕打ちまではされても許容せざるを得ない」と考えるラインがかなり上の方にあるのは、事実だと思います。

自分は「表現の自由」を「強制的に取り締まられることなく人前で主張を述べられることである」と考える古典的解釈をとっています。
なので、独自Webサイトなり手製本の同人誌なり、何らかの形で作品を公表する(これは、公の場で人に見せることまでの部分を意味しており、多くの人に「見てもらえる」ことまでは含んでいない事に注意が必要です)権利が確保されているなら、それは「弱い規制」で、それすら許されず取り締まられたり通信を遮断されたりするレベルのものが「強い規制」だ、と考えています。
「表現の不自由」展などで問題になったような、イベント型の表現が会場を追い出される件についても、表現がその内容によって公の施設を追い出される事は大いに問題だと考えていますが、私的な施設を追い出される分には、腹は立つものの致し方ない部分はある、と考えています。
ある表現をしたことで、食料や水など生活に必要な物資を売ってもらえないとか、住む場所を貸してもらえないとか、兵糧攻めの形で実質的に表現を行えなくなるのは、大きな問題だと自分も思いますが、極論すると、日銭を稼ぐための労働を別の形でした上で、採算が合わない形ででも表現を続けられるのであれば、「表現の自由は最低限確保されている」と言えると僕は考えています。

僕は、そのラインに抵触する話になるまで「表現の自由」というフレーズを持ち出す事には、どちらかというと否定的です。
そこまでのラインに至っていないのに「表現の自由」を無闇矢鱈に持ち出すと、別の人の自由とかち合いやすくなり(例えば、統合失調症の患者を危険人物と見なす偏見が込められた表現広く流布することによって、雇用主や大家が「統合失調症の人と関わりたくない」と思うようになり、統合失調症の実在の患者が、職に就いたり賃貸物件を借りたりといったことができなくなる、など)、社会から「表現の自由という名前の物って、そこまで守らなくてもよくね? 贅沢な事を要求し過ぎじゃね?」と思われるようになって、勢い、僕が守られるべきと考えているラインすら守れなくなってしまうのではないか、と考えていますす。

僕がこのように考えるのは、育った時代的に、「我々オタクは社会が許容してくれる範囲で細々と表現をするのが身の丈に合っている」という感覚が僕の価値観に深く刻み込まれてしまっているからかもしれません。


一旦ここまでで投稿します。
続きはまた後ほど。

Commented by Piro at 2022/05/01 (Sun) 01:24:55

no title

続きです。


> ただし,一人ひとりができることとしては
> ・対立を深めることを目的とした言説を無視する
> ・ツイートした背景・文脈をなるべく読み解く
> ・1人の人間に集中して批判を浴びせるネットリンチには立場を問わず批判的である
> ことが重要であると思います.

これらの事には自分も同意です。

「1人の人間に集中して批判を浴びせるネットリンチには立場を問わず批判的である」これの実践について、自分はまだ悩んでいます。
この記事の本文で述べたとおり、「他の人がもう批判しているから、自分まで参戦したらネットリンチになるので、やめよう」と考えた結果、言及自体をしなくなってしまうと、振る舞い的には「あちらはスルーし、こちらだけ批判的」となり、自己認識との乖離が拡大してしまいます。
かといって、下手に批判の対象をぼかすと、全く無関係の対象への批判と誤解される(誤爆する)恐れもあります。
特定個人を名指しせず、しかし行為については具体的に名指しして批判する、というのが落とし所になるでしょうか?


> 1.
> Piroさんはこのツイートでオタク批判のツイートを肯定的に紹介していますが,私はこれを対立を深めることを目的とした言説だと解釈しています.

ご指摘ありがとうございます。
確かに自分はここまでの文脈をきちんと読み取れていませんでした。
自分がかねてから思っていた事のイメージに合致する図を目にした事で、慎重な行動を取れていませんでした。
元発言への賛同の一票と取れてしまうので発言自体は一旦削除した上で、リプライツリーにスクリーンショットか何かを貼って、経緯を説明するようにしようと思います。


> 2.

こちらも、ツイートを削除しようと思います。
この人物が分断を広める事を目的としている、あるいは、意図が何であれ分断を広める事にしかなっていないようであるということは、かねてから認知はしていましたが、自分がフォローしている人の中の何人か(分断を煽る事を目的としているわけではない、ある程度の良心を持ち合わせていると自分が期待している人)が、他の批判と併せてRTしているケースが多く、「分断を煽る人物なので無視するべき」という特別扱いを自分の中でまだしきれていなくて、他の批判と同じカテゴリで認識してしまう癖がついてしまっているのだと思います。
文脈を追えなくなると困ると思って、ミュートまではしないでいましたが、今回のご指摘で改めて、自分には扱いきれる物でない強い毒である(あるいは、自分はこの毒を適切に扱える能力が無い)と認識したので、ユーザーをミュートするようにしました。

> 先の「オタク侮蔑」ツイートについて「矜持に反する」と大仰に受け止め,「フェミのやらかし」ツイートには「探すの上手いね」で終わりなんでしょうか.釣り合いが取れてないのでは?

2つの事例で自分の表現に差がついていることは、おっしゃるとおりだと思います。
後者に「酷い、許せない」のようなコメントを加えなかったのは、前述の通りこの人物に対しては元々煽りをする人物だという認識があり、引用で言及している時点で肯定になっていることは文脈上明白なので、それ以上この人物への同調・賛同の意を表明したくなかった、という意識からです。
(前者でそうしなかったのは、その発言が分断煽りの物であるという認識が薄かったためです。)
そのような意識の差が、観測結果として「フェミのやらかしには甘く、オタクにばかり厳しい」と感じられる物になってしまっている事は、この記事の本文で述べているとおり、本意ではないです。

以後は、分断を煽るツイートには関与しない形で、前述した通り、人物ではなく行動を名指しで批判するということを意識しようと思います。


以下は、頂いた指摘への返事とは全く別に、れっかさんへの質問となります。

> ・偏見を強化する効果を根拠にした表現規制論には強く反対

こちらは、より厳密には以下のどれに該当するでしょうか?

A. 表現に偏見を強化する効果はあると思うが、表現規制には反対
B. 表現に偏見を強化する効果は無いと思い、表現規制には反対
C. 表現に偏見を強化する効果があるともないとも判断できないが、表現規制には反対

もしBなのであれば、僕がこの記事や次の記事で述べている個人的経験に基づく「表現に偏見を強化する効果はある」論について否定されていることになり、ひいては僕の事を「表現に偏見を強化する効果はないのに、自分の愚かさの責任を表現の責任に転嫁している」と批判されている事にもなると思ったので、一応確認させて頂きたかった次第です。

Commented by Piro at 2022/05/01 (Sun) 02:23:02

no title

このコメントをきっかけに考えた事を本文の後に追記しましたので、そちらも見て頂けましたら幸いです。

Commented by Piro at 2022/05/01 (Sun) 13:09:19

no title

> こちらは、より厳密には以下のどれに該当するでしょうか?

私は,A,B, Cのような分類の仕方はしませんが,あえていうならばAです.問題はAの立場を分類することであって,B,Cの立場を取っているように見える人の多くも,言葉が省略されているだけであって,厳密にはAの中の一つの立場になるのではないかと思っています.

・人々が表現をどう解釈するかは,表現者はかなりの部分で制御できず,的確な規制は困難.突き詰めると非常に広範囲な規制となってしまう
例えば最近,異世界転生モノが流行っていますが
希死念慮のある若者に,自分の今世はもう駄目だ.来世なら希望があるかも知れないな,と自殺の最後のひと押しになっている可能性はないのでしょうか.
あるいは,最近,ウィル・スミスの暴力事件と,忠臣蔵の類似性がよく指摘されていましたが
逆に言えばこれは,恥をかかされたならば暴力に打って出て良い,という悪い価値観を忠臣蔵が醸成していることになりませんか.
理屈はどんな表現にもつけることができます.ほとんどはただの仮説に過ぎず,しかし一部は本当に悪い影響があるのでしょう.しかし測定できない以上はその一部だけを規制するなんてことはできません.

・規制を唱える人にも偏見や偏りがあり,公正さが保てない
こう言うと,しらばっくれるな,程度問題で規制すべき表現はある.となるかもしれません.
しかし私から見ると,黒と言える表現はすでに自主規制されています.日経だって「そうだ難民しよう!」の全面広告を出すことはないでしょう.昨今の炎上は,批判者の偏見に沿ってグレーな表現が選択的に非難されていると私は認識しています.理想的には,誠実な議論を繰り返すことで双方ある程度は妥協できる黒と白を分ける線を見出すことができるのかも知れません.しかし,炎上を避けるという方向性では炎上は理屈を基礎とするわけではないのでそれは困難であり,また炎上を切り離して学術畑の規制派だけを見ても,到底納得できない理屈(例:たわわのハフポスト記事)を述べていることが多々あることから,誠実な議論の実現性にはあまり期待できていません.


・炎上によって規制されたということ自体が,偏見を強めることになる可能性
例えば,『ルックバック』(私は未読です)について,初読で統合失調症を連想しなかったという人も多々いるようです.修正論争で初めてその論点を認識し,その後「統合失調症あるいは何らかの心神喪失が絡む重大犯罪」についてのニュースを見たとします.これは「真実を圧力団体が隠蔽しようとしている」という構図になりませんか?この「自分で隠蔽された真実を暴き出した」という魅力的な体験は,ぼんやりとした「ありそう」程度の偏見よりもずっと危険なものだと私は思います.
この仮説は最近のアンフェ界隈ひいてミソジニー界隈の拡大によってある程度裏付けられているのではないでしょうか.

この3点の観点の下,反対の立場と書きました.
なお,自分は規制に線を引くとするならば,価値観・偏見への悪影響に重きを置くのではなく,原則デマ・フェイクニュースの文脈で判断すべきだと思っています.例えば性教育が未熟な年代でのアダルトビデオの是非などもこの文脈です.
価値観・偏見への悪影響は,表現者が自分の現在の価値観に沿って気をつけることで解決すべきものです.逸脱があっても最終的には読者に受け入れられなくなりメインストリームから消えていきます.

Commented by れっか at 2022/05/01 (Sun) 13:48:38

no title

> これは曖昧な言い方だ、ということでしょうか?
> 逆に「曖昧でない」言い方とは、どのようなものになりますでしょうか。

ある分野で尊敬している方が別の分野でも自分と似た価値観を持ってほしい,というナイーブなバイアスにより,Piroさんからしたらはっきりと述べたことを,私の価値観に寄せて曖昧と解釈してしまったのかもしれません.不適切な表現でした.
また釈明すると,私は結論があると期待される最終段落周辺を重点的に読みましたが,反省が公権力による強い規制論への対応に偏っていました.この記事は「仲間意識のあるオタクやIT関連者に嫌われるのが苦」といった動機の下,書かれたものだろうと私は思っています.ただ,私が(自主)規制反対側としてPiroさんに苛立ちを感じるのはそこではないため違和感がありました.(結論部にない→曖昧という飛躍)
私の苛立ちを感じる対象を分析すると
「自主規制反対側 / 自主規制側」「分断に肩入れ / 分断に肩入れしない」 と 2 x 2 に(無理に)分類するとして
1. 「自主規制反対側 / 分断に肩入れしない」 は最高
2. 「自主規制反対側/分断に肩入れ」 は程度問題だが心情的には甘く見てしまう.
3. 「自主規制側 / 分断に肩入れしない」 は意見は参考になる
4. 「自主規制側 / 分断に肩入れ」 は嫌い
です.
私が苛立ちを感じるのは3から4にPiroさんが移りつつあるように思えるからであり,私の推察した動機があたっているのであれば,結論を期待する最終段落周辺でこの2つについてより深く取り上げてほしいかったというのがあります.そしてその片方に関しては今日の追記で果たされたと思っています.


> 特定個人を名指しせず、しかし行為については具体的に名指しして批判する、というのが落とし所になるでしょうか?
私もそう思います.

Commented by れっか at 2022/05/01 (Sun) 14:42:41

no title

お返事を頂きありがとうございます。


> 私は,A,B, Cのような分類の仕方はしませんが,あえていうならばAです.

承知しました。


> 問題はAの立場を分類することであって,B,Cの立場を取っているように見える人の多くも,言葉が省略されているだけであって,厳密にはAの中の一つの立場になるのではないかと思っています.

ある話題にだけ反対を表明する行動の結果、僕の発言をご覧になられて「フェミのやらかしには甘く、オタクにばかり厳しい」という印象を持たれる事になったと同様に、自分も、視界に入ってくる表現規制に反対する人々が「オタクのやらかしには甘く、フェミや社会的弱者にばかり厳しい」と見えているだけである可能性は、あると思います。

すべては表出された発言や行動から類推するしかなく、この点は掘り下げても空中戦にしかならないので、僕はこの点にこれ以上は言及しない方がよいのかも知れません。


> ほとんどはただの仮説に過ぎず,しかし一部は本当に悪い影響があるのでしょう.しかし測定できない以上はその一部だけを規制するなんてことはできません.

ここが自分とれっかさんで判断が大きく別れている部分なのだと理解しました。

例えば映画ではすでにレーティングが行われていますが、PG12などの審査基準は、一般的な説明はあるものの、突き詰めると審査員の主観に依存する物であるようです。つまり、測定できない物に基づく規制が実際に行われている事例と言えます。
なので、「このような自主規制もなくなるべきである」と主張されるのであれば、そこには強い一貫性があると僕は感じそうです。
(そこでご意見がもし一貫していないとしても、僕の「弱い肯定」と同様のケースバイケースの判断なのだとは思いますので、そのことを強く問題視するつもりはありません。)

僕自身は、自分で製作した同人制作物に「これは高校生以上くらいかなー」「これは大人向けだなー」と主観で判断して「R15」や「成人向け」等のレーティング表示をしていましたし、今後もやると思います。
自分がレーティングという形での表現規制に忌避感を持たないのは、そのような個人的経験が影響していそうです。


> しかし私から見ると,黒と言える表現はすでに自主規制されています.

僕には、この考え方は(消極的でも)表現規制の容認のように見えます。
今「黒」とされている物の中にも、かつては白と扱われていた物がありますし、また、1980年代から1990年代にかけてのヘアヌード解禁のように、かつては黒だった物が黒でなくなるケースもあります。現在進行形で、今「黒」とされている物の中の特定の物を「白」であると信じて、社会的にも「白」にしようとしている人達もおられます。その移り変わりは必ずしも客観的な根拠による物とは限らず、「なんとなくの社会の空気」といった酷く曖昧な物で変動している部分は大いにある、と僕は認識しています。
ですので、この言い方だと、「表現規制VS反表現規制」ではなく、「主観で線を引く表現規制派の中での、線引きの位置争い」の議論であるように僕には感じられます。

社会の多数派が「これは黒」「これは白」と考える基準で線引きをする、というのは現実的な解決方法の一つだと思います。
ただ、それは社会的に立場の弱い人にとっては抑圧的な線引きになる事もあろうと思います。
基本的には社会的に立場の弱い人の抑圧を減らすべき、というのが僕の考えですが、そのような考えに基づいて行われた非難は、多数派の側からは「批判者の偏見に沿ってグレーな表現が選択的に非難されている」と見える事もあると思います。

という事を考えますと、れっかさんのこの点の主張は、自分としては「多数派・社会的に立場の強い側を優先するべき」という事を、別の言い方で表現されているように感じられ、僕の「社会的に立場の強い側が譲って、社会的に立場の弱い人の抑圧を減らすべき」という主張との衝突は必至と感じます。
(だとしても、そのことをこれ以上ここで批判や非難するつもりは自分は無いです。これはあくまでポジションの確認のつもりです。)

たわわのハフィントンポストの記事( https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_624f8d37e4b066ecde03f5b7 )は、自分はきちんと読んでいなかったので、改めて読みました。
「3つの問題」として書かれている内容は、1つ目の点「見たくない権利」の話は、「社会的に立場の弱い側・少数派の視点に強く肩入れしていて、多数派側の理解を得やすい書き方ではないな」と感じました。
2つ目の点「ステレオタイプ強化」の話は、Twitterに書きましたが( https://twitter.com/piro_or/status/1518308897613762560 )、1980年代にあったという女子高生ブームの影響下で価値観が形成されたと考えられる自分にとっては、「そこまで強い口調で批判するほどの事ではないのではないか?」と感じられました。
3つ目の点「審査項目に自ら反している」の話は、自分でNPOと手を組んで審査項目を掲げていたのであれば、その提携相手がどれほど不合理な存在で、どれほど下世話な目的で行われた提携で、どんなに馬鹿げた審査項目であっても、守っていなければそのこと自体は申し開きできないだろう、という感想を自分は持ちました。
それ以外では、「審査基準が公開されていないのはいかがなものか?」とか、「4巻の描写まで見れば"人格や主体性が考慮されていない"とまでは言えないと感じるけれど、少なくとも1巻部分だけについて言えばそう言われても仕方が無いだろうな」という感想を持ちました。
1つ目の点で感じた「社会的に立場の弱い側・少数派の視点に強く肩入れしていて、この手の話に弱者保護側の観点ですでに詳しい人を前提に書いている印象があり、多数派側の理解を得やすい書き方ではないな」というのが、記事全体の自分の印象です。
総じて、規制反対の立場の方から見たときに、議論の不可能性を感じるのは致し方ないだろう、そのように感じさせる書き方をしているこの媒体はあくまで「内向き」のメディアなのだろう、「外」の理解を拡げていく事には関心が薄いのかもしれない、と感じました。


> ・炎上によって規制されたということ自体が,偏見を強めることになる可能性

この可能性は自分も否定しません。
自分は「そもそも最初の時点で、偏見を強化しうる表現を一度世に出してしまったために、その後何をやっても偏見の強化に繋がる悪影響が連鎖的に起こってしまっている」と考えており、「表現規制派が騒いだのが問題だった」のではなく「集英社が表現の責任に無頓着すぎたのが問題だった」と考えています。
今となっては、仮に集英社が修正前の表現の問題点を後付けでどれほど丁寧に説明したとしても、自分達のナラティブを信じたい人には「表現規制派のクレームに集英社は屈したのだ。集英社は本当はこんなこと思ってなんかいない。だから、ここで説明されている問題点も本当は問題点なんかではない」と受け取られるだけで、効果は望めないと僕は思っています。
それだけ集英社は取り返しのつかない事をしてしまったのであって、「表現規制派が騒いだのが問題だった」とするのは、本質的な責任の追及先が違うのではないか、というのが僕の考えです。

ただ、それはそれとして、炎上にまで至らせた表現規制派の騒ぎ方が、表現規制派に分類される人々や、差別的な描写をされた当事者への偏見を強化し得るもので、分断を煽る悪手であった、ということは言えると僕は思っています。
もっと穏当な指摘なり抗議なりの仕方はあったはずで、そういった事がなされる前に(もしかしたらなされていたのかもしれませんが、それが表に出る前に)、正義感に駆られた素人が無駄に火を付けて回ったように見えるのは、よい事だったとは自分は思えません。
思慮の深い人から浅い人まで様々な人がいるということと、誰もが思った事を脊髄反射で発言できてしまうSNSという媒体の性質とが合わさって起こった悲劇だと、僕は思っています。
このような悲劇の発生を防ぐ有効な方法を、自分はまだ思いつけずにいます。


> なお,自分は規制に線を引くとするならば,価値観・偏見への悪影響に重きを置くのではなく,原則デマ・フェイクニュースの文脈で判断すべきだと思っています.

「事実でない事を事実であるかのように扇動的に流布する事」の規制、という事でしょうか?
少し前なら自分も素直に賛同できたのですが、現在ロシア国内で、ウクライナとの戦争に関して、西側が報じているような事を報じると「デマ・フェイクニュースの流布」にあたるとして処罰される状況になっている、という話を度々聞くので、この線引きでもまだモメる事になりそうだと思いました。
ただ、これはそもそも、規制に反対のれっかさんが「敢えて規制するなら」と仮定の上で述べられている事なので、これ以上掘り下げて考える物でも無いと思っています。


> 私が苛立ちを感じるのは3から4にPiroさんが移りつつあるように思えるから

理解しました。
自分でも気をつけていきたいとは思っていますが、もし今後も「それは分断煽りだ」と感じられる発言を僕がしていたら、その時まだれっかさんが僕の更生に期待して頂けていましたら、指摘を頂けると大変ありがたいです。

Commented by Piro at 2022/05/01 (Sun) 18:36:35

no title

> 総じて、規制反対の立場の方から見たときに、議論の不可能性を感じるのは致し方ないだろう、そのように感じさせる書き方をしているこの媒体はあくまで「内向き」のメディアなのだろう、「外」の理解を拡げていく事には関心が薄いのかもしれない、と感じました。

これで終わると「またフェミには甘い」と思われてしまいそうに感じたので、付け加えます。
内向きの表現を、あたかも外向けの物であるかのように晒すというのは、フェチ愛好家のためのコンテンツである「月曜日のたわわ」を一般の衆目に晒すのと同様に、適切な行為ではないと思います。
そのような適切でない晒し方をして、結果的に社会の多数派と社会的弱者との間の断絶を深める事にしかなっていないという意味で、この種のリベラル左翼御用言説を拡散する事は、問題であると今の自分には感じられます。
また、仮に内向きメディアであったとしても、身内の結束を強める事にしか寄与せず、それ以上の自己への批判的視点を提供しない記事ばかり掲載することは、「外」とのコミュニケーションの質を低下させ、分断を深めるという意味で、宜しくない事だと思います。
個人的には、ハフィントンポストという媒体にはそういった点を改めていって貰いたいと感じます。

Commented by Piro at 2022/05/01 (Sun) 19:35:29

no title

> ある話題にだけ反対を表明する行動の結果

???
私はPiroさんのことをある程度知っているが,Piroさんは私のことをよく知れないという,不平等さがあるのは申し訳ないのですが
書いてあることから読み取れない批判者の属性を投資するようにPiroさんがなっているとしたら,それは相当危険な状態なのではと懸念してしまいます.
なお,最初に述べた通り今はそもそも私は表現の自由系の発信してないですね.数年前から私的なTwitterやブログ等のアカウント持っていません.数年前にしろ「だけ」というには異議を唱えざるをえませんが.

> 「フェミのやらかしには甘く、オタクにばかり厳しい」という印象を持たれる事になった

私の言語化が未熟だったというのもあるのですが,それは正確ではないですね.
「フェミが何を言っているかは関心が薄く,オタクが何を言っているかは関心があっても偏見が先にあり雑にしか読めていない」くらいかな.
何かに無関心なのは,あるいは何かに厳しいことは,それだけなら特に問題があることとは思いませんよ.雑な批判が問題です.

> なので、「このような自主規制もなくなるべきである」と主張されるのであれば、そこには強い一貫性があると僕は感じそうです

そうですね.何が規制されているか正確には理解していませんが理想的にはおそらくなくなるべきものでしょう.
類似の事例として最たるものは刑法175条であり,様々な方が裏で動いているものと認識しています.
https://twitter.com/otakulawyer/status/1196335878576041984
現実的には,今ある規制を広げないこと,刑法175条の改正が先であり,論点の優先順位としてかなり下でしょう(ネット上で見える範囲に限定したとしても「表現の自由」派というのはそれほどいませんし,リソースには限りがあります)

> 今「黒」とされている物の中にも、かつては白と扱われていた物がありますし

私は黒はすでに自主規制されていると述べましたが,規制されているものは黒であるとは述べていません.逆転させないでください.
よく表現の自由の例外として「混雑した劇場で火事だと叫ぶこと」「明白かつ現在の危険」が紹介されます.
私は「「〇〇ありそう」といった偏見を助長するかも知れない」程度(例:ルックバック)だと明白だとは解釈しません.「「〇〇はなんとかだ」という危険な誤りを教える」表現ならば明白に危険なものであり,その例として「そうだ難民しよう」というはすみとしこの漫画なら日経の全面広告にすべきではない,と述べました.
補足として,「本屋に置くべきではない」というレベルならば私は必ずしも明白だとは考えません.例えば「極右表現」という棚に入れておくといった措置がとられているとすると,そもそもそういう偏見を持った人しか読まない可能性が高いので明白ではありません.
また一方,Piroさんがロシア・ウクライナ戦争を例に出しているように,もちろん公的な規制は相当な議論が必要で,誤った形に定まるくらいなら無いほうがいいでしょう.

Commented by れっか at 2022/05/02 (Mon) 10:27:09

no title

読み直すとマズい返信だったので少し補足

私が「黒と言える表現はすでに自主規制」と述べた時,この文脈での「黒」は
表現の自由は可能な限り重視した上での「私が考える黒」 + 現実的な妥協としての「世間が考える黒」
くらいの意味でした.
妥協はなるべく無くなるようにするべきですが,私が唱えている広義の表現の自由は,様々な価値観と共生する中の1つの価値観に過ぎないのである程度は避けられないものです.

> 社会の多数派が「これは黒」「これは白」と考える基準で線引きをする、というのは現実的な解決方法の一つだと思います
> 自分としては「多数派・社会的に立場の強い側を優先するべき」という事を、別の言い方で表現されているように感じられ、僕の「社会的に立場の強い側が譲って、社会的に立場の弱い人の抑圧を減らすべき」という主張との衝突は必至

この辺はPiroさんからみたらそういう解釈になるのだろうという意味でとくに否定しません.

Commented by れっか at 2022/05/02 (Mon) 11:03:24

no title

Piroさんに求められたと感じたので長文で披露したものの
法学の素養のない自分の論にはあまり価値があると思っていないので(ネットを探せば似たようなことをより精緻に述べている人もいるでしょう)
このクソ長いやり取りで私がいいたかったことは
「「敵」「裏切り者」と見做されるとを苦としているようだけれど,「偏見」による雑な批判に囚われず横着を避けネットリンチには立場を問わず批判的であるならば,こちらの立場からしたら広義の「表現の自由」を守っていることに繋がっているのだから,立場は違えど共同戦線的な関係になるのも不可能ではない」
とただそれだけです(どんどんズレたので締め).

Commented by れっか at 2022/05/02 (Mon) 11:37:42

no title

> 私はPiroさんのことをある程度知っているが,Piroさんは私のことをよく知れないという,不平等さがあるのは申し訳ないのですが

誤解を招く書き方でした、すみません。
自分が「オタクのやらかしには甘く、フェミや社会的弱者にばかり厳しい」と見えていると書いたのは、このコメントのやり取りの外の事、例えばTwitterで視界に入ってくる事例を指していました。
れっかさんのことではありません。


> 雑な批判が問題です.

言い訳になりますが、字数制限、インプットとアウトプットの距離が近い、などのTwitterという媒体の特性に引きずられてそうなっている部分はあったと思います。
今回改めて、この記事本文やコメントのやり取りにおいて長文を書いてみて、実感しました。
(Twitterのような媒体が顕わにしただけで、元々自分の思考力はその程度に浅い物であり、ブログのように長考を補助するツールの助けを借りてやっと、僕という人間は人並み程度の思考力を持っているかのように振る舞える、という事なのだと思っています。)


> 私は「「〇〇ありそう」といった偏見を助長するかも知れない」程度(例:ルックバック)だと明白だとは解釈しません.

1つ後の記事の本文の方で書いている事と同じ事の焼き直しになるのですが、自分は、明白でないからこそ影響を憂えているという立場です。
親が言葉で「何々と言いなさい」と指示した事には従ってくれないのに、親が普段から無意識で言っている悪口ほど真似をする、というような話は、子育ての文脈で度々見かける話ですが、それと同様の捉え方をしています。
(「親の教育とメディアの影響を同一視するのは詭弁だ」という指摘はあるかと思います。ここではあくまで自分の立場を再表明しているだけで、説得や主張は意図していません。)

Commented by Piro at 2022/05/02 (Mon) 20:20:00

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