Apr 30, 2022

表現の自由と表現規制に関する自分のスタンスの再確認

「月曜日のたわわ」の日経新聞全面広告の批判や擁護に関連した一連の発言の中で、表現規制の一種であるレーティングやゾーニングを肯定する趣旨の事を書いたところ、「表現規制をすべきという根拠を示すべき」という趣旨の指摘を受けたため、自分の考えを整理するために、表現規制という物自体に対する自分のスタンスを振り返ってみました。

表現規制について改めて自分の考えを表明しますと、自分は、公権力で表現を規制するべしと強硬に主張はしないけれど、状況によっては一定の歯止めの必要性を支持する、というスタンスです。端的に言うと「表現規制を弱く肯定」(全否定ではない)です

ですが、他の人が自分の言動を見た場合に、表現規制を強く全面的に支持する者と見なされても仕方の無い状況だということを、今更ですが改めて意識しました。
今後は、すでに他の人による批判・非難の言説を目にしたかどうかに関わらず、自分の信条的に批判するのが当然と思える言説に対しては、なるべく自分の言葉でも発言をするようにしようと思います。

 

最初に述べたとおり、僕は公権力による強い表現規制に積極的に賛成はしません。法に基づく公権力による規制は、悪用される恐れや規制基準見直しの困難さもあり、可能な限り避けるべきと考えているので、せいぜいコンテンツ制作・流通・公表などに関わる業界などでの自主規制による、ゾーニングやレーティングなどまでに留めるのがよいと考えています。(例えば、自分で知識を身に付けてWebサーバーを立てて作品を公表する権利は確保されて然るべきと考えています。)

また、自主規制については、一律に無制限に行うべきと強く主張する考えでもないです。以下のツイートから始まるリプライツリーで紹介されている、自主規制の公法学的研究という本で語られているという「自主規制の許容条件」については、少なくともツイート内で見出しとして挙げられている言葉を見ている限りでは、妥当な限定の仕方であるような印象を感じています。

自分は「表現が野放しではこのような悪影響がこの程度出るから、一刻も早く権力で規制しなくてはならない」といった主張をするに足る定量的な裏付け情報を持っていません。自分個人の主観で「自分は表現の良い影響(ポジティブな価値観の習得など)も悪い影響(偏見の継承・形成・強化など)も受けてきた」と感じていて、あくまで自分の経験に基づいて「自分が受けたような悪影響は軽減するのが望ましいのではないか」と考えているという状態です。

「表現の悪影響を軽減する」方法は、規制以外にもあると僕は考えます。例えば「障害者や性的マイノリティなど、社会的な立場が弱い特定のカテゴリの人々に対する偏見の形成」という悪影響については、偏見を解消するカウンター表現で打ち消す方法もあるでしょう。しかし、偏見を形成しうると僕が思うセンセーショナルな表現は、往々にして大勢に拡散されるのに対し、正しい情報を伝え偏見を解消すると僕が思うカウンター言説は、一部の人だけが小規模に拡散するのみに留まっている印象があり、「カウンター表現さえあれば何も問題ない」と素朴に信じる事まではできずにいます。
(これは、低コストで乱造され拡散されるデマ言説に対し、地道にコストをかけて行われるファクトチェック言説では量・速度の面でも対抗しきれない、という話に類似していると僕は思っています。)
偏見を形成する度合いが強いと思われる表現について、今更偏見を形成し得ない・フィクションをフィクションとして理解できる人向けの表現であるとして、その前提を満たさない人がアクセスしにくくするようレーティング・ゾーニングを行う、といった事を並行して行うことが、偏見の再生産と拡大を防ぐには有効ではないか、と自分は考えています。

自分自身も今、末席も末席で表現者の一人として活動していますが、自分が直接する表現や、自分が関わる表現においては、自分の信条に従って、悪い影響を減じるための規制に相当する自粛を自主的にしている認識です。
他の表現者の人達や社会に対しては、それを見て自発的に賛同してくれる人が出てくることを期待して、自分の考えを度々述べていますが、前述の通り数字の裏付けのないN=1の体験談に基づく物なので、積極的に考えを転向させるために懇々と説得したり、ましてや強要したりといったことは、しないつもりです。僕自身がそれほどできた人間ではないので、考え方が致命的に相容れない人と積極的に仲良くはできないと思いますが。
(「相手の考えを変えさせる」責任を自分が負わないために回りくどい方法を取っている、と非難する人もいようとは思います。そのような見方も可能である事は否定しません。)

 

「表現は良い影響も悪い影響も与え、悪い影響は減じさせることが望ましい」という自分の主張が、公権力による強い表現規制をしたい人々を結果的に支援し利する事になる部分はあるだろう、という認識はあります。

一方で、自分の観測範囲が偏っているせいもあるとは思いますが、表現規制に強く反対する言説として拡散されている言説の中には、「表現に悪影響は全く無い」「表現に悪影響があると証明されていない限り、何を表現しても全く問題無い」「(指摘に対してすっとぼけた上で)そもそもこれは悪影響が懸念されるような表現ではない」と主張しているように僕には感じられる物が少なからずあります。僕の主観では、それらは表現に伴う責任に向き合っていない主張であると感じられ、そのような主張に対してはカウンター言説をぶつけて打ち消したいと感じる気持ちを抑えられません。
「公権力による強い表現規制を指向している(ように見える)人々を利さないために黙る」か「表現が及ぼす影響に伴う責任を全回避する言説に対し、カウンターとして発言をする」かのどちらかを選んだ結果として、自分は後者を選んでいることになります。
そういう選択の結果として、敵を利する者は敵であるということで僕の事を「公権力による強い表現規制をしたい派閥」と見なしたり、あるいはもっと純粋に、業界などによる自主規制にもすべて反対する立場から「少しでも表現規制に類する事を肯定する不届き者、奴隷の鎖を自慢する者」と見なしたりする人達から、僕は敵視され嫌われるのだろう、という認識はあります。

 

ところで、「公権力による強い表現規制を指向している(ように見える)人々を利さないために黙る」か「表現が及ぼす影響に伴う責任を全回避する言説に対し、カウンターとして発言をする」かのどちらかを選んだ結果として、自分は後者を選んでいるのは事実ですが、他方で僕は、「公権力による強い表現規制を指向している(ように見える)人々を批判・非難する」発言を積極的にはしていません。
これは、以下のような理由に依ります:

  • 表現規制派を強く批判する言説を述べている人が、表現の影響に伴う責任を全回避する発言をするだけでなく、表現の影響に伴う責任を説く者を馬鹿にする発言すらもしている様子を見て、「そのような人について、別の言説とはいえ支持を表明するのは癪に障る」という感情を抑えられなかった。(セレクティブ・エネミー効果
  • そもそも、観測範囲が偏っているためか、「公権力による強い表現規制を指向している(ように見える)人々」による、僕の立場からも批判・非難する必要があると感じるような言説・雑な暴論等が、肯定的な形では滅多に視界に入ってこない。(セレクティブ・エネミー効果の逆作用)
  • そのように「問題発言」本体を観測していない状況で、表現規制に強く反対する人々による反論・批判の方を先に観測する(批判の中で紹介される形で初めて目にする)ことから、そこで敢えて重ねて自分も同じ事を言う必要や、自分が追加で拡散をする必要を感じられなかった。

つまり僕の主観的には、すでに批判がなされている事には批判し、まだ批判されていない事にだけ適宜批判している、という感覚があるわけです。 (主観的な見え方を図にしたもの) 主観的には僕は、この図でいうAの立場からD批判、あるいはBの立ち位置からCを批判する発言をしているつもりだったわけです。

しかしながら、その結果を他者から観測した場合、僕がAなのであればCの愚かな言動を、僕がBなのであればDの愚かな言動を、全く咎めていないことになります。
僕の言動は「公権力による強い表現規制を指向している(ように見える)人々のするおかしな言説はスルーで、表現の影響の責任ばかりを説き、レーティングやゾーニングといった名目で結局は表現規制を推進しようとしている人」としか見えないのだ、という事を、このように改めて自分のスタンスを言語化する過程で今更ながら改めて意識しました。

以上の事を踏まえ、今後は、「表現が及ぼす影響に伴う責任を全回避する言説に対するカウンターとしての、表現の影響に伴う責任の意識と自省の必要性を訴える言説」に加えて、「公権力による強い表現規制を指向している(ように見える)人々のするおかしな言説」への批判・非難も今まで以上に、自分の言葉で行っていくようにしたいと思います。

 

そのような発言をされている方の一人として自分は、大野左紀子氏を認識しています。氏は実際に、表現の自由を尊び表現規制に反対する立場から、表現規制反対派(の一部)の言動を批判する発言をされていました。

この事例では氏が表現規制反対派と思しき人達から、表現規制を推し進める派閥の一員と見なされてケチョンケチョンに貶されている様子が窺えました。

正直に言えば自分も、いわゆるフェミニストの人達から「我々を非難するこいつは我々の敵だ」と見なされて、集中砲火を浴びる事を恐れて、表立って批判する事に無意識のうちに及び腰になっている部分があるのは否めません。
ですが、それを恐れた結果として、自分が否定的に考えている言説について、自分が沈黙し消極的に肯定していると見なされる事の方が、僕にとっては耐え難い事です。
ですので今後は勇気を持って、自分の良心に従った発言を心がけていきたいです。


2022年5月1日追記。本文中で「公権力による強い表現規制」というフレーズを何度も書きましたが、コメントで、「今の表現規制派は公権力に依らない表現規制を指向している」旨のご指摘を頂いたので、それへの返信として書いた内容を、若干加筆しつつ本文に転記しておきます。

インターネットとSNSが浸透して生活基盤と化している現代においては、
「法規制=強い表現規制」
「それ以外=弱い表現規制」
という分け方が今や時代後れである、という考え方は確かにあると思います。
大手SNS等のサービスから追い出される事や、発表の場として商業媒体を追われる事は、今や、法規制以上の強い影響力を持った強い表現規制として作用する、という事は自分も否定できません。

自分は、「本業」で生活費を得た上で余暇で表現活動をしている立場ですし、こうして自分でWebサイトを作るくらいには技術的な知識がありますし、自分で印刷してホチキス留めで製本して同人誌を作った経験もありますので、「これができなければ"表現"ができているとは言えない」と考えるラインがかなり下の方にある、あるいは「この程度の仕打ちまではされても許容せざるを得ない」と考えるラインがかなり上の方にあるのは、事実だと思います。

自分は「表現の自由」を「強制的に取り締まられることなく人前で主張を述べられることである」と考える古典的解釈をとっています。
なので、独自Webサイトなり手製本の同人誌なり、何らかの形で作品を公表する(これは、公の場で人に見せることまでの部分を意味しており、多くの人に「見てもらえる」ことまでは含んでいない事に注意が必要です)権利が確保されているなら、それは「弱い規制」で、それすら許されず取り締まられたり通信を遮断されたりするレベルのものが「強い規制」だ、と考えています。

「表現の不自由」展などで問題になったような、イベント型の表現が会場を追い出される件についても、表現がその内容によって公の施設を追い出される事は大いに問題だと考えていますが、私的な施設を追い出される分には、腹は立つものの致し方ない部分はある、と考えています。
ある表現をしたことで、食料や水など生活に必要な物資を売ってもらえないとか、住む場所を貸してもらえないとか、兵糧攻めの形で実質的に表現を行えなくなるのは、大きな問題だと自分も思いますが、極論すると、日銭を稼ぐための労働を別の形でした上で、採算が合わない形ででも表現を続けられるのであれば、「表現の自由は最低限確保されている」と言えると僕は考えています。

僕は、そのラインに抵触する話になるまで「表現の自由」というフレーズを持ち出す事には、どちらかというと否定的です。
そこまでのラインに至っていないのに「表現の自由」を無闇矢鱈に持ち出すと、別の人の自由とかち合いやすくなり(例えば、統合失調症の患者を危険人物と見なす偏見が込められた表現が広く流布することによって、雇用主や大家が「統合失調症の人と関わりたくない」と思うようになり、統合失調症の実在の患者が、職に就いたり賃貸物件を借りたりといったことができなくなる、など)、社会から「表現の自由という名前の物って、そこまで守らなくてもよくね? 贅沢な事を要求し過ぎじゃね?」と思われるようになって、勢い、僕が守られるべきと考えているラインすら守れなくなってしまうのではないか、と考えていますす。

僕がこのように考えるのは、育った時代的に、「我々オタクは社会が許容してくれる範囲で細々と表現をするのが身の丈に合っている」という感覚が、僕の価値観に深く刻み込まれてしまっているからなのかもしれません。

ただ、電気で動く人工呼吸器のお陰で生存できている難病持ちの方に、「電気は贅沢。地球環境のためには発電所はなくさねばならない。だから電気も節約せねばならない。生存するだけでも電気が必要なあなたは死んでくれ」と今更言う事が、生存権の侵害にあたるように、コネや技術的知識が無くても表現を行える環境が整った事でやっと表現の自由を行使できた人達に、「それは贅沢だ。それらが無いと表現できないあなたは表現を諦めてくれ」とは今更言えない、と僕も思います。(僕自身、現代科学の恩恵を受けてやっと生存できている側の一人なのは間違いないので。)

諸々の事を考慮した上でも、自分としてはやはり、アカウントが凍結されるわけでない・成人向け領域に隔離されはするがサービス利用は継続できるといった、レーティングやゾーニングという弱い表現規制を以て、表現の自由とそれ以外の自由とがかち合わないようにするのが、現実的な選択ではないかと思っており、結論としてはやはり、表現規制には弱く賛成する立場を取りたいと思っています。


2022年5月1日再追記。

僕は「社会的に立場の弱い人を無用に抑圧しない事」と「表現の自由がある事」の両方が重要だと考えており、その両者が衝突すると考えていて、衝突を回避するための手段として自分に想像できる範囲の方策として、「表現規制に弱く賛成」する、という順番で考えています。「表現規制だけが唯一の手段である」とは考えておらず、何かもっと別の手段があるのなら、そちらに乗り換えるのはアリだと考えています。

よって、以下のように考える方とは、建設的な議論ができるのではないかと思っています。

  • 社会的に立場の弱い人が抑圧される事と、表現の間には、因果関係もしくは相互に強化し合う何らかの関係がある。
  • 社会的に立場の弱い人が無用に抑圧されるべきではない。
  • 社会的に立場の弱い人の権利と、表現の自由は衝突する場合がある。何らかの方法で衝突を回避または解消する必要がある。

逆に、以下のように考える方とは話が噛み合わないだろうと思います。

  • 社会的に立場の弱い人などというものはいない、あるいは、社会的に立場の弱い人が抑圧される事は仕方が無い。
  • 社会的に立場の弱い人が抑圧されない権利と、表現の自由とでは、表現の自由の方が絶対に優越する。表現の自由の後退は絶対に認められない。
  • 社会的に立場の弱い人が抑圧される事と、表現の間には、全く関係が無い。

僕の事をもし「表現の自由の敵」とラベリングして攻撃する事を考えておられた方がいましたら、まずは上記の点を見て、建設的な議論が可能かどうかを一考頂ければと思います。


2022年5月2日追記。

1つ後の記事について、「主観のみに基づいて特定の表現を排除するのは抑圧であり差別だ」という趣旨の指摘を頂きました。あちらは「どういう表現を、自分はどのように問題視しているか」という事にフォーカスするようにしたつもりの記事で、それに対する「問題視した表現に対してどのような規制(対策)を是としているのか」の話はこちらの記事の方のつもりなので、この話もこちらに追記することにします。

1つ後の記事の文中の追記箇所に書いたのですが、自分は「表現が人に与える影響と規制」の話を、「地域社会の子供への接し方」に投影して考えているようです。
その例えで言うと、自分が表現規制に賛成を示す発言をしているのは、地域の中で、ある書店の店主が、大人だけでなく子供にまで過激なエロ本を売っていたとして、別の店の店主(僕)が、「子供に悪影響があるだろうが。子供には売るな」と注意しているような感覚なんだと思います。

僕はこの例えで言うなら、別に不動産収入があって道楽で本を売っているだけの店主ですので、本だけを売って生活している店主に比べると、気軽に言えてしまう状況なのは事実だと思います。
そんな僕が、子供にまでエロ本を売りでもしないと生活していけない専業書店の店主に対して「客観的根拠は無いが、子供が悪影響を受けるはずだと俺は信じているから、お前はエロ本を子供に無闇に売るな」と言っているのだ、という構図と考えれば、それ自体が「弱い者いじめで、差別だ」と見られても致し方ないと思えます。

個人的には、売り方に文句を付けるだけでなく、専業書店が子供にまでエロ本を売らなくても生きていけるように、レーティングされた大人向けの物を大人として買い支えるのが筋であろうと考えています。今、僕が比較的軽率にコンテンツにお金を支払うようにしているのは、改めて考えると、ここに繋がっているという理屈付けができるかもしれません。
(これは、無関係の話を強引にこじつけているだけかもしれません。)

 

また、規制規制と言っていますが、先の追記の通り、「完全に強力に情報への接触を遮断するべき」とまでの強い規制へのこだわりは、僕にはありません。

実際、映画業界での「PG12」や「PG15」といったレーティングは、どの程度過激な内容かといったことを示す指標ではあるものの、親が説明を加えるなどの前提があった上で、基準年齢より下の子に視聴させる事も可能であるとされています。
僕としては先の追記の通り、「規制をすること」「情報へのアクセスを遮断すること」そのものではなく「社会的に立場の弱い人への偏見の形成を避けること」の方が本来大事にしたい事ですので、規制をするにしても、その程度の「弱い」規制で充分なのではないか、というのが今の所の認識です。

エントリを編集します。

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