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(当初ここについてあまり触れてなかったけど、作品そのものについてあまり触れないまま枝葉のことばかりに言及するのもどうかと思ったので、ちゃんと書くことにしました)
「ルックバック」初見時の僕の感想は、「作品として面白く、感情を大きく揺さぶられ、印象深い」というものだった。
いわゆる漫符や流線といった漫画的表現の少ない抑え目な演出に、本作を読んでいて僕は、まるで個人の思い出の記憶を覗き見ているかのような印象を持った。そのためか、自分自身の思い出と藤野の視点を重ねてしまわずにはおれなかった。
僕自身は幼い頃、「漫画」という表現にはそこまで熱意は無かったけど、「絵」については「自分、上手い方じゃね?」という思いがあった。「絵を描きたいという衝動」よりも他者からの「上手いね」という承認目当てでやっていた部分が強かったので、もっと褒められたくて技術の向上を図ってみた事もありつつ、飽き性の面倒臭がりが災いして、技術的には高校生の頃くらいに成長が止まってしまったのだけど。(そうして、純粋に絵が好きでそちらの分野に進んだ人達からは置いてけぼりを食らい、さらには若手の絵描きの人に追い越されていく一方で、なのに何の因果か商業媒体でマンガの連載を持つことになり、劣等感と自尊心の狭間で、個人のこだわりと意地でみっともなく描き続けている自分は、藤野の超絶劣化版と言うのもおこがましい。)
藤野を見ていると、学校の中での自分の立ち位置も思い出された。小学校中頃くらいまではそれなりに一目置かれていた気がするけど、だんだんそれでは尊敬の対象にはならなくなっていって、そのうちに「ダサいオタクの趣味」と蔑みの視線を感じるようになって。高校で漫画やイラストレーションを愛好する人達の部活に所属して、Webという「学校外の世界」でも遠く離れた土地に住む人と友人関係ができたときの自分の気持ちは、帰り道で踊り出した時の藤野ほどではないにせよ、とても嬉しいものだった。
そんな風に社会のメインストリームからの微妙な疎外感を感じながら育ってきた僕は、「劇的な出会い、長年の切磋琢磨。その後、ライバルから尊敬されていたと知って、孤独が一転して歓喜となり、学校外でかけがえのないパートナーとして関係を築いていく」藤野と京本のあり方に、「自分もこういう青春がしたかった」と憧れてしまった。「こんな情熱を持って生きたかった」と思ってしまった。
その後の別れ、事件、そこからの立ち直り。ネタバレしたくないのであまり詳しくは書けないけど。
「人は、行動することで他者に影響を与える」
「その影響は、いいものかもしれないし、悪いものかもしれない。想定もしていなかった影響の与え方をして、自分の信念に迷うこともあるかもしれない」
「でも、そうして影響を与えて、与えられて、人は生きていくものだ」
「とにかく、やるんだよ」
表現をする者、何かをなして生きていきたい者、その過程で自分のしていることの意義に悩んでいる者・悩んだ事のある者にとって、「それでも、やるんだよ」と背中を蹴っ飛ばすようなメッセージが込められた作品だと感じた。
本作が発表された時、漫画家の人の絶讃の声を多く見かけたけれど、それは「漫画家の漫画だから」という事以上に、表現に関わる人に共通の思いに訴えかける物だったからなんじゃないかと思う。「本作が心に響く人と、まったく響かない人がいる」というのは、そういうことなんじゃないかと。
表現媒体を問わず、何かを作ることに関わっていて、人に与える影響(あるいは反響の無さ)に迷いを感じている人には、是非読んでもらいたい一作だと思う。
そのような感想を持ったと同時に、僕は後半の事件に関する、特に幻聴を示唆する描写を見て、統合失調症などの精神疾患への偏見や差別を助長しうる表現と感じて、その部分についてだけは眉をひそめたくなった。全体としては素晴らしい作品だと思えたのに、この一点だけがシーツに付いた染みのように感じられた。
まず、時系列に沿って、起こった事を書く。
僕は当初、事件の描写について、眉はひそめつつも言及はしなかったけれど、この点について批判的にクローズアップした記事や、それに言及する発言を観測し始めるにつれて、表現に関わる者の端くれとして忸怩たるものを感じた。この点の責任は作者ではなく、その表現の問題点をスルーした編集部にあると僕は考えていたので、その後起こった批判や、批判への批判を見ていて、こういうことが起こらないように、表現内容に危ない部分があればカバーして作者も読者も最大限守るのが編集部の役割だろうに、一体何をしていたんだ、組織として努力を怠っていたんじゃないのか、と憤りを感じた。
これらの周辺状況を総合すると、作中の「犯人」は、京アニの事件の青葉被告をモチーフにしているとは明言されていないものの、(作者の意図はともかく、)火傷の治療後や起訴後の流れまでは追っていない、事件当時の報道しか目にしていなかった人にとって、青葉被告を想起させる物であった、とは言えると思う。
「偏見に基づく報道や作品描写が精神疾患の患者の社会復帰を阻害する」ということについては、2004年の「ブラックジャックによろしく【精神科編】」で詳しく語られていたのが、僕には強く印象に残っている。それから16年も経っているのに、まだこんなことが続いている、ということにも僕は憤りを感じた。
その後、「修正」の報を見てもう一度「ルックバック」の該当箇所を見てみたところ、犯行動機の説明となる描写が「幻聴」+「パクリへの恨み」から「クリエイター一般に対する差別意識」ととれる表現に変わっていた。確かに「幻聴の描写が精神疾患への差別を助長しうるのでは」という懸念は解消された、と思えたものの、もう1つの「パクリへの恨み」という、絵を描く人特有の動機の方まで一緒に消えてしまったことで、物語の流れの中に自然に馴染んでいるとは思えない、悪く言えば「やっつけ」の修正のように感じられ、物語としての面白さは減じてしまったと思った。
また、修正後の表現は、ともすれば「『創作行為に外からやいのやいのと文句を付けて表現を規制しようとする、創作を下らないものと断じる者』への揶揄」とも取れるような表現になっているとも解釈でき、実際にそのように解釈している人達も複数観測できたことから、結局、「表現の問題を指摘する人達」と「反表現規制を掲げる人達」の間の分断が強化されるだけの、どう転んでも誰も得しない結果になってしまったと感じて、落胆を覚えた。
(考えようによっては、「絵の夢に破れて、かわいさ余って憎さ百倍で、絵や絵描きの価値をことさら卑下するようになった」犯人像と解釈できなくもないけれど、そのように解釈するのは少々無理があると、僕には思えた。)
また、それどころか、「作中でそう明記しているわけでもないのに、精神疾患の患者を描写していると決めつけて騒ぎ立てている人達の方が、差別を助長している。そうして騒ぎ立てる人がいなければ、この犯人の描写を『精神疾患の患者はこういうことをするものだ』なんて思わなかっただろうに。『これを見た人は精神疾患への偏見を持つはずだ』と決めつけている批判者の方が、よほど差別を内面化している」といった批判すらあった。そのような言葉に対して、僕はどう「反論」をすればよいのか、すぐには答えを出せなかった。
さらにその後、単行本で「再修正」が行われたという情報を見て、実際に単行本(電子書籍版)を買って、自分でも当該箇所を確かめてみた。それを見た僕の感想は、「最初からこうだったらよかったのに」という物だった。「絵・漫画の分野で夢を実現させた主人公達と対比される、絵の夢に破れた犯人」という構図は保ちつつ、「幻聴」という精神疾患を示唆する記述は姿を消していて、犯人は「強い思い込みによる被害妄想で凶行に及んだ」と受け取れる描写だ、と僕には思えた。「思い込みで凶行に及ぶ」のは、病気の有無にかかわらず犯行の動機としてまあまあありふれているように僕には思えて、「特定のマイノリティに対する差別を強化する」とまでは言えないと感じられた。実際に、初出時の表現について批判的だったであろう人が、単行本版の内容については妥当な描写と判断している様子を、僕自身Twitter上で何例か見かけた。
Webで全体が公開されていた「ルックバック」は、単行本のリリースを受けてか、作品の前半部分のみ公開される形に切り替わったようだ。今後「ルックバック」を読む人は再修正後の版だけを目にする事になると考えると、理想的ではなかったにせよ、起こってしまったことの後始末としては、強く非難するほどではない・妥当と思える落とし所になったかな、と、個人的には感じている。
(欲を言えば、編集部として「こういうことが起こり、こういう問題があり、こういう理由で、このように改めた」といった説明が行われていれば、差別・偏見を減らすためにはより望ましかったとは思うけれども、それを単行本に含めたりすると、作品の物語性と関係の無いノイズになってしまうのも事実なので、あまり多くは望まないのがいいだろう、と僕は思っている。)
ただ、単行本版に対するコメントで「修正された箇所が初出の表現に戻っている」とだけ言及している物を見かけて、正直僕は、また絶望を深めてしまった。
Web公開時の「修正」から差し戻されたのは、「犯人は自分の作品がパクられたと思って犯行に及んだ」ことを示唆する表現の部分だ。これがはっきり示されているかどうかで、この物語の中における犯人の位置付け・事件の位置付けの自然さは大きく変わる。そこに注目して読む限りにおいては、「初出の表現に戻った」のは間違いないと僕も思う。
他方、初出の表現には「幻聴」という、「精神疾患が原因で凶行に及んだ」と示唆する要素があったのに対し、単行本の表現は、そのような示唆がなく、よりフラットな犯人像の描写になっていて、はっきり変わった、と僕には感じられた。でも、これを「初出の表現に戻った」とだけ感じた人は、何が変わったのか分からなかった・気付かなかったのだろうか。だとしたら、「人は、自身が興味が無いことについては、本当に理解の解像度が落ちるものなんだ」ということのまさに実例だと、僕には思えた。 (そのようなコメントをした人が、表現行為を生業としているらしいと知って、僕は余計にガッカリせずにいられなかった。)
そういう人の意識までも改まるのが、一番望ましいことではあるのだけど。既に述べたとおり、そこまでの面倒を見ることは、作品本来の趣旨からの逸脱だ。
「何かを表現すれば誰かを傷付ける、誰も傷付けない表現などない」のは事実だと、僕も思う。何かを表現するということは、誰かを傷付けるということと不可分で、誰も傷付けたくないなら、何も表現しないしかない。「誰も傷付けない表現は可能だ」と無邪気に言う人は、現状認識が甘いと言わざるを得ない、と僕は思う。
ただ、だからこそ、特定の人を傷付ける蓋然性の高い表現には、「それでもこの表現でないといけないんだ」と言える物語上の理由が求められる、と僕は思う。
少し話は変わるけど、「名誉毀損」という罪には「公共の利害に関する場合の特例」がある。「名誉毀損」という罪はなかなか厳しくて、例え「事実を述べただけ」であっても、他人の名誉を毀損したら罪に問われてしまう。このルールをそのまま適用すると、誰かがしている悪事を正義感から告発しても、告発された側は告発者を「名誉毀損だ」と訴えることができ、告発という行為自体が行われなくなって、社会は悪事をした者勝ちとなり、秩序が成り立たなくなってしまう。そのため、「言った内容が事実で、確かな証拠があり、公共の利益のためになるケースであれば、名誉毀損罪にはあたらない」とする例外が設けられている、というわけ。言い換えると、「公共の利益のためでもなく、確たる証拠もないなら、無闇矢鱈に他人の名誉を毀損するな」ということだとも言える。
同様の事が「誰かを傷付ける表現」にも言える、と僕は考えている。特定の誰かを傷付けてしまうことが明白な表現をするなら、「その人(達)を傷付けてでも、その表現をしなくてはならない」と言えるだけの充分な物語上の理由が必要で、それがないのなら、「理由も無く私(達)を傷付けるな」と非難されても致し方ないと、僕は思う。
「ルックバック」初出版の表現はというと、青葉被告の例を挙げるまでもなく、「精神疾患でなくても、人は思い込みだけで凶行に及びうる」という事実がある以上、「幻聴という、犯人の精神疾患を示唆する描写をしないと、物語に説得力を持たせられない」とは言えない(そう言うには根拠が弱い)、と僕には思えた。精神疾患の患者は社会的に弱い立場にあることが多く、偏見を助長する表現をするには、より強固な理由が必要で、理由を挙げられないのであれば、「無意味に偏見を助長している」と批判されても致し方ないと、僕は思う。なので、僕には初出版の表現は擁護できなかった。
他方、単行本の表現については、藤本タツキ氏ご自身が「パクりやがって」的なイチャモンを過去に付けられたことがあるらしいとも聞くので、むしろ、物語上の意味以外に背景事情からも、表現の必然性を擁護しやすいと感じる。「事件の記憶が生々しい時期に、事件の記憶を思い起こさせる作品を公表するのは、デリカシーに欠けるのでは」という非難はあり得るだろうけど、僕は、この作品は「事件の記憶の乗り越え方のひとつ」として肯定できると思う。
「ルックバック」のこととはまったく別事象として、つい先日、女子高校生が殺害される事件があった。その犯人が、夫婦二人とも「バーチャル美少女授肉YouTuber」、いわゆる「バ美肉」であったことから、朝日系のメディアのAERA dot.が、事件を報じる記事を、「『バ美肉』アニメ好きの20代新婚夫婦が女子高生を殺害した仰天の動機」と題して公開した。
すると、僕の観測範囲内でも複数、記事のタイトル付けを非難する言説が観測された。「バ美肉」と犯罪には因果関係も相関関係も無いのに、あたかも「バ美肉」に関わる人は危険人物であるかのように、読者に誤解させ偏見を助長する物である、これは差別だ、といった具合だ。
この批判はまったく妥当だと僕も思った。AERA dot.の記事のタイトルの付け方は、宮崎勤に端を発する(とされる)オタク差別の時代から何ら変わっていない、偏見丸出しの酷い物だと思う。
しかし、そういった批判や抗議を受けて記事のタイトルが変わったことについて、「ルックバック」の時のように「表現規制だ」「『お気持ち』程度で表現を歪めるな」といった非難がなされている様子は、僕の観測範囲内では見かけなかった。
「娯楽・芸術性の高い作品と報道の記事は別だ、創作物内の表現は社会に悪影響を与えない、だから『配慮』の必要も無い」と主張する向きもあるとは思うけど、それはまさに「ルックバック」作中で描かれている物語に泥を塗る主張だ、と僕は思う。
「ルックバック」作中で京本は、藤野の創作から影響を受けて「漫画を描いてみよう」と行動を変えた、変化をしたと描かれた。少なくともこの物語の中では、「創作は人に影響を与えるものだ」として描かれている。影響を受けた結果現れた何かを、社会が後から「良い」「悪い」と評価しているに過ぎない。「娯楽作品なんだから社会に悪影響なんか及ぼさないよ」という擁護は、物語で描かれている物の否定に他ならない。
確かに、創作物と報道記事では、影響の現れ方に違いがあり、まったく同じ批判は当てはまらないと思う。多くの場合、創作物の影響は小さく、報道の影響は大きく受け取るものだと思う。しかし、「マイノリティへの偏見を助長する」ということについては、僕は、創作物の影響は小さいとは思わない。分断と敵意を煽る、ナラティブを語る創作物を通じたプロパガンダ戦は、情報化が進んだ現代社会においては、むしろ非常にホットな分野とすら言える。大国が国家ぐるみで予算を付けて、創作記事を垂れ流し、1つの国を分断させ、その一部をまんまと無血で併合してしまう程度には。
話が逸れた。僕が言いたかったのは、創作物も社会に何らかの影響を与えることはあって、一定の責任が生ずることから目を逸らさないで欲しいということだ。
僕は、「ルックバック」の表現を元の形で「守る」のが表現の自由だとするなら、AERA dot.の表現も元の形で「守る」のが筋だと思う。片方は許してもう片方は許さないのは、「表現の自由を守る」というお題目だけでは説明が付かない、と僕は感じる。AERA dot.の表現を「批判し、変えさせる(表現者が元の表現を取り下げて、批判者が納得できる表現へと改める)」ことを許容するなら、「ルックバック」の表現を「批判し、変えさせる」ことも同様に許容されて然るべきと思う。
表現の自由を尊ぶ言説に賛同し、「ルックバック」の表現が初出版から「修正」されたことに憤って、初出版の表現に異を唱えた人達のことを「お気持ちを押しつけてくる厄介な奴ら」と思った人の中に、AERA dot.の記事に「バ美肉もアニメも関係ないだろうが」と憤りを感じた人がもしいるのなら、「あなたの今感じているそれと同じものを、『ルックバック』の初出版に憤った人達は感じていたんだよ」と伝えたい。
バ美肉にもアニメにも無関心だと、それらと犯罪とを雑に関連付けても気にならない。AERA dot.の記事を書いた人は恐らくそうだった。だからバ美肉やアニメに関心がある自分は憤った。
精神疾患に無関心だと、初出時の「ルックバック」の表現のように、精神疾患と犯罪が雑に関連付けられていても気にならない。だから自分は気にしなかった。
自分がされて憤った切断と同じことを、自分もまたしているんだ、ということに、どうか気がついて欲しい。
「そういう切断をするな」とまで言うつもりは、僕には無い。僕自身も、こうして綺麗事を繰っているくせに、自分にとって重要度が低い・縁遠い属性に対しては、無関心であることが多いし、無意識に切断してしまっていることもたくさんある。すべてのことに対して常に気を配れるとも思っていない。
実際、僕はもうすぐとある大学で短期集中の講義をやることになっているのだけれど、そのスライド作りでもう躓いている。
僕は最初、普段やっている要領で「文字をなるべく少なめにして、口頭の説明で情報を小出しにすることで、受講者に段階的に情報を摂取してもらう」ことを意図して資料を用意してみた。しかし、「それでは聴覚に障害がある学生の受講に差し障りがある」との指摘を受けて、今、口頭で補うつもりだった内容を一生懸命書き起こしている。
正直、とても面倒だと感じていて、毎年やることが決まっているわけでもない単発の計6時間の講義のために、ここまでのコストをかけていては身が保たない、とも感じている。でも、普段「差別はよくない」とする立場に立って物を言っている以上、ここで自分の意志で「少数派の受講者」を切り捨てる判断をしてしまったら、普段の主張との整合性がとれないことになる。なので、半分はもう意地でやってる感じすらある。
ただ、「単に過大なコストをかける羽目になった」とも思っていない。口頭で話す予定だった内容を文字起こしする過程で、スライド全体を通した話の流れをよりはっきり整理することができて、より質の高い講義になりそうだという感触を得てきている。
ここで僕が言いたいのは、「あらゆる人のためにあらかじめ完璧な配慮をせよ」ということではない。
解決するべき課題と、自分にできることの範囲、自分の果たすべき責任、自分にはできないこと・力の及ばないことに向き合うのが、肝要だと思う。
そういえば、「look back」って、直訳すると「過去を回想する、後ろを振り返る」という意味だったか。「自省」といった意味合いまではないようだけれど。
自分の「不備」に遭遇したとき、特に他の人から指摘されたときというのは、恥ずかしいし、自分の非を否定して相手を責めたくなるものだと思う。僕はそういう時がよくある。それでも、脊髄反射しないで、少し時間を置いて自分を振り返るようにすれば、少しはマシな振る舞いができるんじゃないか、と考えている。
そういう風にするための、自分を省みて考えるための材料として、この文章をここに記しておくことにする。
2021年9月9日追記。
「ルックバック」の感想を眺めていて、地価が下がる、住民を守れ… 障害者施設に「差別をぶつける街」を歩く(佐藤 光展) | 現代ビジネスという記事が紹介されていたのを見かけた。1年半ほど前の記事で、精神障害者向けグループホームが一部の近隣住民の強硬な排除運動によって厳しい状況に置かれているという様子を記した物だった。
こういったことが起こる要因のひとつに、フィクションを通じて偏見が刷り込まれてしまった可能性は充分に考えられる。表現に関わる人で、「そういう表現をしているのは自分だけじゃないだろう」「そう表現した方がより迫力が増すのだから、必要なディフォルメだ」と考える人もいるとは思うけれど、そうした表現が無節操になされて広まることが、こういった偏見の醸成に一役買っている可能性は、意識して欲しいと切に思う。
の末尾に2020年11月30日時点の日本の首相のファミリーネーム(ローマ字で回答)を繋げて下さい。例えば「noda」なら、「2021-09-05_lookback.trackbacknoda」です。これは機械的なトラックバックスパムを防止するための措置です。
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